H.L.A. ハート『法の哲学』

読書会合宿企画に参加して読んだ。法哲学の古典。また日常言語学派の代表的な仕事のひとつでもある。

法の概念 第3版 (ちくま学芸文庫)

法の概念 第3版 (ちくま学芸文庫)

ハートはこの本で、おおむね『法とは何か』と表現できる問いに、おおむね『一次ルールと二次ルールを組み合わせたルールである』と表現できるような答えを与えている。一次ルールというのは何らかの義務を課すルールで、二次ルールとは、ルール自体の制定や改訂に関わるルール(変更のルール、認定のルール、裁判のルール)のことだ。この捉え方では、法とは、自らの改訂・運用のためのルールを含む、特殊なルールの集まりであるということになる*1

ただし、これはあくまで概要であって、ハートがどういう問いに対して、どのような答えを与え、その答えがどのように正当化されたのかということを厳密に説明することはかなり難しい。例えば、ハートによれば、この本の目標は「法law」という語の定義を明らかにすることではない。ハートは、法に対し、狭い意味での定義を与えることは不可能であり、有益でもないという風に考えているらしい。

じゃあ何なのかというと、私はハートのプロジェクトを今のところ以下のように理解している。ハートが目指しているのは、おそらくある種の機能主義的説明に近いものだ。ハートによれば、責務を課すルールとは別に、ルールの改訂や運用のルール(二次ルール)を設けることは、不確定性をへらし、変更を柔軟にし、運用を効率的にする。それは、さまざまな点で便利である。そして私たちが知っている法的秩序の多くの部分は、まさにこの機能を果たしているのだと指摘される。

[二次ルールをもたない]単純な社会構造の主要な三つの欠陥[不確定性、静的であること、非効率であること]への対処法は、責務を定める一次ルールに、異なる類型のルールである二次ルールを補足することである。各欠陥に対する対処の導入は、それぞれ、法前の社会から法的社会への一歩と考えることができる。それぞれの対処は、法に広く行き渡る多くの要素をもたらすことになる。p.159

例えば、裁判のようなルールの運用のための制度、執行や運用のための公務員、立法手続きなどは、二次ルールとともに、その運用のために導入されたものであるとされる。一次ルール+二次ルール説の魅力は、少なくともハートによれば、これら法的秩序の中核部分を説明できることにある。

「機能主義的」という言い方はあまり正確なのかどうか自信がないのだが、ともかく、現在存在する法的秩序のようなものがおよそ存在するかぎり、もたなければならない中心的な要素を取り出すことが目指されていると言ってもよいのかもしれない。

*1:正確には、これだけだと会社の規則なども入ってしまうので、適用範囲の広さなどの条件も含まれるようだ。また、ルールとは何かという話も別途なされているがその辺は割愛。

Shen-yi Liao & Aaron Meskin「美的形容詞: 実験意味論と文脈依存性」

Shen-yi Liao & Aaron Meskin, Aesthetic Adjectives: Experimental Semantics and Context-Sensitivity - PhilPapers

Liao, Shen-yi & Meskin, Aaron (2015). Aesthetic Adjectives: Experimental Semantics and Context-Sensitivity. Philosophy and Phenomenological Research 93 (1):n/a-n/a.

比較形をもつ形容詞を段階的形容詞と言う。段階的形容詞には「相対的段階的形容詞」と「絶対的段階的形容詞」があると言われる。

相対的段階的形容詞の例は「背が高い」「長い」「大きい」などだ。「背が高い」などの形容詞は文脈に依存的であると言われる。例えば「背が高い小学生」というのは、大人に比べれば身長は小さいかもしれない。「背が低いバスケットボール選手」は、普通の人に比べれば身長は大きいかもしれない。

このため、「太郎は背が高い」のような文の真理条件は、比較対象に相対的な形でしか、真理条件が定まらないとされる。相対的段階的形容詞の真理条件は指標詞などに似ており、文の内容ではなく、部分的には話し手が置かれた文脈によって真理条件が左右される。

一方、絶対的段階的形容詞の例は「曲がっている」「透明である」「まだらである」などだ。両者のちがいは、推論パターンだ。「AはBよりも背が高い」から「Aは背が高い」を推論することはできない。ところが「曲がっている」のような絶対的段階的形容詞の場合、「AはBよりも曲がっている」から「Aは曲がっている」という推論ができる。

