宣伝: 重要さの哲学と重要さの懐疑論

若手哲学フォーラムで発表するのでその宣伝。

哲学若手研究者フォーラム - 2016年度 スケジュール

7月17日11時からです。正式なタイトルは「重要であることそれ自体について: 重要さの哲学と重要さの懐疑論」です。

重要であるとはどのようなことであるのかを扱います。これを聞くと、重要であるというのがどういうことなのかわかるのでとても重要な発表です。

重要さに関する私の分析はとてもシンプルです。まず、重要さの担い手は問いです。そして問いは命題の集合です。何らかの問いが重要であるということは、問いを構成する命題が十分に大きな価値のちがいをもたらすということです。

例えば、「パーティに誰が来るのかが重要だ」という言明を考えてみましょう。この言明は、「パーティに誰が来るのか」という問いに重要さを付与しています。「パーティに誰が来るのか」という問いは、この問いの答えを構成するような命題(ないし可能性)の集合、つまり「太郎がくる」「花子がくる」などの答えの集合と見なされます。

以下の状況を考えましょう。パーティに花子が来れば最高だけど、ヒロシがきたら最悪。この場合、パーティに誰が来るのかが重要です。

命題 価値
パーティにタカシが来る 0
パーティにハナコが来る +10
パーティにヒロシが来る -8

以下のように、別に誰がきても変わらんという場合、パーティに誰が来るのかは重要ではありません。

命題 価値
パーティにタロウが来る +1
パーティにヨシオが来る +1
パーティにタカシが来る +1

私の考えでは、物や命題に重要さを帰属する場合も、問いに対する重要さの帰属が基本になります。重要な本というのは、それが出版されるかどうか、あるいは、それを読んだかどうかが重要な本です。重要な人というのは、その人がいるかどうかやその人に会ったかどうかが重要な人です*1

重要さは、人生の意味と関連して論じられてきました。後半では、人生の意味のニヒリズムとしてしばしば論じられる「何も重要ではない」という見解について、これが何を意味し、これがどのような点で問題であり、どのような議論によって正当化されるのかを見ます。

詳細には踏み込みませんが、重要さは、大きな価値のちがいをもたらすという性質なので、何も重要ではないということは、何も十分な価値のちがいをもたらさないという意味です。従って以下のいずれかが言えれば、何も重要ではないということが言えます。

  • 何も良くも、悪くもない。
  • 何も十分な価値のちがいをもたらさない。

あと、これが何で問題かというと、人生に対する真剣さを奪います。単に良いものが何もないのであれば不幸なだけですが、何も重要ではないということは、幸福でも不幸でもあまりちがいがない、別にどんな人生でも変わらないということを意味します。なので、何も重要ではないといやだなーということになります。

あとはR.M.ヘアの家に若いスイス人が遊びにきて、家に置いてあったカミュの『異邦人』を読んで、「何も重要ではない」と絶望しはじめたという愉快なエピソードなどについて話します。そんな感じで重要さについて語りあかす発表になる予定です。

*1:命題に対する重要さの帰属はもっと複雑ですが、基本には、「太郎がここにいることが重要だ」は、「太郎がここにいるかどうかが重要だ」にいくつかの意味を付け足したものになるだろうと考えています

Philip Quinn「キリスト教における人生の意味」

Philip QUinn, The meaning of life according to Christianity - PhilPapers

Quinn, Philip (2000). The meaning of life according to Christianity. In E. D. Klemke (ed.), _ The Meaning of Life _. Oxford University Press 57--64.

