『判断力批判』の美的判断の演繹論

ワイド版世界の大思想 (〔第1期〕6)

ワイド版世界の大思想 (〔第1期〕6)

判断力批判

判断力批判

毎日ちょっとずつ判断力批判を読んでいる*1。主観では『純粋理性批判』より難しく、わからなさすぎてつらくなってきたので、二次文献でも勉強することにした。

というわけで、スタンフォード哲学事典の「カントの美学と目的論」を読む。

なかなかためになる記事で、何度か読んでもチンプンカンプンだった演繹論の箇所がちょっとわかったのでまとめておく。

カントの場合、演繹論というのは、判断の正当性を示す議論のことだ。『判断力批判』では美的判断(趣味判断)の演繹論がなされている。

美的判断の例としては、ある個別の絵などが美しいという判断を考えよう。美的判断は以下のような特徴をもつ。

  1. 主観的な快の感情にもとづくものであって、認識判断ではない。
  2. 一方、普遍妥当性を要求し、万人の同意を求める。しかもこの妥当性の要求はアプリオリなものである。

何かが美しいというのは、「四角い」とか「緑色の」などとちがい、対象の特徴ではないように思われる。一方私たちは、美について不同意を形成し、議論したり、説得したりすることもある。

美的判断の演繹論というのは、「なぜこのような特徴をもった判断が正当なものでありえるのかを説明しなさい」という問題に答えるものだ。

伝統的には、1の側面を強調すると、美の反実在論/主観主義の立場になり、美的判断は欲求や感情の表出と見なされる。この場合、2の側面については否定され、普遍妥当性の要求は錯覚だという方向になる。

一方、2の側面を強調すると、美の実在論/客観主義の立場になり、美的性質は対象の所有する性質と見なされる。この場合、1の側面は否定され、美的判断は通常の認識判断と何ら変わりなくなる。

普通はそのどちらかなのだが、カントは何とか両者のいいとこどりで行きたいらしい。個人的には、近年流行っている趣味の不同意の問題などにも関心があるので、これはなかなか興味深い問題ではある。

カントの解決

この問題に対するカントの解決は、かの有名な想像力のフリープレイ(構想力の自由な戯れ)というやつだ。

普通の認識判断では、想像力が知性(悟性)の規則に従って直観をとりまとめ、結果として、対象に何らかの概念が適用され、知覚的に経験される。「これは緑だ」とか「これは四角い」という経験は、対象の直観を、「緑」「四角い」などの概念のもとに包摂する経験だ。

ところが、美的判断の場合、適用すべき概念がない。この場合、想像力は知性によって制約されず、自由にはたらく。対象には何の概念も適用されず、ただ直観の能力(想像力)が概念の能力(知性)へと直接的に包摂される。結果として、快が生じ、対象が美しいものして経験される。

普遍妥当性の要求は、美的判断においても、想像力と知性の調和が生じるということから帰結する。というのも、これは認知一般の主観的条件だからである。この際、カントはおそらく、認知の主観的条件が成り立てば、普遍妥当性を要求してよいだろうということを前提にしている。

例えば、ものが緑に見えた場合、私は「これは緑だ」という知覚を万人が共有すべきであると要求する資格をえる。少なくともそのような要求は理解可能なものだろう。これと同様に、「これは美しい」という知覚が生じた際にも、万人の同意を要求してよい。

つまり、論証の形で書くと、以下のようになる。

  1. 認知の主観的条件が成り立てば、普遍妥当性を要求してよい。
  2. 美的判断に関しては、(想像の自由な戯れという特殊な形でだが)認知の主観的条件が成り立つ。
  3. よって、美的判断に関して、普遍妥当性を要求してよい。

一方、美的判断の場合、概念が適用されないので、通常の認識判断ではありえない。このような形で、1の側面と2の側面は両立させられる。

要するに、美的判断は、概念が適用されないのに、認知の主観的条件が成り立ってしまうような、判断の特殊事例なんだよというようなことであるらしい。

気になる点

ただし、美的判断の正当性がどの程度のものになるのかは気になるところだ。ひとつの解釈だと、カントの立場は「人が美を普遍妥当性をもつもののように感じてしまうことは、間違っているが、間違えるのも仕方ない」というある種の錯誤説のようにも思われる。この場合、美的判断の正当性の擁護は、あくまでも暫定的なものにとどまるだろう。

一方、正当性をもっと完全に認めるような立場も想定することはできそうだ。概念なき判断の場合、判断の適切性条件や主張可能性条件も、通常の認識判断とは異なるのかもしれない。私が美的判断に同意を求めることは、単なる錯誤ではなく、実際に適切なことであるのかもしれない。

