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毎日ちょっとずつ判断力批判を読んでいる*1。主観では『純粋理性批判』より難しく、わからなさすぎてつらくなってきたので、二次文献でも勉強することにした。
というわけで、スタンフォード哲学事典の「カントの美学と目的論」を読む。
なかなかためになる記事で、何度か読んでもチンプンカンプンだった演繹論の箇所がちょっとわかったのでまとめておく。
カントの場合、演繹論というのは、判断の正当性を示す議論のことだ。『判断力批判』では美的判断(趣味判断)の演繹論がなされている。
美的判断の例としては、ある個別の絵などが美しいという判断を考えよう。美的判断は以下のような特徴をもつ。
- 主観的な快の感情にもとづくものであって、認識判断ではない。
- 一方、普遍妥当性を要求し、万人の同意を求める。しかもこの妥当性の要求はアプリオリなものである。
何かが美しいというのは、「四角い」とか「緑色の」などとちがい、対象の特徴ではないように思われる。一方私たちは、美について不同意を形成し、議論したり、説得したりすることもある。
美的判断の演繹論というのは、「なぜこのような特徴をもった判断が正当なものでありえるのかを説明しなさい」という問題に答えるものだ。
伝統的には、1の側面を強調すると、美の反実在論/主観主義の立場になり、美的判断は欲求や感情の表出と見なされる。この場合、2の側面については否定され、普遍妥当性の要求は錯覚だという方向になる。
一方、2の側面を強調すると、美の実在論/客観主義の立場になり、美的性質は対象の所有する性質と見なされる。この場合、1の側面は否定され、美的判断は通常の認識判断と何ら変わりなくなる。
普通はそのどちらかなのだが、カントは何とか両者のいいとこどりで行きたいらしい。個人的には、近年流行っている趣味の不同意の問題などにも関心があるので、これはなかなか興味深い問題ではある。
カントの解決
この問題に対するカントの解決は、かの有名な想像力のフリープレイ(構想力の自由な戯れ)というやつだ。
普通の認識判断では、想像力が知性(悟性)の規則に従って直観をとりまとめ、結果として、対象に何らかの概念が適用され、知覚的に経験される。「これは緑だ」とか「これは四角い」という経験は、対象の直観を、「緑」「四角い」などの概念のもとに包摂する経験だ。
ところが、美的判断の場合、適用すべき概念がない。この場合、想像力は知性によって制約されず、自由にはたらく。対象には何の概念も適用されず、ただ直観の能力(想像力)が概念の能力(知性)へと直接的に包摂される。結果として、快が生じ、対象が美しいものして経験される。
普遍妥当性の要求は、美的判断においても、想像力と知性の調和が生じるということから帰結する。というのも、これは認知一般の主観的条件だからである。この際、カントはおそらく、認知の主観的条件が成り立てば、普遍妥当性を要求してよいだろうということを前提にしている。
例えば、ものが緑に見えた場合、私は「これは緑だ」という知覚を万人が共有すべきであると要求する資格をえる。少なくともそのような要求は理解可能なものだろう。これと同様に、「これは美しい」という知覚が生じた際にも、万人の同意を要求してよい。
つまり、論証の形で書くと、以下のようになる。
- 認知の主観的条件が成り立てば、普遍妥当性を要求してよい。
- 美的判断に関しては、(想像の自由な戯れという特殊な形でだが)認知の主観的条件が成り立つ。
- よって、美的判断に関して、普遍妥当性を要求してよい。
一方、美的判断の場合、概念が適用されないので、通常の認識判断ではありえない。このような形で、1の側面と2の側面は両立させられる。
要するに、美的判断は、概念が適用されないのに、認知の主観的条件が成り立ってしまうような、判断の特殊事例なんだよというようなことであるらしい。
気になる点
ただし、美的判断の正当性がどの程度のものになるのかは気になるところだ。ひとつの解釈だと、カントの立場は「人が美を普遍妥当性をもつもののように感じてしまうことは、間違っているが、間違えるのも仕方ない」というある種の錯誤説のようにも思われる。この場合、美的判断の正当性の擁護は、あくまでも暫定的なものにとどまるだろう。
一方、正当性をもっと完全に認めるような立場も想定することはできそうだ。概念なき判断の場合、判断の適切性条件や主張可能性条件も、通常の認識判断とは異なるのかもしれない。私が美的判断に同意を求めることは、単なる錯誤ではなく、実際に適切なことであるのかもしれない。
個人的には、後者の方が興味深いが、解釈としてはちょっと難しい気もする。