The Meaning of Life: A Reader

The Meaning of Life: A Reader

Klemkeのアンソロジーに入ってるやつ。

著者は人生の意味の三つのイミを区別している。

  1. 価値論的意味axiological meaning: 人生が正の価値論的意味をもつのは、ちょうど以下のときである。(i)人生が正の内在的価値をもち、(ii)人生が全体としてそれを生きる人にとって良いものである。
  2. 目的論的意味teleological meaning: 人生が正の目的論的意味をもつのは、ちょうど以下のときである。(i)人生が目的を含み、それを生きる人がその目的をトリビアルでなく、達成可能であると見なし、(ii)それらの目的は正の価値をもち、(iii)人生はそれらの目的の達成を目指し、熱意をもって遂行されるような行為を含む。
  3. 完全な意味complete meaning: 人生が正の完全な意味をもつのは、人生が正の価値論的意味と正の目的論的意味をもつちょうどそのときである。

人生そのものは物語ではないが、人生の中の出来事は物語られうる。キリスト教は歴史を重要とする宗教なので、その伝統において物語は重要な役割を果す。キリスト教の信者は、キリストの物語を模範として、人生を生きようとする。

著者はキルケゴールを引いて論じるが、キリストを模範とするということは、自らを地上におとしめ、迫害などの苦しみを受ける覚悟をもつということである。単なる崇拝者とはちがい、リアルなクリスチャンは、善をなそうとし、厳しい苦しみを覚悟しなければならない。

こうした生き方は、人生に正の目的論的意味を付与するだろう。ただし、こうした人生は苦しみに満ちたものなので、正の価値論的意味は欠如している。しかし、キリスト教は死後の復活を約束しているので、それによって価値論的意味もえられる。

さらに、キリスト教は、神の王国の到来を約束し、個々人を越えた人類全体の運命も教えてくれる。またキリスト教の宇宙観は意味の欠如したむなしいものではなく、神によるすべてのものへの愛に満ちたものである。

以上のようにキリスト教はいい感じで、人生の意味を与えてくれる。クリスチャンは、キリスト教こそ人生の意味に関する最上のストーリーを与えてくれると信じてもいいが、慎しさをもち、キリスト教内の多様な解釈や、他の宗教への寛容ももたなければならない。

Kendall Walton「想像による聴取 - 音楽は表象するか?」

Kendall Walton, Listening with imagination: Is music representational? - PhilPapers

ウォルトンの音楽論。この論文の発展版が「ソウトライティング」なので、以下と合わせて読むのがよい。

Kendall Walton「ソウトライティング - 詩と音楽における」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

In Other Shoes: Music, Metaphor, Empathy, Existence

In Other Shoes: Music, Metaphor, Empathy, Existence

  1. 楽経験における想像
  2. ちがい
  3. 想像的感覚
  4. 表出は表象か?: 作品世界なきゲーム世界

絵画や小説は表象であり、何らかの光景や出来事を描く。一方、音楽はそれとはちがうと言われる。歌詞やタイトルなどはともかく、器楽曲は何も表象しないと。

しかし、改めて考えるとこれは自明とは言えない。音楽は表出的である。楽しげな楽曲や陰鬱なメロディや軽やかなリズムなどなどがある。表出は、表象の一種ではないのか?

また、表出に関する喚起説arousal thoryは近年では人気がない。楽しげな楽曲を聴けば必ず楽しくなるわけではない。多くの論者は、「楽しさ」や「悲しさ」を鑑賞者ではなく、音楽の「中」に位置づける。しかし、それって、音楽が悲しさや楽しさを表象しているということではないのか?

また、次のような問題もある。楽しさや悲しみは必ず、誰かの楽しさや悲しみだろう。しかし、楽曲に表出された楽しさや悲しみは、誰の楽しさや悲しみだろう。小説の語り手のように、音楽にも虚構の音楽的語り手がいて、楽曲はその語り手の楽しさや悲しみを伝えているのだろうか。

ウォルトンによれば、絵画が想像上の光景を見るという想像経験を与えるように、音楽は想像上の感覚を与える。楽しげな音楽を聴く人は、自分が楽しさを感じているところを想像する。もちろん、実際に楽しくなって楽しさを感じてもかまわないし、少なくとも、理想的な鑑賞経験においては、楽しさを感じているような、想像によるシミュレーションをしなければならない。

