映画による哲学の関連書籍

前回のエントリで、「映画による哲学」というトピックはそれなりに盛り上がっていると書いた。論文では個々の文献の紹介などは書けなかったので、ついでに紹介記事。

ちなみに「映画による哲学」と「映画の哲学」を混同しないように注意。「映画の哲学」の方が広い。「映画の哲学」は、「映画とは何か」とか「人はなぜホラー映画を観るのか」といった、映画に関連する哲学の問題を扱う分野だ。「映画による哲学」は、「映画の哲学」の中の1トピックで、「映画は哲学できるか?」という問題を問うもの。

盛り上がっていると言っても、まだまだ確立された分野という感じではないが、文献はそこそこある。

Thinking on Screen: Film as Philosophy

Thinking on Screen: Film as Philosophy

この分野の第一人者Wartenbergさん。バランスがよく読みやすいし、基本的な論点はだいたいここに出てくるので、もしこの分野に興味があれば、最初の一冊はこれがよいと思う。わりとスタンダードで常識的な立場を擁護しているので、すごくおもしろいことを言ってるわけではないが、だからこそ議論の叩き台にもしやすい。およそ、この分野が成立したのは、本書のおかげではないかと思う。各章ごとに映画作品を扱っているのだが、作品論の部分もおもしろい。この分野は、おそらく「授業で使う」という需要もあると思うのだが、この本は授業向きなような気もしないでもない(授業したことないので知らない)。

On Film

On Film

Mulhallさんはスタンリー・カベルの後継者みたいな人で、独自路線を進んでいる。本書は、第一版時点でOn Filmというタイトルなのにエイリアンシリーズしか扱わないというすごい本だったが、第二版でミッションインポッシブル論(!)が追加され、第三版でまたいろいろ追加され、版を重ねるたびに長大になっている。ミッションインポッシブル論はちょっと読んだのだが、文章が難しすぎて……なんかモダニズムとか…人間の条件が……という話をしているということしかわからなかった(ミッションインポッシブルなのに……)。ちゃんと読むと、すばらしいことを言っているかもしれないが、私は挫折したので評価不可能。

Thinking Through Film: Doing Philosophy, Watching Movies

Thinking Through Film: Doing Philosophy, Watching Movies

Wartenbergとかなり重なっている印象。前半の理論の箇所しか読んでないが、個人的にはWartenbergの方がよかった。

Thinking Through Cinema: Film as Philosophy

Thinking Through Cinema: Film as Philosophy

美学の専門誌JAACの「映画による哲学」特集号を論文集にしたもの。質・テーマともにバラバラだが、モノグラフとちがって、映画による哲学に否定的な立場からの論文もあるので、検討材料によい。いわゆる美学っぽい論文は半分くらいで、個々の映画を扱った作品論が半分くらい。

Philosophy of Film and Motion Pictures: An Anthology (Blackwell Philosophy Anthologies)

Philosophy of Film and Motion Pictures: An Anthology (Blackwell Philosophy Anthologies)

映画の哲学のリーディングス。論文を書いてるときに入手できなかったので読んでないが、Film and Knowledgeのパートの論文は読んだ方がよさそう。

なお、私の論文でも扱ったAaron Smutsは映画の哲学のイントロダクションを出版しようとしており、「映画による哲学」もこの中で扱われるはずなのだが、こちらはまだ出版される気配がない。既存の論文を読むかぎりおもしろいので、出版されればおすすめしたい。

Philosophy of Film: A Contemporary Introduction

上記の他にオンライン資料としてInternet Encyclopedia of Philosophyの記事や、PhilPapersのPhilosophy Through Filmの項がある。

書いた論文の宣伝

1. 『フィルカル』

『フィルカル』の次の号に「フィクションの中の哲学」という論文が載るので宣伝。

この論文では、「フィクション作品を通じた哲学」という話題を扱っている。日常的にも、「この作品は哲学的な問題を扱っている」といったことを感じることはあるのではないかと思うが、ここで扱っているのはそれだ。

実はこのテーマについては、英語圏ですでにそれなりに議論の蓄積がある。特に映画に関して、「映画による哲学」というテーマはそれなりにホットな話題になっていて、本も何冊か出ている。そうした中で、基本的な論点はすでに一通り出ているのだが、日本語でこの辺りの議論を紹介したものはこれまで特に無かった。ところが、何と私の論文を読むとこの辺の議論の蓄積をある程度知ることができる! やった!

