『アーカイブ騎士団008 怪獣小説集』(第二十三回文学フリマ東京)の宣伝

f:id:at_akada:20161112212415j:plain

第二十三回文学フリマ東京に参加します。新刊『怪獣小説集』が出ます。

項目 内容
開催日 2016年11月23日(水祝)
場所 東京流通センター 第二展示場
サークル アーカイブ騎士団
ブース D-02
Webカタログ https://c.bunfree.net/p/tokyo23/6476

新刊『怪獣小説集』堂々上陸!ユートピアを求め深宇宙へ旅立ったアーカイブ騎士団。帰還した彼らは怪獣と化していた!太平洋大戦末期のNYに出現した怪獣!高野山を襲うAR怪獣!模様がチューリングマシンになっている怪獣!これからの200ページ、あなたの心はあなたの体を離れ、この不思議な小説の中に入って行くのです。

空前の怪獣ブームなので怪獣小説集です。

サークル過去作はこちら

以下掲載作の紹介(これ以外にも短かいものがいくつか載ります)。

「ニューヨークと朝霞の光線怪獣」@mmww

サンプル

大戦末期、NYに現れた巨大怪獣。ポツダム宣言受諾を拒む陸軍省は、怪獣出現に戦争継続の希望をかけた。一方、第三工学部怪獣光学講座の水地助教授は陸軍中尉小田切と出会う。大戦末期の日本を舞台にした怪獣小説。

「怪獣の声」@at_akada

サンプル

人類が移民した惑星。そこには動かない巨大な怪獣が立っている。近付かなければ特に害がないため、怪獣の周りに人間が平然と暮している。ある研究者は怪獣の模様がチューリングマシン(コンピュータ)になっていることを発見し、怪獣の模様を研究するプロジェクトがはじまる。ところが、模様の「プログラム」に対する複数の解釈が現われ……。スタニスワフ・レム「天の声」のオマージュでもある。

「巡る怪獣」天野ロカリス

サンプル

前方から糸を繰り、後方から糸を出して、地球を回転しつづける巨大怪獣毛糸玉。ある日毛糸玉の糸に異変を発見した怪獣研究所I島支所の人々は……。

「行為主体GO〈1〉」@pubkugyo

サンプル

ARゲームのモンスターが現実世界を侵食しはじめ、自律性の低い者からモンスターの餌食になっていく。ARゲームが禁止された高野山は人類に残された聖域になっていた。

※未完のため、後日つづきを公開する予定

ウォルトンにおける想像の対象

2017/04/17追記: その後訳者の田村さんから反論をいただきました(参照)。

フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―

フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―

この記事はケンダル・ウォルトン『フィクションとは何か』という本の、ある訳注を批判することで、ウォルトン解釈を明確にすることを狙ったものだ。以下での主たる関心は、ウォルトン解釈、特に「想像の対象」という概念にある。ウォルトンのような存命の哲学者に対して解釈を云々するのもどうかとは思うのだが、正直に言って、ウォルトンの主張はあまり理解されていないように思う。主張がまともに理解されていない状況で「メイクビリーブ理論」などの名称だけが流布している状況はあまりよろしくないので、こういう記事も少しは書く意義があるだろうと考える。

なお、ウォルトンについては以前も以下のような記事を書いた。

Kendall Walton『メイクビリーブとしてのミメーシス』: 虚構性 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

想像の対象と表象の対象

Mimesis as Make-Believeの翻訳である『フィクションとは何か?』には以下のような訳注がついている。

「表象体の対象(an object of a representation)」という概念と、「想像活動のオブジェクト(an object of imagination)」という概念は異なるので、注意が必要である。想像のオブジェクトは、想像活動を展開するための物体的な手がかり、いわば想像の「依り代」とでも言えよう。ある人形がごっこ遊びの中で赤ちゃんとなっているとき、その人形は、赤ちゃんを想像する際の想像のオブジェクトである(第1章3節参照)。他方、この人形が現実のある赤ちゃんに酷似するように、その肖像として作られているとき、この人形という表象体の対象はその現実の赤ちゃんである。 訳p.28 訳注[1]

訳者である田村氏は、ウォルトンが使っている「想像のobject」には、「表象の対象object」という場合のobjectとはちがう意味があると考えているらしく、想像のobjectを「想像のオブジェクト」と訳している。

しかし、ウォルトンはここで言われているような区別はしていないし、この想像のオブジェクトの説明はかなりおかしい。区別していないというのはどういうことかというと、想像のケースでも表象のケースでも、「対象object」という語はそのごく標準的な意味、つまり「xがyの対象であるのは、yがxについてのものであるちょうどそのときである」という仕方で使用されている。これは別にウォルトンの特殊な語用などではなく、志向性が哲学で扱われる際の標準的な仕方だろう。

それぞれについて書き下せば以下のようになる*1

  • xが想像の対象であるのは、xについて想像をしているちょうどそのときである。
  • xが表象の対象であるのは、xについての表象があるちょうどそのときである。

訳者の方はおそらく、想像の対象objectに関しては、「想像の依り代」のようなもっと特殊な意味が込められていると読んだのだろう。しかし、この読みは維持できない。なお、もちろん表象と想像は別の種類のものなので、そのかぎりで表象の対象と想像の対象は異なる。それは否定しない。私が否定しているのは「想像の対象」という言葉で「想像の依り代」のような特殊なことが意味されているという主張である。

想像の対象の話はそもそもかなり難しいのだが、きちんと読めばウォルトンが一貫した立場を取っていることはわかるし、実はかなりおもしろいことを言っている。

テキスト的根拠

まず「想像の対象object of imagination」という語が、どのように導入されているかを見よう。

布で作ったお人形で遊んでいる子どもは、赤ちゃんを想像するだけではない。そのお人形が赤ちゃんだと想像しているのである。…人が想像活動をそれについて展開する事物が、想像の対象である。p.25, 訳p.25、強調引用者