例えば、「AはBよりも曲っているということは、Aはちょっとは曲がっているということだな。ちょっとは曲がっているということは、要するに曲がっているということだな」と考えてもまちがいではないだろう。ところがこの推論の「曲がっている」を「背が高い」に置き換えると、明らかに誤った推論になる。

これは実験哲学でも確認できるらしい。人は、いくつかの見本を与えられ「長いものを選べ」と言われると、見本の中で一番長いものを選ぶ。相対的段階形容詞の場合、選べと言われると、暗黙のうちに、見本の集まりを比較対象として構成するような作業をしてしまうわけだ。ところが、絶対的段階的形容詞の場合はこの現象が起きない。「曲っているものを選べ」と言われても、曲っているものは複数あるので選びようがないなどと判断され、「選べない」といった選択肢がとられる。

一方、ここから先が著者らの実験結果だが、著者らはこの実験を美的形容詞に適用した。すると、おもしろいことに、「美しい」などの美的形容詞は、このどちらともちがうふるまいをするらしい。相対的段階的形容詞の場合、多くの人は一番度合いが高いものを選ぶ。絶対的段階的形容詞の場合、多くの人は「選べない」と判断する。美的形容詞の場合、いずれかを選ぶ人と選ばない人が半々くらいになるそうだ。

著者らは、同様の実験を「美しいbeautiful」だけではなく「醜いugly」や「優雅であるelegant」*1でもやっているが、いずれの場合も似たような結果が出るらしい。

この結果が何を意味するのかはいろいろ考察されているが、この論文では特に決定的な結論は出ていない。

*1:「美しい」が評決的美的判断と呼ばれるのに対し、「優雅である」は対象の特徴にも関わるので実質的美的判断などと呼ばれる。

Bernard Williams「想像と自己」

Bernard Arthur Owen Williams, Imagination and the Self - PhilPapers

Williams, Bernard Arthur Owen (1966). Imagination and the Self. Oxford University Press.

ウィリアムズの有名な想像力に関する論文。最近ウォルトンの翻訳を読んでいて、そういえばこれを読んでいなかったなと思いだしたので読んだ。

フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―

フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―

Problems of the Self: Philosophical Papers 1956?1972

Problems of the Self: Philosophical Papers 1956?1972

ここでウィリアムズは、想像に関する2つの問題をとりあげている。それぞれ「バークリー問題」「ナポレオン問題」と呼ぶことにする*1

バークリー問題

これはバークリーの観念論擁護の議論を、ウィリアムズが想像の問題として再定式化したものにあたる。

元々のバークリーの議論は、「誰にも見られていないもの」というアイデアには矛盾があるというものだが、ウィリアムズはこの問題を「なぜ、誰も見ていないという設定のものを、思い描くことができるのか?」という問題として捉え直した。

  1. 例えば、誰にも見られていない木を思い描くことができるだろう。
  2. しかし、思い描くとは、それを見ていると想像することではないだろうか。
  3. 誰にも見られていない木を思い描くことが、見られていない木を見ているという想像であるとすれば、それは矛盾した想像だろう。

もちろん、想像の内容が矛盾するということはありえるわけだが、誰も見ていない木を思い描くということは、矛盾した想像ではないように思われる。この点で、この最後の結論は奇妙だろう。

ウィリアムズは、想像をいくつかの種類にわけることでこの問題に答えている。

1つめ。視覚型想像。何らかの光景を思い描く。光景は当然、特定の視点から見られたものだが、その想像の中に自分が登場する必要はない。例えば、次のような想像は可能だろう。誰もいない荒野に野犬の群れがいて、最初は空から群れを見下ろしている。しだいにその中の一匹がクローズアップされる。

2つめ。参加型想像。想像の中に自分が登場し、何かをしているところを想像する。自分が野球選手になってホームランを打つ。ボールが向かってくるところや、バットの感触を想像する。

3つめ。混合型想像。自分が何かをしているところを外から見ているように想像する。例えば自分がホームランを打つところを観客席から見ているといった想像がこれにあたる。

何かを思い描くことが、「見ていると想像する」ことであると言えるのは、視覚型想像の意味にかぎられる。これを参加型想像と混同してはならない。もし、誰も見ていない木の想像が、参加型想像であり、自分が想像の中で木を見てるのであれば、それは矛盾だろう。しかし、視覚型想像であれば、その想像の中に自分が登場すると考える必要はない。