(網羅的に紹介したわけではまったくないけれど)

ちなみに、「作品が素敵な洞察を与えてくれる」といった価値のことを、芸術作品の認知的価値という。作品の認知的価値に関しては以前からぼんやり関心があったのだが、この論文では、(1)作品はどんな認知的価値を与えてくれるのかという問いを、(2)哲学とはどんな営みなのかという問いとセットで扱っている。フィクション作品と哲学を、認識に関する機能の側面において比較していると言っても良いと思う。従って、「哲学とはどんな営みなのか」というメタ哲学の問題に関心がある人にも薦められる。

また、この論文では、作品による哲学の具体例として『ウルトラQ』第11話「バルンガ」を扱っている。一節はまるまる「バルンガ」の作品論に当てているので、『ウルトラQ』が好きな方もよろしく。

2. 基礎論

もうひとつ、科学基礎論研究にも「ストーリーはどのような存在者か」という論文が載った。

こちらはナラティブとストーリーの話をしている。二つの問いを扱っている。

  1. トーリーの同一性の基準は何か(小説と映画のストーリーが同一だとか言う場合のストーリーね)
  2. 人生や歴史などを「物語」と見なすことは正当か

私は、まず前者に対して、「ストーリーは(ある特別な種類の)出来事だ」という解答がもっともらしいというのを擁護している。さらにその解答を前提すれば、人生や歴史が物語(正確にはストーリー)であるというのもリテラルに受けとって問題ないだろうという話をしている。

アーカイブ騎士団『怪獣小説集』kindle版発売のおしらせ

怪獣小説集

怪獣小説集

第二十三回文学フリマ東京でブースにご来場いただいた皆さま、ありがとうございました。

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当日は、団員の趣味により、怪獣フィギュアで埋めつくされたブースとなりました。このせいでときどき子どもが集まってきて、怪獣の話をしてくれるのが印象的でした。今どきの子どもは、昔のウルトラ怪獣なんて知っているかなあと思ったんですが、詳しい子は詳しかったですね。

kindle版もすでに販売しております。

内容紹介については以下をご覧ください。

『アーカイブ騎士団008 怪獣小説集』(第二十三回文学フリマ東京)の宣伝 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

ルートレッジコンパニオン美学「ビデオゲーム」

お勉強。

The Routledge Companion to Aesthetics (Routledge Philosophy Companions)

The Routledge Companion to Aesthetics (Routledge Philosophy Companions)

著者はGrant Tavinor。

目次

著者も書いている通り、ビデオゲームは芸術か?という問題は大半のゲーマーにはどうでもよい問いだ。その答えによってビデオゲームのおもしろさが変わるわけでもない。しかし、芸術の定義問題を考える上ではおもしろい問題になりえる。

ビデオゲームは芸術かという問いは、「ビデオゲームは芸術形式か?」という問いとして理解されねばならない。ビデオゲームが芸術形式であるために、ビデオゲームのすべての事例が芸術作品である必要はない。絵や写真は芸術形式だが、芸術でない絵や芸術でない写真もある(家電の説明書に載っている絵や証明写真を想定されたい)。おそらく、パックマンスペースインベーダーは芸術ではない。

しかし、ビデオゲームの一部の事例は明らかに芸術が持つとされる特質の多くを備えている。映画を芸術にカウントしておいて、レッドデッドリデンプションやBioShockを芸術にカウントしないのはおかしな話だ。そこには物語があり、テーマがあり、高い技術と創造性が提示され、感情が表出され、それらが批評の対象となり、知的挑戦や形式の複雑さが提示される。芸術の定義のクラスター説によれば、これらはまさに芸術を特徴づける性質だ。

著者は、Roger Ebertという映画批評家の「ゲームは芸術でない論」を紹介している。それによれば、ゲームには勝ち負けがあるので芸術ではない。ゲームには、ルールやポイントやゴールや勝利条件があるが、芸術というのはそういうものではない。