音楽作品における表出は、上記のような自己想像への指図であるとされる。合わせて、聴覚がなぜ感覚の表現に適したものなのかという議論がなされるが、この辺は非常におもしろい。

なお、ウォルトンは、フィクションにおいて、あらゆる鑑賞者に共通する作品世界と、鑑賞者の自己想像を含むゲーム世界を区別している。

例えば、ホームズ小説の場合、「ホームズとワトソンが出会う」などのように、鑑賞者と関係ない虚構的真理は作品世界に属するとされる。一方、鑑賞者は、自分がワトソンの手記を読んでるかのように想像したり、あたかも自分がホームズを尊敬するかのように想像する。後者は、鑑賞者のゲーム世界に属する。

  • 作品世界: ホームズとワトソンが出会う(と想像する)
  • ゲーム世界: 私はワトソンの手記を読んでる(と想像する)。私はホームズを尊敬する(と想像する)。

音楽作品の場合、自分が何らかの感覚を感じるという自己想像しかないため、作品世界はなく、ゲーム世界しかない。

この立場では、小説・絵画などの典型的表象芸術と、音楽のちがいは、音楽にはゲーム世界しかないということだったと解釈される。

Guy Kahane「もし何も重要でないならば」

Guy Kahane, If Nothing Matters - PhilPapers

Kahane, Guy (2016). If Nothing Matters. Noûs 50 (2):n/a-n/a.

重要なものがいっさい存在しなければ、何がどうなるのかを論じている論文。

この著者には、Our Cosmic Insignificanceというすばらしい論文があるのだが、これもおもしろかった。

at-akada.hatenablog.com

目次

  1. どのようにして、ニヒリズムが真でありえるのか
  2. ニヒリズムの説明
  3. 恐れるものはない
    1. 世界のおわり?
    2. 理由なき懸念?
  4. ニヒリズムは何のちがいももたらさないのか?
    1. ニヒリズム保守主義
    2. 本当に何も重要でないとしても、同じようにやっていくのか
    3. ニヒリズム後の道具的理性
    4. ニヒリズム後の主観的懸念
    5. ニヒリズム後の評価的信念
    6. 評価的信念と主観的懸念
    7. 主観的懸念と価値
  5. 価値なき人生
    1. 単なる動物的もがき
    2. アパシーとマヒ
    3. 死に近いもの
  6. 本当に恐れるべきものは何か

評価的ニヒリズム

著者は、何も重要でないという状態を以下の二つの状態の組み合わせと同一視している*1

道徳に関する誤謬説の支持者はしばしばこれと似たことを主張する。私たちの道徳についての語りは、道徳的価値の実在を認めるので、厳密には偽である。道徳的価値などいっさいないが、道徳は便利なフィクションである。

ここでは、この誤謬説をもっと推し進めてみよう。私たちの価値についての語りは、価値の実在を認めるので、道徳的価値に関するものであろうとなかろうと、すべて偽であると考えたらどうだろう。さらに、理由に関する語りもすべて偽であると考えたら。

ここでの問い

誤謬説の支持者は、多くの場合、価値についての信念を捨てても、われわれは以前と変わらずに生きるだろうと考える。しかしグローバルな評価的ニヒリズムの場合、これはほとんどありそうにない。あるいは、少なくとも著者はそう主張する。

まずここで問題になっているのは、評価的・規範的な問いではなく、経験的な問いである。評価的・規範的な観点について言えば、いっさいの価値がない状態は、良くも悪くもない。評価的ニヒリズムの帰結は、何も良くないし、悪くもないということだからだ。

多くの人は、何も重要ではないという事態を恐れ、懸念するが、心配する理由は何もない。心配しない理由もない。何をする理由もないのだ。すべきこともないし、すべきでないことも無い。世界の終わりであるかのようにはしゃぐ理由もないし、はしゃいではいけないという理由もない。