したがって、何かを思い描くことが、「自分が見ている」という想像であるというのはかなり誤解を招く表現である。何かを思い描くとき、「自分がこれこれの地点から見ていると想像した」ということは、「カメラはこれこれの地点にあった」という程度の意味しかない。

ナポレオン問題

こちらは古典的な問題だと思うが、最初に誰が言い出したのかは知らない。

  • 私がナポレオンであると想像することは可能だろう。
  • 従って、私がナポレオンであることは論理的に可能だろう。

私がナポレオンであるという想像自体はごく普通のものだし、「誰も見ていない木」と同様に特に矛盾はないように思われる。しかし、この結論は奇妙なものだ。もしこれを認めるなら、ナポレオンであることも可能であり、現実の私の特徴を持つことも可能であるような「私」とは一体何なのか。

この「私」は、特定の身体や記憶や心理的連続性によって同一性を与えられるようなものではない。「私がナポレオンであったら」という想像において、ナポレオンは私の身体も私の記憶も持たないかもしれない。

ひとつの説明は、「デカルト的自己」とでも呼ぶべきものを認めることだ。私のデカルト的自己は、現実には、この特定の人であるが、それはナポレオンでもありえたかもしれない。デカルト的自己は、何らかの経験的特徴によって同一性を与えられるようなものではなく、無特徴の点のようなものとして端的に存在する。

ウィリアムズは、この議論に反対する。デカルト的自己は必要ない。私がナポレオンであるという参加型想像が意味するのは、現実の私がナポレオン役を演じることだ。現実の私が、ナポレオンを表象する。これに必要なものは、現実の私という人間と、ナポレオンの二つだけであって、デカルト的自己という第三のものは必要ない。

感想

虚構の語り手やビデオゲームのプレイヤーと結びつけて考えるとおもしろい話のような気がした。例えば、ポケモンGOは、プレイヤーの参加型想像と、「このアバターが私である」という想像を含んでいる。

*1:バークリー問題の方は、実際、ウィリアムズの論文以降「バークリーのパズル」と呼ばれ、想像に関する問題のひとつとしてよく取り上げられる。

T.M. スキャンロン『われわれがお互いにすべきこと』「価値」

What We Owe to Each Other

What We Owe to Each Other

『われわれがお互いにすべきこと What We Owe To Each Other』の二章*1「価値」を読んだ。

目次

  1. 目的論
  2. 価値: いくつかの例
  3. 価値の抽象的説明
  4. 快楽説の影
  5. 人間の(または合理的な)人生の価値

価値のバックパッシング説明で有名な箇所。ここでスキャンロンは大きく二つのことを言っている。

  1. 価値の目的論的理解の批判 / 価値づけの多元論の擁護
  2. 価値の理由への還元 / バックパッシング説明

目的論的理解の批判

スキャンロンは自分が批判する立場を価値の目的論的理解と呼ぶ。目的論的理解というのは、以下のような立場だ。

  • 何かが良いということは、それを促進すべきであるということだ。

もっと具体化すると、

  1. 良さ/悪さは、事態がもつ性質である。
  2. ある事態が良い(悪い)ということは、その事態を実現させる(させない)方がよいということだ。

これは一見トリビアルに正しそうに見える立場なのだが、スキャンロンに言わせればまちがっている。上記のような立場をとるとき、人は、価値づける(valueする)ことの多様さを忘れてしまっている。

例えば、友情に価値を見出すことは、「世界の中にできるだけたくさんの友情を発生させるべきだ」と考えることではない。「友人関係を増やすためには何でもする! たとえ友人を裏切ってでも……」と考える人は、(少なくとも通常の意味で)友情に価値を見出していない。もちろん、友情に価値を見出す人は、友人をつくることや友人関係を維持すること望むだろうが、友情に価値を見ることの中には、友達との約束を守るとか、友人が病気になれば見舞いに行くとか、落ち込んでいればいたわるとか、多様な種類の行為・態度を支持することが含まれる。後者を「友情を促進すること」の価値に還元することはできない。

スキャンロンは、おそらく「Xを価値づける」のがどういうことであるのかは、Xの種類によってまったく異なると考えている。本論では、豊富な例によってこれが説明されている。科学の価値、友情の価値、ファンであること(fanship)、芸術の価値、生の価値等々。この辺はなかなかおもしろい。