しかしこの説には二つ問題があって、

  1. そもそもすべてのゲームに勝ち負けがあるのかあやしい(古典的ゲームと現代的なビデオゲームを混同している)。
  2. ゲームには、過去の芸術に無い要素があるとして、それが何なのか。なぜそれらの特徴をもつことによって芸術でなくなるのか。単に新しい種類の芸術だと考えればいいのではないか。

より興味深いのは後者の問題で、ビデオゲームは、これまでの芸術形式にない要素をもちこんだ。ビデオゲームは、コンピューターアートとともに、「インタラクティブ性」という過去の芸術には無い要素をもっている。では、インタラクティブ性とは何なのか? ロペスによれば、インタラクティブな作品とは、その構造的特徴が、部分的に相互作用者の行為によって決定される作品だ。例えば、多くのビデオゲームでは、鑑賞者の側の決定によってストーリーが変化する。

この辺のインタラクティブ性を巡る議論は、個人的にも興味あるところだ。フィクション論の文脈で言えば、ゲームは鑑賞者が自ら虚構世界の中で虚構的行為を行ない、虚構的真理を変化させることができる媒体だ*1。もちろんごっこ遊びなどを考えれば、他にもその種の状況はあるのだが、それらは比較的真剣に取り上げられることの少ない対象ではある(ウォルトンやゴンブリッジを例外として)。一方、ウォルトンらにもフィクションはごっこ遊びとはちがうといった批判がよせられることもある。しかし個人的には、その種の論者に対しては、小説や映画のことしか考えておらず、ビデオゲームのような媒体をほとんど無視しているのではないかという疑問をもっている。われわれは、ビデオゲームのような新しい媒体を扱う枠組みをそもそもあまりもっていないので、まあその辺は哲学的にもいろいろおもしろいところだ。

なお、以上のようなことに関心がある人は、翻訳が出たばかりの『ハーフリアル』を読むとよいだろう。

ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム

ハーフリアル ―虚実のあいだのビデオゲーム

*1:ちなみに、テトリスのような抽象ゲームもあるので、ゲームのすべてがフィクションであるわけではない。ここで想定しているのは、虚構の物語を語る一部のゲームのことだ。

『アーカイブ騎士団008 怪獣小説集』(第二十三回文学フリマ東京)の宣伝

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第二十三回文学フリマ東京に参加します。新刊『怪獣小説集』が出ます。

項目 内容
開催日 2016年11月23日(水祝)
場所 東京流通センター 第二展示場
サークル アーカイブ騎士団
ブース D-02
Webカタログ https://c.bunfree.net/p/tokyo23/6476

新刊『怪獣小説集』堂々上陸!ユートピアを求め深宇宙へ旅立ったアーカイブ騎士団。帰還した彼らは怪獣と化していた!太平洋大戦末期のNYに出現した怪獣!高野山を襲うAR怪獣!模様がチューリングマシンになっている怪獣!これからの200ページ、あなたの心はあなたの体を離れ、この不思議な小説の中に入って行くのです。

空前の怪獣ブームなので怪獣小説集です。

サークル過去作はこちら

以下掲載作の紹介(これ以外にも短かいものがいくつか載ります)。

「ニューヨークと朝霞の光線怪獣」@mmww

サンプル

大戦末期、NYに現れた巨大怪獣。ポツダム宣言受諾を拒む陸軍省は、怪獣出現に戦争継続の希望をかけた。一方、第三工学部怪獣光学講座の水地助教授は陸軍中尉小田切と出会う。大戦末期の日本を舞台にした怪獣小説。

「怪獣の声」@at_akada

サンプル

人類が移民した惑星。そこには動かない巨大な怪獣が立っている。近付かなければ特に害がないため、怪獣の周りに人間が平然と暮している。ある研究者は怪獣の模様がチューリングマシン(コンピュータ)になっていることを発見し、怪獣の模様を研究するプロジェクトがはじまる。ところが、模様の「プログラム」に対する複数の解釈が現われ……。スタニスワフ・レム「天の声」のオマージュでもある。