個人的には、後者の方が興味深いが、解釈としてはちょっと難しい気もする。

*1:最初は熊野訳で読んでたけど、何となく読みづらいなと思って、kindle版もある「ワイド版世界の大思想」にした。頻繁に目次に戻るので、kindle版は助かる。

Joel Feinberg「不条理な自己実現」

Joel Feinberg, Absurd self-fulfillment - PhilPapers

Feinberg, Joel (1980). Absurd self-fulfillment. In Peter van Inwagen (ed.), Time and Cause. D. Reidel 255--281.

absurdの訳で悩むのだが「不条理」と「アホらしさ」を使いわけることにする。不条理だけだと、コミカルな要素がまったくなくなるのが厳しい。ちなみにabsurdの意味合いは論者によってかなりちがうのだが、ネーゲルは明確にコミカルな意味を念頭に置いている。

これは難しい論文で、よくわからなかったため、以下のサイトも参照した。

Summary of Joel Feinberg’s, “Absurd Self-Fulfillment”

基本的な内容は、

  1. リチャード・テイラーカミュネーゲルの「人生の不条理・アホらしさ」を巡る検討。不条理を様々に区別しつつ、批判的に検討するが、著者は何らかの意味ですべての人生が不条理であることは認めるらしい。
  2. 自己実現・自己充足の分析。すべての人生がある意味で不条理であるとしても、それでも自己実現は可能であるし、それでかまわないという主張を擁護している。

著者は、不条理を(1)不合理、(2)主観的視点と客観的視点のギャップから生じるネーゲル的アホらしさ、(3)目的の欠如pointlessness、(4)無駄に終わることfutility、(5)取るに足らないことtriviality(努力に見合わない、しょうもない結果しか生まない労働)などによって特徴づける。

カミュテイラーは、有名なシーシュポスの神話ーー神々の怒りをかったシーシュポスは岩を山の上に運び、岩が転落してまた山の上に運ぶという労働を繰り返すーーを参照し、すべての生はシーシュポスのような目的なき、バカげた繰り返しだという。人生は目的なき反復で、最後にはただ死が待っている。何をえても最後にはなくなってしまう。人間は、秩序と意味を求めるが、宇宙はそれに答えてくれず、われわれは疎外される。

ネーゲルによれば、アホらしさは視点のギャップから生じる。私たちは自分の人生を重要なものと見なさざるをえないが、宇宙的視点から見れば、それらは取るに足らない。われわれの生は、視点を変えれば、つねにどうしようもない茶番である。

著者はこれらの主張を受け入れつつも、不条理/アホらしさは相対的な問題だとしている。宇宙的視点から見れば茶番にすぎないとしても、自己実現は可能だ。著者は自己実現を、本性の発揮として捉える。例えば、シーシュポスに岩運びの才能があれば、シーシュポスはその才能を発揮し、創意工夫して、様々な形で岩を運ぶことができる。こうした場合、シーシュポスは依然としてアホらしい・不条理な人生を歩むが、その人生は自己実現の過程とも見なすことができるだろう。

著者は、不条理は必ずしもマイナスではないと捉える。論文の最後では、人間の存在の根底にちょっとしたジョークがあることは、ある意味素敵なことではないかと示唆されている。

Quentin Smith「道徳的実在論と無限の時空間は道徳的ニヒリズムを含意する」

Quentin Smith, Moral Realism and Infinite Spacetime Imply Moral Nihilism - PhilPapers

Smith, Quentin (2003). Moral Realism and Infinite Spacetime Imply Moral Nihilism. In Heather Dyke (ed.), Time and Ethics: Essays at the Intersection. Kluwer Academic Publishers 43--54.

  1. すべての経験的に可能な行為は道徳に無関係
  2. 時空間が無限の宇宙における、道徳的ニヒリズムのいくつかの帰結
    1. 人の死は生よりも価値がある
    2. 人生は無駄である
    3. 誰も生命の権利をもたない
    4. 人には内在的尊厳はない
  3. 宗教哲学における帰結
  4. 道徳的ニヒリズムを擁護する論証への反論
    1. ひとつめの反論
    2. ふたつめの反論
    3. みっつめの反論
    4. よっつめの反論
  5. ニヒリスト的生の生き方

この宇宙には無限の善があるので、われわれが何をしても何も変わらないし、道徳的に正しい行為も不正な行為もないという主張を擁護している。まず、著者は、どこかの科学記事で、最新の宇宙論では未来は無限らしいというのを見たらしく、以下の議論では未来が無限であることが前提になっている。