ファンであることを価値づける人々もいる。つまり、この人たちは、ファンであることが人生をより良く、より楽しく、より興味深いものにすると考えるのだ。この人たちはまた良いファンであることは重要だという風にも考えるだろう。例えば、推しているスターが出るすべての映画をできるだけ早く観ることや、スターが誰かに批判されたときに擁護することには良い理由があると考えるし、たとえ遠くからであっても、直接スターを観ることはすばらしいことだと考えるだろう。私が提案している価値の理解では、ファンであることに価値がないと考えることは、単に、これらの理由が良い理由ではないと考えること、あるいは少なくとも、人生の形成においてそれらに重きをおく人はまちがっていると考えることだ。反対に、ファンであることや友情が価値あるものだと考えることは、それを価値づけることに伴う理由が良い理由であると考えることであり、それゆえ人生の形成においてこの概念に重要な位置を与えることは適切であると考えることなのだ。pp. 89-90

目的論的理解によれば、何かが「良い」ということは、おおむね「それを促進すべきである」ことと同一視される。スキャンロンの立場だと、何かが「良い」ことは、むしろ「それをリスペクトすべきである」みたいなことを意味する。リスペクトの仕方はものによってかなり異なる。例えば、科学に価値を見出すことは、自然に対する好奇心などにリスペクトをもつことだ。ファンであることに価値を見出すことは、良いファンであろうとすることだ。

バックパッシング

その上でスキャンロンは価値のバックパッシング説明を擁護している。これによれば、何かが良いということは、おおむね以下のように分析される。

Xが良い iff Xを肯定的に価値づける理由(Xに対して適切な肯定的態度をとる理由)を与えるような他の性質がある。

バックパッシング説明によれば、良さそのものは理由を与えない。遊園地に行く理由を構成するのは、〈楽しさ〉、〈行く手段の手軽さ〉、〈値段の安さ〉などといった性質である。しかし〈楽しさ〉〈手軽さ〉などに加えて、さらに、遊園地に行くことの〈良さ〉が、遊園地に行く理由を与えると考えるのはおかしい。「遊園地は楽しいし、簡単に行けるしー、良いしー」というのはおかしい。遊園地に行くのが良いというのは、行く理由があるということを別の仕方で述べているだけであって、〈楽しさ〉と〈良さ〉は同じレベルにはない。

この立場だと、価値に関する事実は、理由に関する事実に還元される。スキャンロンは、価値より理由の方が根本的なんだという立場をとる。

バックパッシングと、価値づけ多元説は独立した立場なのだが、スキャンロンはその両方を擁護しており、まとめると、価値というのは、多様な形の理由を与えるようなものだという感じなようだ。

*1:What We Owe To Each Otherの訳「おたがいさまであること」というのも考えたのだがどうか。

Susan Wolf『人生の意味とそれはなぜ重要か』

Meaning in Life and Why It Matters (The University Center for Human Values Series)

Meaning in Life and Why It Matters (The University Center for Human Values Series)

スーザン・ウルフの講義録。「人生の意味」「なぜ重要か」と題された2つの講義録と、それに対する複数人のコメントがついている。コメントはまだ読んでないが、講義録本体を読んだ。「人生の意味」の方は、人生の意味に関するウルフの立場を紹介するもの。「なぜ重要か」の方では、そのように理解された人生の意味がなぜ重要なものであるのかを論じている。

読みやすいし、ウルフの立場もバランスのとれたものでよかった。なぜか途中の注にはチョコレートケーキのおいしいレシピなども紹介されている(p.51)。

人生の意味に対するウルフの立場の特徴は、「愛の理由」と「主観客観混合説」だ。ウルフが「愛の理由」と呼ぶのは、無生物を含めたさまざまなものへの愛に由来する理由のこと。私たちは、例えば、家族のため、哲学の発展のため、ライフワークの完成のために行為する。こうした理由は、幸福からも道徳からも区別される、行為の理由のための第三の領域を形成する。家族のために見舞いに行くとか、哲学の発展のために努力するとき、私たちは利己的動機に従うわけでもないし、道徳的規範に従っているわけではない。むしろそれらの目的は、自己の幸福を損なうことや、道徳に反する行為を要求することさえあるだろう。

これら愛の理由を与えるものが、人生に意味を与えるものであるとされる。ウルフは、人生の意味を、しばしば無視されがちな行為の理由のための重要な源泉のひとつとして注目させる。後半では、人生の意味と道徳の関係も議論されているが、この辺もおもしろい。