誤謬説の支持者は、あたかも道具的理性だけは手付かずに残るかのように「価値は依然として便利なものだ」と言うが、グローバルな評価的ニヒリズムが真であれば、これもおかしい。価値ある目的もいっさいないのだから、道具的理性も消えてなくなる。より良い手段を採用する理由ももはや無い。道徳に社会秩序を維持する機能があっても、社会秩序も重要ではない。

一方、著者が問うているのは、グローバルな評価的ニヒリズムを信じることが因果的に何をもたらすのかということだ。評価的ニヒリズムを全面的に信じるようになったとき、私たちは他に何を信じ、どんな生活を送るのだろう。

ニヒリズムの帰結

著者によれば、以下の帰結がもっともらしい。

  • 評価的信念の喪失
  • 主観的懸念の喪失

まず、すべての評価的信念は誤っているという信念と、あれやこれやの事柄には価値があるという信念は相性が悪そうだ。もちろん矛盾した信念を持つことも可能だろうが、少なくとも、「何も価値がない」と信じる人が、友情や名誉に高い価値を付与する事例は多くないだろう。このため、著者は評価的信念の喪失をありそうな帰結としてあげる。

さらに、評価的信念と主観的懸念は、おそらくある程度は相関するだろうと想定される。友情や名誉に価値を置かない人は、友情や名誉を気にかけることも少ないだろう。これも、必然的とは言えないかもしれないが、両者がまったく相関しないという想定は奇妙なものだ。

もちろん、評価的信念のいっさいを失ったあとでさえ、私たちはおそらく目の前の苦痛を避けるだろう。身体的快をめざすこともあるかもしれない。それらの反応はほとんど自動的なものだ。しかし、長期的な計画にはもはや取り組まないだろう。極端な話、ベッドから出る理由がもはやないと信じながら、あなたはベッドから出るだろうか? 私には、その自信はない。評価的ニヒリズムを信じるようになったあと、私たちには、動物のような生活だけが残されるのかもしれない。

パスカル的マトリクス

何も重要でない 何か重要である
何か重要であると信じる -
何も重要でないと信じる - ×

著者は上記のようなパスカル風の表に訴えて、評価的ニヒリズムを信じない方が合理的であると論じている。もしニヒリズムが真であれば、何かが重要であると誤って信じていても、何も重要でないと正しく信じていても、何のちがいもない。正しければ良いとは言えないわけだし、どちらにしても、良くも悪くもない(上の表の「-」の部分)。

一方、私たちの価値に関する信念が万が一真であれば、ニヒリズムを信じることは大変な損失をもたらす。著者の議論が正しければ、私たちは皆無気力になってしまう。一方、価値に関する信念がおおむね真であれば、私たちは多くのものを得るだろう。

つまり、重要なものがあるという可能性がわずかでもあれば、ニヒリズムを信じない方が得だ。ニヒリズムを信じて得るものは何もないが、ニヒリズムを信じなければ得るものがある。

もちろんこの議論には、すでにニヒリズムを信じている人を説得する力はないわけだが。迷ってるなら、価値の存在に賭けた方が良いとは言えるかもしれない。

*1:本当はこれには問題があって、価値はあるが重要なものはない状態や、理由はあるが重要なものがない状態もあると思うが

G.K.チェスタトン「おとぎの国の倫理学」

G. K. Chesterton, The Ethics of Elfland - PhilPapers

Chesterton, G. K. (2008). The Ethics of Elfland. The Chesterton Review 34 (3/4):443-460.