想像の対象とは、想像者がそれについて想像しているところのものであるという風に導入されている*2。なお、この際、ウォルトンが人形や木の切り株のようなものだけを想像の対象に含めているわけではないことは注意しておきたい。この節(1章3節)とそのすぐ後の節(1章4節)では、自己についての想像の事例も取り上げられており、そこでは自己が想像の対象であると言われている。あるいは、ジョージ・ブッシュについて想像する場合、ブッシュが想像の対象であるという例もあげられている。われわれは、人形について想像することもあるし、自己について想像することもあるし、ブッシュについて想像することもある。この概念が捉えようとしているのは、この「Xについての想像」におけるXだ。Xについての想像とは何なのかという疑問はあるだろうが、ウォルトンはそこは明らかにしておらず、例示によって説明されているだけだ(これについては後述する)。

一方、表象の対象という語は、どのように導入されているか。

戦争と平和』はナポレオンについての小説である。…ある物は、ある表象体がその物についてのさまざまな命題を虚構として成り立たせる場合、その表象体の一つの対象となる。p.106, 訳p.106、強調引用者

表象の対象は、表象体がそれについての命題を虚構的に成り立たせるようなものとして導入されている。なお、ウォルトンの分析では、「虚構的に成り立たせる」は想像への命令として定義される(p.39, 訳p.41)*3。この定義を上の引用箇所に適用してみよう。あるものについての命題を虚構的に成り立たせるということは、それについての想像を命令することに当たる。

定義を明示的にして書くと以下のようになる。

あるものが表象体の表象の対象であるのは、表象体が、それについて想像を命令する(あるものを想像の対象としてもつように命令する)ちょうどそのときである。

つまり、きちんと読めば、表象の対象というアイデア自体が、想像の対象によって規定されていることがわかる。別の箇所では、これは明示的に書かれている(何回も出てくる)。

あるものを対象として持つとは、そのものについての虚構的真理を生み出すということであり、そのものについての想像活動を命令するということである。p.109, 訳p.110

何かを表象することは、そのものについての想像活動を命令することだからである。p.115, 訳p.115

表象がある対象をもつとき、鑑賞者は、それを想像の対象としてもつように命令される。つまり、『戦争と平和』はナポレオンについての小説であり(ナポレオンが表象の対象であり)、読者はナポレオンについて想像するよう命令される(ナポレオンを想像の対象とするように命令される)。こんな風に、「想像の対象」と「表象の対象」の明確なつながりが述べられている。

並行性の問題?

なぜ訳者の方が上記のような誤解をしたのかという理由を推測してみよう。おそらくその理由は、「小説に実在の人物や都市が登場するケース」と「ごっこ遊びで実在のものを利用するケース」が似ていないことだろう。『戦争と平和』がナポレオンについて想像させるということと、人形遊びが人形についての想像であることはどこかちがうことであるように思える。

しかし、ウォルトン両者を同じように扱っている。ここはウォルトンが過激なことを言っているのがおもしろいのであって、それを歪めるべきではない。

それが明確に見える箇所を二つ例にあげよう。

(1)3章5節では直接的に両者が並列されている。まず『キングコング』にニューヨークという実在の都市が出てくる例があげられ、これらが「作品の一つの対象とされたことの目的」は何かという疑問が提示される(p.116, 訳p.116)。要するに表象の対象はなぜ必要なのかという問いだ。そのすぐ後の段落では、「木の切り株とか、積もった雪とか、合成樹脂の人形」を想像の対象の例としてあげ、その例を使ってこの疑問に答えている。これらは興味の焦点ではないが、想像に貢献しており、それが対象をもつことの目的にあたるという答えが与えられる。ウォルトンが『キングコング』におけるニューヨークと、ごっこ遊びにおける人形を、ともに同じ意味で、表象の対象/想像の対象だと見なしているのでないかぎり、この議論は意味をなさないだろう。

(2)人形の表象対象については以下のような答えが与えられる*4

お人形は、それで遊ぶ子どもたちに赤ちゃんを想像するよう命令するだけではなく、そのお人形自身が赤ちゃんであると想像するように命令している。それゆえ、このお人形は、それ自身についての虚構的真理を生み出しており、それ自身を表象しているのである。こういうものを反射的表象体(a reflexive representation)と呼ぶことにしよう。p.117, 訳p.117

人形はそれ自身を表象の対象としてもつと言っている。『戦争と平和』との並行性がわかるように並べると、以下のようになる。

表象体 表象の対象 命令された想像の対象
戦争と平和 ナポレオン ナポレオン
人形 人形自身 人形自身

人形は、人形自身についての想像を命令するので、人形自身を表象している。しかし表象の対象とは、想像の対象として命令されたものだという定義をきちんと理解していないと、なぜ人形の表象対象が人形自身なのかはわからないだろう。ウォルトンの立場では、『戦争と平和』がナポレオンについて虚構的真理を生み出すのと、人形遊びが人形について虚構的真理を生み出すのは基本的に同じ仕方で説明される現象なのである。

不一致の問題?

しかしこの際、人形についての想像は、人形に関して、それが赤ちゃんであるという性質を付与しており、現実と異なっている。この点は、『戦争と平和』のナポレオンの例とは異なるように思われるかもしれない。もちろん『戦争と平和』のようなフィクションでは、ナポレオンは現実と異なるふるまいをするかもしれない。しかしナポレオンを犬や無機物に変えることは許されるのだろうか。

例えば、私が自分で書いた小説にナポレオンを登場させていると私自身は主張しているのだが、その小説の中の「ナポレオン」は自動車であり、特に現実のナポレオンと何の共通点もないというケースを考えてみよう。この場合、この小説はナポレオンを表象していないだろう(少なくとも表象することに失敗している)。この種の例はウォルトンも取り上げており、「表象体とその対象の間には何らかの対応がなければならない」(p.112, 訳p.112)と言っている。要するに、表象の内容は対象とある程度一致していなければならない。ウォルトンは、表象体があるものを対象としてもつための必要条件として、因果関係と、ある程度の一致の二つをあげている。