著者が擁護しているグローバルな道徳的実在論によれば、あらゆるものに価値がある。石にも山にも星にも空間にも価値がある。人間は、石や山や空間より価値があるかもしれないが、石や山や空間の価値は0ではない。「環境倫理が人間の倫理の拡張であるように、グローバルな道徳的実在論環境倫理の拡張である」らしい。

一方、宇宙には無限の空間と無限の石や山があり、未来は無限であるので、宇宙にはアレフ0の価値がある。

著者によれば、ある行為が道徳的に義務的であるのは、その遂行が正の価値を増やすか、正の価値の減少をさまたげるときである。ところが、残念ながらこの宇宙にはすでに無限の価値があり、今後永久に無限の価値がありつづけるので、そのような行為は存在しない。

私が人助けをしたとしよう。私の人助けによってもたらされる価値を10とすると、アレフ0+10はアレフ0なので、私の行為は1ミリも宇宙を改善しない。人助けしてもしなくても何も変わらない。反対に、暴力や殺人などによっても、宇宙に含まれる価値の総量はまったく変化しない。

この立場では、道徳的に義務的な行為は存在しないので、あらゆる行為は道徳的に許される。さらに、すべての人の人生は無駄であり、誰も生命の権利をもたず、誰も人格的尊厳をもたないなどの帰結がある。また、著者によれば、道徳的ニヒリズムが真であることから、神が存在しないことが帰結するらしい。

一応、最後に、ではどうやって生きればいいのかという話が(数行分)出てくるのだが、普段は真実は忘れて感情のままに生き、たまに冷静に反省したときだけ真実を思い出せばいいのではないかということだった。

R.M.ヘア「何も重要ではない」

Applications of Moral Philosophy

Applications of Moral Philosophy

上の本に収録されている講演。この本は日本語訳も昔『倫理と現代社会』というタイトルで出てるんだけど、入手困難で、amazonでは見つからなかった。

ヘアはこの論文(講演)をスイス人の友人の話からはじめている。ある時、ヘアの家に遊びにやってきた18才のスイス人が、家にあったカミュの『異邦人』を読んで「何も重要ではないnothing matters」と絶望しはじめたという。すわ、哲学が役に立つぞと思ったヘアは、「重要である」という語の機能は、何かに対する懸念concernを伝えることにあると伝えた。懸念はつねに誰かの懸念である。このため、何かが重要であるとか重要でないと言われるとき、私たちは、それが誰の懸念に関するものなのかをたずねなければならない。

フィクションの登場人物はともかく、みんな何かを気にかけているし、このスイス人も、何かを気にかけている。だから、何も重要ではないことなんて無いんだよと。ヘアの説得は功を奏し、友人はすっかり元気になって朝食をたくさん食べたという。

重要さに関するヘアの立場はおそらく以下のようなものだ。

  1. 端的な重要さは意味をなさない。重要なものは、つねに、誰かにとって重要なものである。
  2. 何かがxにとって重要である iff xはそれを気にかけている。

ヘアにとって、重要さとはつねに誰かにとっての重要さである。また誰かが何かを懸念しているなら、それはその人にとって必ず重要なものである。「何も重要ではない」と言いながら、さまざまなことを気にかけることは、「どこか矛盾している」。

この背景には価値についての主観説があると思われる。実際、講演の後半では、ヘアは、価値の主観説を擁護し、客観説を、まったく意味をなさない立場として退けている。

これに対するパーフィットの批判を見てみよう。On What Mattersで、パーフィットはヘアを批判して以下のように言っている。

「重要である」という語には、ヘアが理解しなかった意味がある、と私は信じる。物事は、その本質がそれらを気にかける理由を与えるという意味において、重要でありえる。Parfit2011, p.411

パーフィットは客観説を支持しているので、ヘアに厳しいのだが*1、それはそれとしてこの批判にはもっともらしい部分がある。重要さは、あくまでも対象を気にかける理由を与えるのであって、ヘアのように、気にかけることと重要さを直接結びつける必要はない。ヘアのような立場だと、合理性や規範性に訴えて、重要さについて反省するという側面が完全に無視されてしまう。

例えば、私たちは十分な情報をえていない、合理的に熟慮していないなどのために、自分にとってすら重要でないものを気にかけてしまうことがある。ヘアの立場だとその辺が全部捨てられてしまうのがちょっと。