正統とは何か

正統とは何か

『正統とは何か』Orthodoxyの3章。最初の出版年は1908年のはず。意外にもphilpapersのリンクがあった。

これは論文ではなく、エッセイのような気もするがまじめに読む。

ここでチェスタトンはおとぎの国(elfland)の優先性を論じている。おとぎ話の優先性とは、おとぎ話からえられる倫理と哲学こそ、他の思想に優先するということである。チェスタトンはおとぎ話からえられる原理によって、唯物論・機械論・進歩主義などを批判する。「おとぎ話は空想ではない。おとぎ話に比べれば、ほかの一切のもののほうこそ空想的である。おとぎ話に比べれば、宗教も合理主義もともにきわめて異常である。」(p.78)

だいぶ省略するが、おもしろいのは、唯物論・機械論の否定の箇所である。

必然性

チェスタトンによれば、おとぎ話の世界には論理的必然性というものはあるが、物理的必然性や自然法則などというものはない。

「おとぎの国では、すべてを想像力の基準によって判断する」。「二本と一本で木が三本にならないなどということは、とても想像することさえできはしない。」(p. 81)

論理的必然性または形而上学的必然性は、おとぎ話でも有効であるが、物理的必然性や自然法則と呼ばれるものは真正の必然性ではない。リンゴが木から離れることと、リンゴが地面に落ちることの間には必然的なつながりはない。リンゴがそのまま自由に飛んでいくことは想像できるし、十分に可能だからだ。本来、必然性と呼ぶに値するのは、想像の法則である論理的必然性だけに限定される。

では、なぜ自然は斉一であり、同じことを繰返すのか? それは魔法だからである。木から離れたリンゴは、必然的に落下しなければならないわけではない。もし毎回落下するとすれば、それは魔法であり、奇跡である。私たちは本来、自然のすべての所業に対して驚異すべきなのである。

機械論的世界観の否定

ところが、このおとぎ話の哲学を忘れ、現代(20世紀初頭)には、機械論的・唯物論的世界観がはびこってしまっている。

機械論的世界観に対する反論はなかなか愉快なものだ。チェスタトンによれば、機械論的世界観の前提は、反復は機械的というものである。この前提によれば、もし宇宙に生命があり、人格的なものであれば、宇宙はもっと変化しつづけ、突然踊りだすにちがいないというのだ。しかし、現に自然は斉一なのだから、この宇宙は決定論的な宇宙であり、機械的に法則に従うだけだろうと。

  1. 反復は機械的なものである。
  2. この宇宙は斉一であり、反復を繰り返す。
  3. よって、この宇宙は機械的な宇宙である。

ところが、この前提はまちがっている。反復は生命であり、変化をもたらすのは、むしろ飽きや疲れである。

子供はいつでも「もう一度やろう」と言う。大人がそれに付き合っていたら息もたえだえになってしまう。大人は歓喜して繰り返すほどの力を持たないからである。しかし神はおそらく、どこまでも歓喜して繰り返す力を持っている。きっと神様は太陽に向かって言っておられるのにちがいない------「もう一度やろう。」p.100

つまり、神は小学生よりもテンションが高いので何でも繰り返す。神が歓喜してアンコールを繰り返すために、自然は反復する。

唯物論的な宇宙観---広大な宇宙のイメージも否定される。チェスタトンによれば、私たちは好きなものに対して指小辞をつけて、小さなものと呼ぶ。相手が象であっても同様にリトルエレファントなどと呼びかける。

その理由は何か。どれほど巨大な物であっても、一つのまとまりを持った物と感じられる時、小さいという感じがするからだ。p.105

そしてチェスタトンは、あきれるくらい宇宙が好きなので、宇宙がひとつのまとまりを持った物として感じられるし、宇宙は実に小じんまりとしているという。

なお、宇宙の広さと人間のとるにたらなさというのは人生の意味などに関連して繰り返されるテーマだ。多くの哲学者は、宇宙の物理的な広さなんて関係ないんだという。しかし、私の知るかぎり「宇宙は小さいんだ」と言って反論したのはチェスタトンひとりではないかと思う。

Yitzhak Benbaji「道徳的なもの、個人的なもの、私たちが気にしていることの重要さ」

Yitzhak Benbaji, The moral. The personal, and the importance of what we care about - PhilPapers

Benbaji, Yitzhak (2001). The moral. The personal, and the importance of what we care about. Philosophy 76 (3):415-433.