ナポレオンを自動車として表象することが不可能なのに、人形を赤ちゃんとして表象することが可能なのだとしたらそれはなぜだろう。実はこの点についても回答が与えられている。

そういうわけで、お人形は、彫像では対応関係が成り立たない多くの側面で自分自身と対応関係をもっている。お人形は自分自身と一致するという状態に随分近づいている。つまり(形式にこだわらずに言えば)、虚構的な赤ちゃんは、虚構的なコンスタンティヌスが彫像に似ているよりも、ずっと人形に似ているのである。pp.118-119, 訳p.119

人形と虚構の赤ちゃんは実はすごく似ており、両者の間には多くの側面で対応correspondanceがあると言っている*5

この答えは、ウォルトンが何を言っているのかさえ理解できれば、興味深いものだ。まずここで言われている対応とは、現実の事実と虚構的真理の間の対応だ。『戦争と平和』のナポレオンの例に戻ると、小説がナポレオンに関して虚構的に成り立たせている虚構的真理と、ナポレオンに関する現実の事実がある程度一致していなければならない。

一方、ごっこ遊びの場合、人形を抱けば、赤ちゃんを抱くことが虚構的に成り立つ。人形をなでれば、赤ちゃんをなでることが虚構的に成り立つ。ごっこ遊びにおいては、こんな風に、人形に関する事実と、赤ちゃんに関する虚構的真理の間の対応がいくつも成り立つ。

両者を並列してみよう。

表象体 現実の事実 虚構的真理
戦争と平和 ナポレオンは皇帝である, ナポレオンはロシアに遠征する, etc. ナポレオンは皇帝である, ナポレオンはロシアに遠征する, etc.
人形 子どもは人形の頭をなでる, 子どもは人形を抱く, etc. 子どもは赤ちゃんの頭をなでる, 子どもは赤ちゃんを抱く, etc.

人形の方は、ごっこ遊びの参加者の行為に関する事実であるが、確かに対応が成り立っている。ウォルトンは、行為に関する事実も虚構的真理(虚構性)に含めるので、どちらのケースでも現実の事実と虚構的真理の間の対応が成り立つのだ。

改めて想像の対象とは何か

最初の方で説明したように、ウォルトンは「Xについて想像する」とは何をすることなのか分析していない。しかし上記のような説明から、ウォルトンが「Xについての想像」をどのようなものとして捉えているかはある程度見えてくるだろう。まずXについての想像は、Xの姿をある程度歪めてもよい。人形が赤ちゃんであると想像することもできる。

一方で、Xに関する現実の事実と、Xについて想像された内容の間には、多くの対応が成り立っていなければならない。しかしこの対応は、行為を通じたものであってもよい。例えば、人形をなでることで、赤ちゃんをなでることを想像するという形でもよい。ごっこ遊びで使用される想像の対象に関しては、この種の行為を通じた対応が成り立っていることが多い。

この種の行為を通じた対応は、小説などにはあまり見られない事例ではあるだろう。しかし上記のように一般化し、一見すると見えづらい両者の形式的類似を明らかにすることで、それ自身が自伝であると想像させる小説といった事例も、同じように説明することが可能になる(3章6節)。これは、この『フィクションとは何か』という本のおもしろいところだろう。

*1:なお、以下の定義は、表象の対象に関してはーー基本的にはこの路線であると言えるもののーーあまり正確ではない。なぜならウォルトンのプロジェクトは、表象一般の理論という側面をもっており、表象の概念は、想像や虚構性といった概念によって説明される。従って、定義の説明項には「表象」という語は現われない。

*2:ちなみに、ウォルトンは想像の対象とは別に、想像の小道具という概念も導入しており、これは「依り代」に近い意味かもしれないが、この概念と「想像の対象」の概念ははっきり区別されている。

*3:「虚構的に成り立たせる」の原語はmake it fictionalであり、「虚構的にする」が直訳だが、ここは訳書に従う。

*4:先ほどの訳注では、人形の例があげられているにも関わらず、なぜかこの箇所を無視している。

*5:なお、この際、人形は、虚構において赤ちゃんなので、人形はそれ自身と対応しているという変な言い方にならざるをえないことに注意。

芸術概念の誕生と芸術の理論(Lopes『芸術のかなた』二章)

タイトルの訳はてきとう。

Beyond Art

Beyond Art

ちょっとずつ読んでるが、二章の歴史の話がなかなかおもしろい。

ロペスは、芸術に関する理論をふたつにわけている。

  • 芸術作品の理論theory of art: 「xが芸術作品であるとはどういうことか」「何がxを芸術作品にするのか」に答える理論。
  • 芸術活動の理論theory of the arts: 「Kが芸術であるとはどういうことか」「何がKを芸術にするのか」に答える理論。

英語の直訳だと「芸術の理論」「諸芸術の理論」になるのだが、めちゃめちゃわかりにくいので、とりあえずここでは、「芸術作品の理論」と「芸術活動の理論」と呼ぶ。芸術作品の理論は、芸術作品とは何かに答えるもので、芸術活動の理論は、どんな活動が芸術に属するのかを答えるものだ。たとえば「作者のいない作品はありえるか」というのは、芸術作品の理論が答える問いだし、「ゲームは芸術か」とか「ファッションデザインは芸術か」というのは、芸術活動の理論が答える問いだ。

20世紀以降、美学の主要な論点は、芸術作品の理論だった。美学者は、芸術作品とは何かについてさんざん論争してきた。ロペスのこの本はこの力点を芸術活動の理論の方に移すことを提案しているのだが、二章では背景となる歴史が語られている。「芸術作品の理論」全盛はあくまで20世紀以降の傾向であり、それ以前はむしろ「芸術活動の理論」がさかんだった。ロペスは18世紀19世紀20世紀をそれぞれ扱っているが、以下ではとりあえず18世紀の話をまとめておく(長くなったので力つきた)。

芸術概念のはじまり

18世紀に関して、ロペスのネタ元はPaul KristellerのThe Modern System of the Artsという論文だ。Kristellerに従えば、芸術の概念が完成したのは18世紀半ばのフランスだ*1