つぎに、ウルフの特徴は、人生の意味に、主観的ファクターと客観的ファクターの両方を求めることだ。これを彼女は、「意味は主観的魅惑と、客観的魅力が出会うときに生まれる」(p.221)というキャッチコピーで表現している。人生の意味を与えるようなものは、まず、人生を生きる当人が目指すようなものでなければならない(主観的魅惑)。さらに、当人はそれを単なる好みとしてではなく、目指す価値のあるものだからこそ追求する(客観的魅力)。意味を与えるものは、私たちがそれを欲するから価値をもつのではなく、欲求とは独立に価値をもつからこそ、それを欲求する理由があるのだ。

さらに、愛は、それにふさわしくないものに向けられているがゆえに、誤っていることもありえる。例えば、人生を数独にささげることは、人生に意味を与えないらしい*1。ここは論争的なポイントのひとつであり、後半でさまざまに擁護される。

*1:ウルフの経験によれば、数独クロスワードパズルよりひどいらしい(p.16)。

『判断力批判』の美的判断の演繹論

ワイド版世界の大思想 (〔第1期〕6)

ワイド版世界の大思想 (〔第1期〕6)

判断力批判

判断力批判

毎日ちょっとずつ判断力批判を読んでいる*1。主観では『純粋理性批判』より難しく、わからなさすぎてつらくなってきたので、二次文献でも勉強することにした。

というわけで、スタンフォード哲学事典の「カントの美学と目的論」を読む。

なかなかためになる記事で、何度か読んでもチンプンカンプンだった演繹論の箇所がちょっとわかったのでまとめておく。

カントの場合、演繹論というのは、判断の正当性を示す議論のことだ。『判断力批判』では美的判断(趣味判断)の演繹論がなされている。

美的判断の例としては、ある個別の絵などが美しいという判断を考えよう。美的判断は以下のような特徴をもつ。

  1. 主観的な快の感情にもとづくものであって、認識判断ではない。
  2. 一方、普遍妥当性を要求し、万人の同意を求める。しかもこの妥当性の要求はアプリオリなものである。

何かが美しいというのは、「四角い」とか「緑色の」などとちがい、対象の特徴ではないように思われる。一方私たちは、美について不同意を形成し、議論したり、説得したりすることもある。

美的判断の演繹論というのは、「なぜこのような特徴をもった判断が正当なものでありえるのかを説明しなさい」という問題に答えるものだ。

伝統的には、1の側面を強調すると、美の反実在論/主観主義の立場になり、美的判断は欲求や感情の表出と見なされる。この場合、2の側面については否定され、普遍妥当性の要求は錯覚だという方向になる。

一方、2の側面を強調すると、美の実在論/客観主義の立場になり、美的性質は対象の所有する性質と見なされる。この場合、1の側面は否定され、美的判断は通常の認識判断と何ら変わりなくなる。

普通はそのどちらかなのだが、カントは何とか両者のいいとこどりで行きたいらしい。個人的には、近年流行っている趣味の不同意の問題などにも関心があるので、これはなかなか興味深い問題ではある。

カントの解決

この問題に対するカントの解決は、かの有名な想像力のフリープレイ(構想力の自由な戯れ)というやつだ。

普通の認識判断では、想像力が知性(悟性)の規則に従って直観をとりまとめ、結果として、対象に何らかの概念が適用され、知覚的に経験される。「これは緑だ」とか「これは四角い」という経験は、対象の直観を、「緑」「四角い」などの概念のもとに包摂する経験だ。

ところが、美的判断の場合、適用すべき概念がない。この場合、想像力は知性によって制約されず、自由にはたらく。対象には何の概念も適用されず、ただ直観の能力(想像力)が概念の能力(知性)へと直接的に包摂される。結果として、快が生じ、対象が美しいものして経験される。

普遍妥当性の要求は、美的判断においても、想像力と知性の調和が生じるということから帰結する。というのも、これは認知一般の主観的条件だからである。この際、カントはおそらく、認知の主観的条件が成り立てば、普遍妥当性を要求してよいだろうということを前提にしている。

例えば、ものが緑に見えた場合、私は「これは緑だ」という知覚を万人が共有すべきであると要求する資格をえる。少なくともそのような要求は理解可能なものだろう。これと同様に、「これは美しい」という知覚が生じた際にも、万人の同意を要求してよい。