フランクファートの論文へのリプライ。

Harry Frankfurt「私たちが気にしていることの重要さ」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

  1. CIPを擁護するフランクファートの論証
  2. CIPと道徳的なものと個人的なもののジレンマ

CIP(Frankfurt's Care-Importance Principle)とは、以下のような原則のこと

何かを気にかけているのであれば、それがその人にとって重要であることが導かれる。これは気にかけることが重要さに関する不可謬の判断を含むからではない。何かを気にかけることは、それをその人にとって重要なものにするからである。

CIPのもとでは、以下が必然的に成り立つ。

pがXを気にかける→ Xはpにとって重要である。

著者はこれに反対している。私たちは一般に重要でない物事を自分たちにとって重要なものにすることができる。しかし時折失敗することもある。要するに、フランクファートは重要さについての主観説とでも言うべき立場を支持しており、著者はそれを批判している。

フランクファートの言うような重要さの創出が説得力をもつ事例は確かにあって、それは著者も認めている。

例えば、友人の健康が私にとって重要なのは、私が友人のことを気にかけているからだ。フランクファートによれば、愛することの一部は気にかけることによって構成される。このケースでは、元々重要だから気にかけているというわけではなく、気にかけているから、重要になったのだというのは正しそうだ。

しかし、重要でないことを気にかけてしまうこともある。例えば、私が、友人は雨を嫌うだろうと考え、友人が雨にぬれるかどうかを気にしているとしよう。しかし、これはただの誤解であり、友人は雨にぬれることが結構好きだった。

この場合、私は、重要でないことを気にしている。私は、誤った信念に基づいて、非合理的な仕方で気にかけていた。フランクファートのようにCIPを全面的に認めると、気にかけることの合理性の評価は、意味をなくしてしまう。

さらにこれは私の動機に反する。友人が雨にぬれるかどうかが私の心配とは独立に重要なことだと思ったからこそ、私はそのことを気にかけていたのだ。私が気にかけることによってそれは重要なことになったのだと言われても、私の心配は正当化されないだろう。

スタンフォード哲学事典「価値理論」

Value Theory (Stanford Encyclopedia of Philosophy)

ちょっと前に読んだ。

著者は良さ優先説good-first theoryと価値優先説value-first theoryを区別している。普通、「良さ/悪さ」と「価値」は区別されないが、両者のどちらが優先されるかを区別する文脈があるようだ。この辺ややこしかったので整理しておく。

問題は、著者が価値言明と呼ぶ、特殊なタイプのgoodの用法について。

  • 快は良いものである。Pleasure is good
  • 知識は良いものである。Knowledge is good

なぜ、これが特殊かと言えば、「良いダンサー」などとちがい、快と知識のどちらが良いかは比較できないように思われるから。一定量の快と知識の比較ならともかく、量を限定せずに快と知識の良さを比較することは意味をなさないだろう。

良さ優先説によれば、価値言明は、「快を得ることは、快を得ないこともよりも良い」「知識を得ることは、知識を得ないことよりも良い」ということを意味する。この立場によれば、価値の第一の担い手は、「知識を得ること」のような事態であり、価値言明は、事態が例化する良さという性質によって説明される。

一方、価値優先説によれば、価値言明は、「快は価値あるもの*1である」「知識は価値あるものである」ことを意味する。また、より多くの価値あるものがあることは、より良いことだとされる。この立場によれば、価値の第一の担い手は、快や知識などの性質、あるいはその例化物である。この立場では、良さ優先説と反対に、良さは、価値言明によって説明される。

まとめると、

  • 良さ優先説: 価値の基本的な形は、事態が〈良さ〉という性質をもつこと。
  • 価値優先説: 価値の基本的な形は、快や知識のような価値あるものvaluesがたくさんあること。

*1:「価値あるもの」の原語は可算名詞のvalues。非可算名詞のvalueは「価値」と訳している