芸術概念の成立ということでここで意味されているのは、絵画や音楽や詩を「似た活動」としてまとめあげ、それを学問や他の技術から区別する発想だ。よく知られているように、それ以前の"art"*2という語は、現在の「技術」に近い意味であり、絵画や彫刻だけではなく、哲学や天文学や釣りや工学やその他さまざまなものを含んでいた。

要するに、現在ある芸術の分類に近いものが完成したのが18世紀だった。この新しいグループの中核にあったのは、絵画、彫刻、建築、音楽、詩。よく含まれていたのが造園、ダンス、舞台、散文。またこのグループは、リベラルアーツや実践的技術や科学といった他の新しいグループから区別されるようになった。なお、この辺の歴史は日本語だと佐々木健一美学事典』の「芸術」の項目などが簡潔にまとまっている。

また、この新しいグループは、理論によって保護された。Paul Kristellerによれば、この重要なステップは、シャルル・バトゥーの理論によってなされた。バトゥーによれば、芸術は美しい自然を模倣するという共通点をもっている。この理論は、同時代でもさまざまに反論されたが、それが提案していた分類そのものは否定されなかった。これはおもしろいところだと思うが、バトゥーの理論そのものは正しくないかもしれないし、受け入れられもしなかったが、それによって芸術概念が導入され、安定化することになった。

芸術概念は理論──バトゥーの模倣理論──によって導入され、その概念がまとめあげているものは、この理論が同一視したものたちであると理解された。理論は概念の指示を固定したが、その理論がすぐに廃棄されたのだ。すべての概念がこんな風になっているわけではない。重力、人格性、色の民間概念は、重力、人格性、色の理論によって導入されたわけではない。18世紀の芸術概念はポリマーの概念や論理的完全性の概念の方に似ている。ポリマーや論理的完全性の概念とはちがって、それは今や民間概念のレパートリーへと浸透したのだけど。p.29

ロペスがここから引き出している重要な帰結は、バトゥーの理論が「芸術活動の理論」であることだ。それは活動が芸術に属するのは、何によるのかを述べている。どんな活動が芸術に属するのか? ──美しい自然を模倣するようなものを生み出す活動。

もちろんこの理論から、「芸術作品の理論」を引き出すこともできる。芸術作品とは何か?──美しい自然を模倣するもの。そのかぎりでは、18世紀に芸術作品の理論があったと言ってもいい。しかし、この「芸術作品の理論」は「芸術活動の理論」の単なる系であって、特に問題になっていなかった。例えば、模倣理論には、さまざまな反例があげられたが(例えば、器楽曲は模倣しない)、それはあくまで「芸術活動の理論」に対する反例であって、美しい自然を模倣しない作品があることについては特に問題になってはいなかった。例えば、絵画が総体として芸術であると言えるかぎりにおいて、ひどい光景を描いた絵画もあるということは深刻な反例とは見なされなかった。

*1:ただし、Kristellerは「18世紀以前に芸術はなかった」という主張は否定するらしい。これはあくまで芸術概念誕生の日付だ。

*2:ギリシャ語の「テクネー」

「キャラクタは重なり合う」は重なり合う

タイトルに特に意味はない。

少し前に「図像的フィクショナルキャラクターの問題」という論文を書いた。

ハーフリアル』の翻訳も好評、きえいのゲーム美学者松永伸司*1が、先日フィルカル Vol. 1, No. 2掲載の論文「キャラクタは重なり合う」で、上記の論文を詳細に検討してくれた。本エントリは、こちらの論文にリアクションすることを目的とするものだ。ただし、直接の反論というよりは、論文であまり敷衍できなかった論点などの補足が多い。

なお、少し前にシノハラユウキの『フィクションは重なり合う』でも、こちらの論文の内容をさらに応用し、作品批評の形で展開してくれている*2。元々私の論文自体、分析美学におけるフィクションの哲学や描写の哲学の問題をマンガ表現論や批評の文脈に接続することが狙いのひとつだったので、この種の試みは非常にありがたい。

ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム

ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム

フィクションは重なり合う: 分析美学からアニメ評論へ

フィクションは重なり合う: 分析美学からアニメ評論へ

キャラ絵の話

先にちょっと関係ないようで関係ある話から。下は私が描いたスネ夫の絵だ。

f:id:at_akada:20161019233851p:plain

私が描いたのは、あんまりうまくないので微妙だけど、「スネ夫の絵を描いて」と言われたらだいたいこういうのを描くだろう。重要なのは、この絵は様式化を含んでいることだ。スネ夫は口が顔からはみ出ており、顔の下から三分の一がほぼ口に占められているような様式で描かれる。

しかし普通に考えれば、これはデフォルメであるはずだ。スネ夫は設定上人間なので、おそらく、顔の下から三分の一が口で、口が数センチ顔からはみだしているような形状ではない。「いや、実はそういう特殊な顔のかたちなのだ」という解釈が難しいという話はもう論文でやったので、ここでは取り上げない。ここでは、論文で「非正確説」と呼んだ立場を前提としている。

ところが、キャラクター*3の絵(以下「キャラ絵」と呼ぶ)の場合不思議な現象があって、「スネ夫の絵を描いて」と言われれば、この様式を採用しなければならない。これはかなり奇妙な話で、様式は、本来なら任意に選択できるはずだ。ところが、スネ夫の絵を描くときに、口をもっと人間らしい大きさにして顔の真ん中に配置することは、スネ夫の絵としては不正解だろう。ある種のキャラ絵には、「正解」「不正解」がはっきりあって、しかもそれは特定の様式化と結びついている*4。「リアルドラえもん」のような絵がギャグとして通用するのも、こうした慣習を前提にした上でのことだろう*5

一方、「石原さとみ(実在の人物なら誰でもいいけど)の絵を描いて」という場合だと話は別だ。私は描けないので描かないけど、描ける人ならば自分の絵柄で石原さとみの似顔絵を描くだろう。そこでは、目を大きく描くとか、口を大きく描くというのは、スタイルとして自由に選択にできるものであるはずだ。そこに「うまい」「へた」はあっても、「正解」「不正解」はない。そう言えば、少し前にいろんな絵柄でシン・ゴジラの登場人物を描くのが流行ったが、そこに、スネ夫の絵のような「正解」はないだろう。