スイス人の若者は、こんな素朴な立場に簡単に説得されず、もっとがんばってほしかった。

*1:正確に言えば、パーフィットは理由についての客観説を取っていて、価値や重要さの規範性は理由の規範性に還元されるという立場だと思う。

宣伝: 重要さの哲学と重要さの懐疑論

若手哲学フォーラムで発表するのでその宣伝。

哲学若手研究者フォーラム - 2016年度 スケジュール

7月17日11時からです。正式なタイトルは「重要であることそれ自体について: 重要さの哲学と重要さの懐疑論」です。

重要であるとはどのようなことであるのかを扱います。これを聞くと、重要であるというのがどういうことなのかわかるのでとても重要な発表です。

重要さに関する私の分析はとてもシンプルです。まず、重要さの担い手は問いです。そして問いは命題の集合です。何らかの問いが重要であるということは、問いを構成する命題が十分に大きな価値のちがいをもたらすということです。

例えば、「パーティに誰が来るのかが重要だ」という言明を考えてみましょう。この言明は、「パーティに誰が来るのか」という問いに重要さを付与しています。「パーティに誰が来るのか」という問いは、この問いの答えを構成するような命題(ないし可能性)の集合、つまり「太郎がくる」「花子がくる」などの答えの集合と見なされます。

以下の状況を考えましょう。パーティに花子が来れば最高だけど、ヒロシがきたら最悪。この場合、パーティに誰が来るのかが重要です。

命題 価値
パーティにタカシが来る 0
パーティにハナコが来る +10
パーティにヒロシが来る -8

以下のように、別に誰がきても変わらんという場合、パーティに誰が来るのかは重要ではありません。

命題 価値
パーティにタロウが来る +1
パーティにヨシオが来る +1
パーティにタカシが来る +1

私の考えでは、物や命題に重要さを帰属する場合も、問いに対する重要さの帰属が基本になります。重要な本というのは、それが出版されるかどうか、あるいは、それを読んだかどうかが重要な本です。重要な人というのは、その人がいるかどうかやその人に会ったかどうかが重要な人です*1

重要さは、人生の意味と関連して論じられてきました。後半では、人生の意味のニヒリズムとしてしばしば論じられる「何も重要ではない」という見解について、これが何を意味し、これがどのような点で問題であり、どのような議論によって正当化されるのかを見ます。

詳細には踏み込みませんが、重要さは、大きな価値のちがいをもたらすという性質なので、何も重要ではないということは、何も十分な価値のちがいをもたらさないという意味です。従って以下のいずれかが言えれば、何も重要ではないということが言えます。

  • 何も良くも、悪くもない。
  • 何も十分な価値のちがいをもたらさない。

あと、これが何で問題かというと、人生に対する真剣さを奪います。単に良いものが何もないのであれば不幸なだけですが、何も重要ではないということは、幸福でも不幸でもあまりちがいがない、別にどんな人生でも変わらないということを意味します。なので、何も重要ではないといやだなーということになります。

あとはR.M.ヘアの家に若いスイス人が遊びにきて、家に置いてあったカミュの『異邦人』を読んで、「何も重要ではない」と絶望しはじめたという愉快なエピソードなどについて話します。そんな感じで重要さについて語りあかす発表になる予定です。

*1:命題に対する重要さの帰属はもっと複雑ですが、基本には、「太郎がここにいることが重要だ」は、「太郎がここにいるかどうかが重要だ」にいくつかの意味を付け足したものになるだろうと考えています

Philip Quinn「キリスト教における人生の意味」

Philip QUinn, The meaning of life according to Christianity - PhilPapers

Quinn, Philip (2000). The meaning of life according to Christianity. In E. D. Klemke (ed.), _ The Meaning of Life _. Oxford University Press 57--64.

The Meaning of Life: A Reader

The Meaning of Life: A Reader

Klemkeのアンソロジーに入ってるやつ。

著者は人生の意味の三つのイミを区別している。

  1. 価値論的意味axiological meaning: 人生が正の価値論的意味をもつのは、ちょうど以下のときである。(i)人生が正の内在的価値をもち、(ii)人生が全体としてそれを生きる人にとって良いものである。
  2. 目的論的意味teleological meaning: 人生が正の目的論的意味をもつのは、ちょうど以下のときである。(i)人生が目的を含み、それを生きる人がその目的をトリビアルでなく、達成可能であると見なし、(ii)それらの目的は正の価値をもち、(iii)人生はそれらの目的の達成を目指し、熱意をもって遂行されるような行為を含む。
  3. 完全な意味complete meaning: 人生が正の完全な意味をもつのは、人生が正の価値論的意味と正の目的論的意味をもつちょうどそのときである。