つまり、論証の形で書くと、以下のようになる。

  1. 認知の主観的条件が成り立てば、普遍妥当性を要求してよい。
  2. 美的判断に関しては、(想像の自由な戯れという特殊な形でだが)認知の主観的条件が成り立つ。
  3. よって、美的判断に関して、普遍妥当性を要求してよい。

一方、美的判断の場合、概念が適用されないので、通常の認識判断ではありえない。このような形で、1の側面と2の側面は両立させられる。

要するに、美的判断は、概念が適用されないのに、認知の主観的条件が成り立ってしまうような、判断の特殊事例なんだよというようなことであるらしい。

気になる点

ただし、美的判断の正当性がどの程度のものになるのかは気になるところだ。ひとつの解釈だと、カントの立場は「人が美を普遍妥当性をもつもののように感じてしまうことは、間違っているが、間違えるのも仕方ない」というある種の錯誤説のようにも思われる。この場合、美的判断の正当性の擁護は、あくまでも暫定的なものにとどまるだろう。

一方、正当性をもっと完全に認めるような立場も想定することはできそうだ。概念なき判断の場合、判断の適切性条件や主張可能性条件も、通常の認識判断とは異なるのかもしれない。私が美的判断に同意を求めることは、単なる錯誤ではなく、実際に適切なことであるのかもしれない。

個人的には、後者の方が興味深いが、解釈としてはちょっと難しい気もする。

*1:最初は熊野訳で読んでたけど、何となく読みづらいなと思って、kindle版もある「ワイド版世界の大思想」にした。頻繁に目次に戻るので、kindle版は助かる。

Joel Feinberg「不条理な自己実現」

Joel Feinberg, Absurd self-fulfillment - PhilPapers

Feinberg, Joel (1980). Absurd self-fulfillment. In Peter van Inwagen (ed.), Time and Cause. D. Reidel 255--281.

absurdの訳で悩むのだが「不条理」と「アホらしさ」を使いわけることにする。不条理だけだと、コミカルな要素がまったくなくなるのが厳しい。ちなみにabsurdの意味合いは論者によってかなりちがうのだが、ネーゲルは明確にコミカルな意味を念頭に置いている。

これは難しい論文で、よくわからなかったため、以下のサイトも参照した。

Summary of Joel Feinberg’s, “Absurd Self-Fulfillment”

基本的な内容は、

  1. リチャード・テイラーカミュネーゲルの「人生の不条理・アホらしさ」を巡る検討。不条理を様々に区別しつつ、批判的に検討するが、著者は何らかの意味ですべての人生が不条理であることは認めるらしい。
  2. 自己実現・自己充足の分析。すべての人生がある意味で不条理であるとしても、それでも自己実現は可能であるし、それでかまわないという主張を擁護している。

著者は、不条理を(1)不合理、(2)主観的視点と客観的視点のギャップから生じるネーゲル的アホらしさ、(3)目的の欠如pointlessness、(4)無駄に終わることfutility、(5)取るに足らないことtriviality(努力に見合わない、しょうもない結果しか生まない労働)などによって特徴づける。

カミュテイラーは、有名なシーシュポスの神話ーー神々の怒りをかったシーシュポスは岩を山の上に運び、岩が転落してまた山の上に運ぶという労働を繰り返すーーを参照し、すべての生はシーシュポスのような目的なき、バカげた繰り返しだという。人生は目的なき反復で、最後にはただ死が待っている。何をえても最後にはなくなってしまう。人間は、秩序と意味を求めるが、宇宙はそれに答えてくれず、われわれは疎外される。

ネーゲルによれば、アホらしさは視点のギャップから生じる。私たちは自分の人生を重要なものと見なさざるをえないが、宇宙的視点から見れば、それらは取るに足らない。われわれの生は、視点を変えれば、つねにどうしようもない茶番である。

著者はこれらの主張を受け入れつつも、不条理/アホらしさは相対的な問題だとしている。宇宙的視点から見れば茶番にすぎないとしても、自己実現は可能だ。著者は自己実現を、本性の発揮として捉える。例えば、シーシュポスに岩運びの才能があれば、シーシュポスはその才能を発揮し、創意工夫して、様々な形で岩を運ぶことができる。こうした場合、シーシュポスは依然としてアホらしい・不条理な人生を歩むが、その人生は自己実現の過程とも見なすことができるだろう。

著者は、不条理は必ずしもマイナスではないと捉える。論文の最後では、人間の存在の根底にちょっとしたジョークがあることは、ある意味素敵なことではないかと示唆されている。