まとめると、(ある種の)キャラ絵と、実在の人物の絵というのは、かなり異なるものであるように思われる。

絵の種類 評価規準 様式化
キャラ絵 正解/不正解 特定の様式化と結びつく
実在の人物の絵 うまい/へた 様式化は自由

絵の二種類の内容

「顔の下から三分の一が口」「口が数センチ顔からはみだす」といった描写は、あくまでも様式化だということをさっき書いた。この種の「様式化された絵に描かれ・見てとることができるが、対象に帰属されない性質」を論文では、「分離された内容」と呼んだ。

つまり、スネ夫の絵は以下のような二種類の内容をもつ。

内容の種類 内容の中身
分離された内容 顔の下から三分の一が口。口が数センチ顔からはみだす。
描写内容 口の大きさなどについては不確定。

上記の2つの内容の区別は、描写の哲学などでは以前から指摘されていた事柄であり、特にキャラクターの絵にかぎった問題ではない。よくあげられるのは棒人間の絵の例だが、棒人間は「簡略化された人間の絵」であって、棒状の謎生物を描いたものではない。それは棒状のシェイプを描くことで(分離された内容)、簡略化された不確定な人間の身体(描写内容)を描いている。

ただし、前節で指摘したように、ある種のキャラ絵の場合、特定の様式化と固定的に結びつくために、事態がややこしくなる。スネ夫は、つねに特定の分離された内容を伴って絵に描かれる。スネ夫は実際にああいう形状なのだと(誤って)言いたくなる理由のひとつは、そこにあるだろう。

キャラクターの識別

松永はキャラ絵の正解/不正解の話から、キャラ絵には、「登場人物を表わすもの」という水準だけではなく、演じ手としてキャラクターの役割を表現する水準もあるのではないかという話へ進んでいく。前者は通常の物語内の登場人物としてのキャラクターで、こちらはDキャラクタ(ダイジェスティックキャラクタ)と呼ばれる。後者は、演じ手としてのキャラクターで、Pキャラクタ(パフォーミングキャラクタ)と呼ばれる。Pキャラクタは、上記の分離した内容に相当する性質をもち、それにくわえ、キャラクターの設定の一部を持つ。詳しくは上記の松永論文を参照。

この松永の試みは、おもしろいアイデアだと思う。ただし、私自身は、このアイデアの真価はつかみかねている。少なくとも、上記のようなキャラ絵に関する現象はもっとシンプルに説明できるように思うからだ。

以下素描的に、私なりの説明を書きつらねてみよう。まず、マンガやアニメには、実際的な問題として、絵の上でキャラクターの識別ができるようにしなければならないという課題がある。描き手は、このためにさまざまな手段を用意する。それは、衣装や髪型や髪の色のような「記号」による場合もある。あるいは、記号に頼らなくても顔立ちをきちんと描きわけられる作家もいる(ただし、その場合も、顔立ちなどが識別を可能にする目印になるわけだが)。いずれにせよ、読み手はそれらの目印を手がかりに、どの絵がどのキャラクターに対応するのかを判別するだろう。

キャラ識別の目印として、同じ様式化を使って同じキャラクターを描くという選択肢もある。例えば、スネ夫の口が顔から突き出ているように描かれることは、この一例だろう。それは、単にスネ夫の顔形を表現するだけではなく、スネ夫の絵を他のキャラクターの絵から区別可能にする役割も負っている。

作者にとって利用可能な目印は、原理的には他の人による再生産も可能だ(正確な再現には、田中圭一のような高度な技能が必要だとしても)。また、共同制作などのケースでは、実際にこの種の目印が複数人によって利用され、特定のキャラクターを描いた絵を作り出すために用いられるだろう。

一方、「スネ夫の絵を描いて」という日常の場面でリクエストされているのは、この再生産の作業、つまり「公式の作品で用いられる目印を用いて、公式の作品と同じ形でキャラ絵を再生産してほしい」ということであるように思われる。要するに、それは「登場人物を絵に描け」というプレーンな依頼ではなく、「作品と同じ仕方でキャラ絵を作れ」というもっと特殊な要望なのではないだろうか。

上記のように理解すれば、キャラ絵に、明確な正解/不正解があり、様式化も固定されるという現象は説明できる。またこの種のリクエストが、記号化され、多くの人が再生産可能なキャラクタに限定されがちであることも注意しておきたい。例えば『はじめの一歩』の一歩のような比較的写実的なキャラ絵を描いてほしいというのは、無茶な依頼になるだろう。

ここではあくまで「絵」の話しかしてないし、松永のようにキャラクター概念を二種類にわけるような話はしていない。個人的にはこのくらいの説明で十分ではないかと思うのだが、二次創作など、キャラクターの間作品的同一性まで広げて考えれば、松永のアイデアには別の有効性があるかもしれないとも思う。また、ひょっとするとあまり対立することは言ってないのかもしれないとも思うのだが、「キャラクタ空間」などの松永のアイデアの有効性はまだよくわからずにいる。

美的判断の問題

論文では、非正確説から、キャラクターの美的判断に関するパズルが生じることを論じた。詳しくは繰り返さないが、基本的に、このパズルが生じるためには、以下の二つの条件を満たす事例があればいい。

  • 1 鑑賞者は、キャラクターの外見に関して、正当に美的判断できている。
  • 2 様式化、特に形に関するデフォルメが用いられており、非正確説に従えば、鑑賞者はキャラクターの外見について十分に知ることができない。