人生そのものは物語ではないが、人生の中の出来事は物語られうる。キリスト教は歴史を重要とする宗教なので、その伝統において物語は重要な役割を果す。キリスト教の信者は、キリストの物語を模範として、人生を生きようとする。

著者はキルケゴールを引いて論じるが、キリストを模範とするということは、自らを地上におとしめ、迫害などの苦しみを受ける覚悟をもつということである。単なる崇拝者とはちがい、リアルなクリスチャンは、善をなそうとし、厳しい苦しみを覚悟しなければならない。

こうした生き方は、人生に正の目的論的意味を付与するだろう。ただし、こうした人生は苦しみに満ちたものなので、正の価値論的意味は欠如している。しかし、キリスト教は死後の復活を約束しているので、それによって価値論的意味もえられる。

さらに、キリスト教は、神の王国の到来を約束し、個々人を越えた人類全体の運命も教えてくれる。またキリスト教の宇宙観は意味の欠如したむなしいものではなく、神によるすべてのものへの愛に満ちたものである。

以上のようにキリスト教はいい感じで、人生の意味を与えてくれる。クリスチャンは、キリスト教こそ人生の意味に関する最上のストーリーを与えてくれると信じてもいいが、慎しさをもち、キリスト教内の多様な解釈や、他の宗教への寛容ももたなければならない。

Kendall Walton「想像による聴取 - 音楽は表象するか?」

Kendall Walton, Listening with imagination: Is music representational? - PhilPapers

ウォルトンの音楽論。この論文の発展版が「ソウトライティング」なので、以下と合わせて読むのがよい。

Kendall Walton「ソウトライティング - 詩と音楽における」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

In Other Shoes: Music, Metaphor, Empathy, Existence

In Other Shoes: Music, Metaphor, Empathy, Existence

  1. 楽経験における想像
  2. ちがい
  3. 想像的感覚
  4. 表出は表象か?: 作品世界なきゲーム世界

絵画や小説は表象であり、何らかの光景や出来事を描く。一方、音楽はそれとはちがうと言われる。歌詞やタイトルなどはともかく、器楽曲は何も表象しないと。

しかし、改めて考えるとこれは自明とは言えない。音楽は表出的である。楽しげな楽曲や陰鬱なメロディや軽やかなリズムなどなどがある。表出は、表象の一種ではないのか?

また、表出に関する喚起説arousal thoryは近年では人気がない。楽しげな楽曲を聴けば必ず楽しくなるわけではない。多くの論者は、「楽しさ」や「悲しさ」を鑑賞者ではなく、音楽の「中」に位置づける。しかし、それって、音楽が悲しさや楽しさを表象しているということではないのか?

また、次のような問題もある。楽しさや悲しみは必ず、誰かの楽しさや悲しみだろう。しかし、楽曲に表出された楽しさや悲しみは、誰の楽しさや悲しみだろう。小説の語り手のように、音楽にも虚構の音楽的語り手がいて、楽曲はその語り手の楽しさや悲しみを伝えているのだろうか。

ウォルトンによれば、絵画が想像上の光景を見るという想像経験を与えるように、音楽は想像上の感覚を与える。楽しげな音楽を聴く人は、自分が楽しさを感じているところを想像する。もちろん、実際に楽しくなって楽しさを感じてもかまわないし、少なくとも、理想的な鑑賞経験においては、楽しさを感じているような、想像によるシミュレーションをしなければならない。

音楽作品における表出は、上記のような自己想像への指図であるとされる。合わせて、聴覚がなぜ感覚の表現に適したものなのかという議論がなされるが、この辺は非常におもしろい。

なお、ウォルトンは、フィクションにおいて、あらゆる鑑賞者に共通する作品世界と、鑑賞者の自己想像を含むゲーム世界を区別している。

例えば、ホームズ小説の場合、「ホームズとワトソンが出会う」などのように、鑑賞者と関係ない虚構的真理は作品世界に属するとされる。一方、鑑賞者は、自分がワトソンの手記を読んでるかのように想像したり、あたかも自分がホームズを尊敬するかのように想像する。後者は、鑑賞者のゲーム世界に属する。

  • 作品世界: ホームズとワトソンが出会う(と想像する)
  • ゲーム世界: 私はワトソンの手記を読んでる(と想像する)。私はホームズを尊敬する(と想像する)。

音楽作品の場合、自分が何らかの感覚を感じるという自己想像しかないため、作品世界はなく、ゲーム世界しかない。

この立場では、小説・絵画などの典型的表象芸術と、音楽のちがいは、音楽にはゲーム世界しかないということだったと解釈される。