私の主張は、明らかにこれを満たす例はたくさんあるだろうというもので、論文では、『ひだまりスケッチ』の例をあげた。一方、以下の前提ももっともらしい。

  • 3 キャラクターの外見に大して美的判断をおこなうには、その外見について十分に知っていなければならない。

ところが、これと2から1の否定が出てきてしまう。私は、フィクションに関して3が成り立つことを否定し、以下のようなフィクションにおける画像の解釈規則を提案した。あれこれ書いているが、要するに基本的な中身は、「デフォルメなどを含むキャラ絵の場合、分離した内容をもとに登場人物の印象や美的性質を判断していいよ」ということだ。

キャラクターxの公式の図像が、恒常的に、分離された対象yを持ち、鑑賞者sが美的判断によってyに美的性質Pを帰属させるならば、フィクションにおいて、sは美的判断によってxに美的性質Pを帰属させる。p.32

松永論文では、このパズルの解決が批判されている。ただ、ここの議論は多少誤解が含まれていると思う。

松永によれば、上記のような規則には明らかに反例がある。「この規則によって説明されるケースもあるだろうが」、そうでないケースもあるだろうと言うのだ(p.103)。例えば、『ナニワ金融道』に美男美女という設定のキャラクターが登場しても、美男美女には見えないという例を松永はあげている*6

しかし、これはまずパズルの理解としてちょっとおかしい。私が元々取り上げていたパズルは、理想的なケースに関するものであることに注意してほしい*7。つまり私は、1のようなことがつねに成り立つだろうとは言っていない。考えたかったのは、様式化が用いられる事例でも、いくつか条件が成り立てば私たちはキャラクターの外見に関して美的判断ができるように思われるし、ある程度理想的なケースであっても鑑賞者が自らの趣味を通じてキャラクターの美的性質を知ることができないとすれば、それは奇妙だろうという問題だ。この意味で、松永があげている『ナニワ金融道』などの例は元のパズルとは直接関係ない。松永があげている事例では、そもそも1が成り立っているかどうかあやしいということには同意する。したがってこの点では、特に対立はないと思う。

もし松永が、様式化が用いられ、鑑賞者が登場人物の外見を十分知ることができない事例では、いかなる条件が整っていても、登場人物(Dキャラクタ)の美的性質を鑑賞者が趣味に基づいて知ることができないと認めるなら対立するだろう(私が論文で、誤謬説と呼んで拒否しているのはこれを認める立場だ)。しかし、どうもそうではなさそうなので、ここは誤解だと思う。

おかしなフィクション

また、これについては私の書き方が悪かったのかもしれないが、私は上記の規則を反例のない法則のようなものとして提示したつもりはなかった。以下この点を敷衍しつつ、理想的でないケースの話をしよう。上記の規則は、「なるべくそのように読め」という類の規則だ。類比で考えるために、これと似た規則をあげよう。例えば、「明示的に否定されないかぎり、登場人物は現実の人間に類似したふるまいをすると想定せよ」という規則は、これに近い。

登場人物が現実の人間らしくふるまわず、この規則の適用が難しくなる例はたくさんある。たとえば『ウルトラマン』の第一話では、突然現れた謎の巨人(ウルトラマン)が怪獣ベムラーと戦いはじめる。それを見ていた科学特捜隊のメンバーは、なぜかはじめからこの巨人が怪獣を倒しに来た正義の味方であると信じ込んでおり、応援をはじめる。もちろんウルトラマンが正義のヒーローであることは、この作品において実際に正しいのだが、ハヤタ以外の科学特捜隊のメンバーがそう信じた理由はわからない。むしろ登場人物が得ているはずの情報からすれば、この場面は「二体の巨大生物が格闘をはじめた」と理解されるように思われる。登場人物が現実の人間のように状況に対応すると想定するかぎり、上記のような場面はきわめて不自然だ*8

この場面で、何が虚構的真なのかは難しい。科学特捜隊はものすごく楽天的なのかもしれない。勘で正義の味方を見分けたのかもしれない。未知の巨人を正義のヒーローと思い込むことは、この作品の世界ではごく普通のことなのかもしれない。これらの解釈のうちのどれが正しいのかは不確定なのかもしれない。

実際のフィクションは、すみずみまで整合的な世界ではないので、この種の例はいくらでもある。『ナニワ金融道』の例も、私はそのように理解する。美男美女であるはずのキャラクターがまったく美男美女に見えないことについては、無視すべきかもしれないし、この世界ではそれが美しい顔なのかもしれないし、不確定なのかもしれない。

しかしそのことによって、上記のような規則が存在しないことにはならない。むしろこの種の例が作品の欠陥に見えるのは、上記のような規則が一定の慣習的効力をもつからだろう。

これは、アドホックな慣習が現実にどうやって運用されるかという話であって、あまり理論的に解決する問題ではないと思う。これらの問題は、ウォルトンが馬鹿げた疑問silly questionと呼んだものに近い。ウォルトンはこの種の問題に対する解決策をいくつかあげている*9。基本的には、矛盾にいたる事実のうちのどれかを無視することになる。とりあえずここでは、多様な解決策があるということだけで充分だろう。

なお、やや脱線になるが、泉信行アイドルアニメと美少女の表現史 一九八〇—二〇一〇年代」は豊富な例とともに美少女表現の例を追っており、設定と表現のズレについても指摘がある*10。泉は、心理的な距離と美化の程度が絵のレベルでどう表現されるかを指摘している。泉の指摘によれば、形を抽象化することは、親しみやすさや心理的な距離の近さを感じさせる。また、装飾的な線を増やすこと(線の情報量)は、キャラクターを魅力的に見せようとする度合いに対応する。親しみやすさの表現と、装飾的な線の組み合わせは、ふつうの外見を魅力的に見せる目的に適する。一方、整った複雑な形を描くことは心理的な距離を感じさせ、「いわゆる美人」の表現に適している。

この種の例は、より複雑な事例──「いわゆる美人ではないが、自分にとっては魅力的だ」と鑑賞者に感じさせる作品*11──を示唆している。つまり、絵の分離された内容の美的判断が単純に登場人物に投射されるというだけではなく、それが主観的なものとして提示されるか客観的なものとして提示されるかという軸もあるのかもしれない*12

*1:以下は論文調なので、敬称なしでいきます。

*2:タイトルに「重なり合う」とつけるのがはやっている。

*3:なお、松永は「キャラクタ」と表記しているが、私は伸ばす方が好きなので、引用以外では「キャラクター」表記を採用させてもらう。

*4:ドラえもん』みたいな様式化された画風ではなく、もっと写実的な画風だと話は別かもしれないけど、とりあえずその話は置いておく。

*5:なお、原作と違う絵柄でスネ夫が登場する二次創作を描くことは、もちろん可能だろう。しかし「スネ夫の絵を描いて」という日常の風景で求められているのはおそらくそういうことではない。

*6:きちんと確認していないが、市村朱美などは美人という設定だったような気がする。肉欲棒太郎も美男設定かもしれない。なお、あまり関係ないが、青木雄二の絵はヘタなのかというのは昔BSマンガ夜話でも盛り上がっていた記憶がある。少なくとも、美男美女らしく見えない絵柄ではある。

*7:p.26あたりでいろいろ条件をつけている。設定と表現が食いちがっていないことは条件に明示的には含めていなかったが、含めてもよい。

*8:ちなみに、私は未見だが、『ウルトラマンG』では、この点が「改善」されており、ウルトラマンGは当初もう一匹の怪獣と見なされるらしい(@pubkugyo からこの情報をいただいた)。

*9:フィクションとは何か』pp.173-182。

*10:泉信行「アイドルアニメと美少女の表現史 一九八〇—二〇一〇年代」『ユリイカ2016年9月臨時増刊号 総特集=アイドルアニメ

*11:あるいは、語り手がそのように提示する作品といった方がいいかもしれない。

*12:ただし、鑑賞者は、単純に絵のレベルでかわいく見えればかわいい登場人物として扱う傾向にあるという点は泉によっても指摘されている。

Kendall Walton「音のパターンの提示と描写」

http://philpapers.org/rec/WALTPA-10

Walton, Kendall (1988/2015). The presentation and portrayal of sound patterns. In Kendall L. Walton (ed.), In Other Shoes: Music, Metaphor, Empathy, Existence. Oxford University Press 230-257.

In Other Shoes: Music, Metaphor, Empathy, Existence

In Other Shoes: Music, Metaphor, Empathy, Existence

これはウォルトンがめずらしく音楽作品の存在論(らしきもの)をやっている論文だ。初出は結構古い。主には音楽作品の上演と作品の関係を扱っている。演奏が、ある特定の作品の上演であるということは、何によって決まるのかという問題を扱っている。

ベートベン対メカベートベン

ウォルトンは、楽譜によって音のどの部分を決めるのかという規約が、文化相対的なものであることに注意をむける。例えば、ブラックホール第三惑星人の楽譜は、地球の西洋音楽とは違う文化に従う。ブラックホール第三惑星では、楽譜はピッチや音の長さを明確に特定せず、かわりに強弱やテンポや調音やヴィブラートに関して、地球より細かな指定をする。

ブラックホール第三惑星のメカベートベンという作曲家が書いた第六交響曲を考えよう。これはもちろん、ブラックホール第三惑星方式の楽譜で書かれたものだが、偶然、その演奏が地球のベートベンの第六交響曲の演奏と識別不可能なほど似ているということはありえる。このとき、この演奏は、メカベートベンの音楽作品の上演なのか? ベートベンの音楽作品の上演なのか?

音楽対料理対文学

上のような思考実験に対し、ありうる答えとして、「上演しか存在せず、音楽作品なるものはない」「上演がどの作品に属するかは、音楽システムに相対的な事柄だ」というものがある。

ウォルトンはこれを批判し、音楽の演奏に関して作品は、そんなどうでもいいものではないということに注意をむける。例えば、料理の場合、目の前の食物が美味しいかどうかがすべてであって、それが何のメニューに属するかは比較的どうでもいいことかもしれない。料理の場合、「作品」という抽象的なものはなく、目の前の食事がすべてだというのは正しいかもしれない。

一方、料理とは逆の極にあるのが文学作品だ。文学作品の場合、作品の個々の事例、つまり作品を印刷した紙それ自体の個別性にはほとんど何の価値も置かれないだろう*1。その機能は、抽象的パターンを提示することだけに限定される。

音楽はちょうどその中間にあって、作品自体も評価の対象になるし、演奏にも固有の貢献がある。さらに音楽の演奏は、パターンを提示する機能にくわえ、描写portrayalする役割をもっている。演奏は、パターンを解釈し、分析し、組織化する。演奏者は、例えば、二つの部分のアナロジーを強調するために、(それ自体は楽譜に指定されていなくても)音色を正確に似せたりする。

結論

演奏が演奏によって提示するパターンは当然ながら作品と無関係ではない。おそらくブラックホール第三惑星の演奏者の念頭にあるパターンは、ピッチや音の長さを特定せず、かわりに強弱やテンポや調音やヴィブラートを特定するようなパターンだろう。地球の演奏者の念頭にあるパターンは、反対にピッチや音の長さを特定するような構造をもっている。

以上を手がかりに、ウォルトンは以下のような条件を与えている。

ある音出来事がある所与の作品の上演であるのは、その出来事が生じる文脈において、その役割がその作品と一致する音パターンを提示することであるちょうどその場合である。

要するに、演奏がある作品の上演となるかどうかを決定するのは、演奏が提示しようとしているパターンだというわけだ。ただし、作品が提示するパターンは複数あるし、純粋な音の構造だけではない(楽器の種類とか)という問題もあって、最終的な定式化はもう少し複雑になっている。

ちなみに書籍版の後記では、最近の音楽作品の存在論に苦言を呈している。最近の音楽作品の存在論があまりおもしろくないのは、美的関心や音楽の価値や、それが聴取者に何を与え、生活にどう寄与するのかといったことから切り離して論じているからだと。「自分は作品の価値と切り離さずにやってるよ」という自負なのかもしれない。

*1:組版のデザインがよいということはあるかもしれないが、これを文学的価値に含めることはないだろう。

H.L.A. ハート『法の哲学』

読書会合宿企画に参加して読んだ。法哲学の古典。また日常言語学派の代表的な仕事のひとつでもある。

法の概念 第3版 (ちくま学芸文庫)

法の概念 第3版 (ちくま学芸文庫)

ハートはこの本で、おおむね『法とは何か』と表現できる問いに、おおむね『一次ルールと二次ルールを組み合わせたルールである』と表現できるような答えを与えている。一次ルールというのは何らかの義務を課すルールで、二次ルールとは、ルール自体の制定や改訂に関わるルール(変更のルール、認定のルール、裁判のルール)のことだ。この捉え方では、法とは、自らの改訂・運用のためのルールを含む、特殊なルールの集まりであるということになる*1

ただし、これはあくまで概要であって、ハートがどういう問いに対して、どのような答えを与え、その答えがどのように正当化されたのかということを厳密に説明することはかなり難しい。例えば、ハートによれば、この本の目標は「法law」という語の定義を明らかにすることではない。ハートは、法に対し、狭い意味での定義を与えることは不可能であり、有益でもないという風に考えているらしい。

じゃあ何なのかというと、私はハートのプロジェクトを今のところ以下のように理解している。ハートが目指しているのは、おそらくある種の機能主義的説明に近いものだ。ハートによれば、責務を課すルールとは別に、ルールの改訂や運用のルール(二次ルール)を設けることは、不確定性をへらし、変更を柔軟にし、運用を効率的にする。それは、さまざまな点で便利である。そして私たちが知っている法的秩序の多くの部分は、まさにこの機能を果たしているのだと指摘される。

[二次ルールをもたない]単純な社会構造の主要な三つの欠陥[不確定性、静的であること、非効率であること]への対処法は、責務を定める一次ルールに、異なる類型のルールである二次ルールを補足することである。各欠陥に対する対処の導入は、それぞれ、法前の社会から法的社会への一歩と考えることができる。それぞれの対処は、法に広く行き渡る多くの要素をもたらすことになる。p.159

例えば、裁判のようなルールの運用のための制度、執行や運用のための公務員、立法手続きなどは、二次ルールとともに、その運用のために導入されたものであるとされる。一次ルール+二次ルール説の魅力は、少なくともハートによれば、これら法的秩序の中核部分を説明できることにある。

「機能主義的」という言い方はあまり正確なのかどうか自信がないのだが、ともかく、現在存在する法的秩序のようなものがおよそ存在するかぎり、もたなければならない中心的な要素を取り出すことが目指されていると言ってもよいのかもしれない。

*1:正確には、これだけだと会社の規則なども入ってしまうので、適用範囲の広さなどの条件も含まれるようだ。また、ルールとは何かという話も別途なされているがその辺は割愛。

Shen-yi Liao & Aaron Meskin「美的形容詞: 実験意味論と文脈依存性」

Shen-yi Liao & Aaron Meskin, Aesthetic Adjectives: Experimental Semantics and Context-Sensitivity - PhilPapers

Liao, Shen-yi & Meskin, Aaron (2015). Aesthetic Adjectives: Experimental Semantics and Context-Sensitivity. Philosophy and Phenomenological Research 93 (1):n/a-n/a.

比較形をもつ形容詞を段階的形容詞と言う。段階的形容詞には「相対的段階的形容詞」と「絶対的段階的形容詞」があると言われる。

相対的段階的形容詞の例は「背が高い」「長い」「大きい」などだ。「背が高い」などの形容詞は文脈に依存的であると言われる。例えば「背が高い小学生」というのは、大人に比べれば身長は小さいかもしれない。「背が低いバスケットボール選手」は、普通の人に比べれば身長は大きいかもしれない。

このため、「太郎は背が高い」のような文の真理条件は、比較対象に相対的な形でしか、真理条件が定まらないとされる。相対的段階的形容詞の真理条件は指標詞などに似ており、文の内容ではなく、部分的には話し手が置かれた文脈によって真理条件が左右される。

一方、絶対的段階的形容詞の例は「曲がっている」「透明である」「まだらである」などだ。両者のちがいは、推論パターンだ。「AはBよりも背が高い」から「Aは背が高い」を推論することはできない。ところが「曲がっている」のような絶対的段階的形容詞の場合、「AはBよりも曲がっている」から「Aは曲がっている」という推論ができる。

例えば、「AはBよりも曲っているということは、Aはちょっとは曲がっているということだな。ちょっとは曲がっているということは、要するに曲がっているということだな」と考えてもまちがいではないだろう。ところがこの推論の「曲がっている」を「背が高い」に置き換えると、明らかに誤った推論になる。

これは実験哲学でも確認できるらしい。人は、いくつかの見本を与えられ「長いものを選べ」と言われると、見本の中で一番長いものを選ぶ。相対的段階形容詞の場合、選べと言われると、暗黙のうちに、見本の集まりを比較対象として構成するような作業をしてしまうわけだ。ところが、絶対的段階的形容詞の場合はこの現象が起きない。「曲っているものを選べ」と言われても、曲っているものは複数あるので選びようがないなどと判断され、「選べない」といった選択肢がとられる。

一方、ここから先が著者らの実験結果だが、著者らはこの実験を美的形容詞に適用した。すると、おもしろいことに、「美しい」などの美的形容詞は、このどちらともちがうふるまいをするらしい。相対的段階的形容詞の場合、多くの人は一番度合いが高いものを選ぶ。絶対的段階的形容詞の場合、多くの人は「選べない」と判断する。美的形容詞の場合、いずれかを選ぶ人と選ばない人が半々くらいになるそうだ。

著者らは、同様の実験を「美しいbeautiful」だけではなく「醜いugly」や「優雅であるelegant」*1でもやっているが、いずれの場合も似たような結果が出るらしい。

この結果が何を意味するのかはいろいろ考察されているが、この論文では特に決定的な結論は出ていない。

*1:「美しい」が評決的美的判断と呼ばれるのに対し、「優雅である」は対象の特徴にも関わるので実質的美的判断などと呼ばれる。