「巡る怪獣」天野ロカリス

サンプル

前方から糸を繰り、後方から糸を出して、地球を回転しつづける巨大怪獣毛糸玉。ある日毛糸玉の糸に異変を発見した怪獣研究所I島支所の人々は……。

「行為主体GO〈1〉」@pubkugyo

サンプル

ARゲームのモンスターが現実世界を侵食しはじめ、自律性の低い者からモンスターの餌食になっていく。ARゲームが禁止された高野山は人類に残された聖域になっていた。

※未完のため、後日つづきを公開する予定

ウォルトンにおける想像の対象

2017/04/17追記: その後訳者の田村さんから反論をいただきました(参照)。

フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―

フィクションとは何か―ごっこ遊びと芸術―

この記事はケンダル・ウォルトン『フィクションとは何か』という本の、ある訳注を批判することで、ウォルトン解釈を明確にすることを狙ったものだ。以下での主たる関心は、ウォルトン解釈、特に「想像の対象」という概念にある。ウォルトンのような存命の哲学者に対して解釈を云々するのもどうかとは思うのだが、正直に言って、ウォルトンの主張はあまり理解されていないように思う。主張がまともに理解されていない状況で「メイクビリーブ理論」などの名称だけが流布している状況はあまりよろしくないので、こういう記事も少しは書く意義があるだろうと考える。

なお、ウォルトンについては以前も以下のような記事を書いた。

Kendall Walton『メイクビリーブとしてのミメーシス』: 虚構性 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

想像の対象と表象の対象

Mimesis as Make-Believeの翻訳である『フィクションとは何か?』には以下のような訳注がついている。

「表象体の対象(an object of a representation)」という概念と、「想像活動のオブジェクト(an object of imagination)」という概念は異なるので、注意が必要である。想像のオブジェクトは、想像活動を展開するための物体的な手がかり、いわば想像の「依り代」とでも言えよう。ある人形がごっこ遊びの中で赤ちゃんとなっているとき、その人形は、赤ちゃんを想像する際の想像のオブジェクトである(第1章3節参照)。他方、この人形が現実のある赤ちゃんに酷似するように、その肖像として作られているとき、この人形という表象体の対象はその現実の赤ちゃんである。 訳p.28 訳注[1]

訳者である田村氏は、ウォルトンが使っている「想像のobject」には、「表象の対象object」という場合のobjectとはちがう意味があると考えているらしく、想像のobjectを「想像のオブジェクト」と訳している。

しかし、ウォルトンはここで言われているような区別はしていないし、この想像のオブジェクトの説明はかなりおかしい。区別していないというのはどういうことかというと、想像のケースでも表象のケースでも、「対象object」という語はそのごく標準的な意味、つまり「xがyの対象であるのは、yがxについてのものであるちょうどそのときである」という仕方で使用されている。これは別にウォルトンの特殊な語用などではなく、志向性が哲学で扱われる際の標準的な仕方だろう。

それぞれについて書き下せば以下のようになる*1

  • xが想像の対象であるのは、xについて想像をしているちょうどそのときである。
  • xが表象の対象であるのは、xについての表象があるちょうどそのときである。

訳者の方はおそらく、想像の対象objectに関しては、「想像の依り代」のようなもっと特殊な意味が込められていると読んだのだろう。しかし、この読みは維持できない。なお、もちろん表象と想像は別の種類のものなので、そのかぎりで表象の対象と想像の対象は異なる。それは否定しない。私が否定しているのは「想像の対象」という言葉で「想像の依り代」のような特殊なことが意味されているという主張である。

想像の対象の話はそもそもかなり難しいのだが、きちんと読めばウォルトンが一貫した立場を取っていることはわかるし、実はかなりおもしろいことを言っている。

テキスト的根拠

まず「想像の対象object of imagination」という語が、どのように導入されているかを見よう。

布で作ったお人形で遊んでいる子どもは、赤ちゃんを想像するだけではない。そのお人形が赤ちゃんだと想像しているのである。…人が想像活動をそれについて展開する事物が、想像の対象である。p.25, 訳p.25、強調引用者

想像の対象とは、想像者がそれについて想像しているところのものであるという風に導入されている*2。なお、この際、ウォルトンが人形や木の切り株のようなものだけを想像の対象に含めているわけではないことは注意しておきたい。この節(1章3節)とそのすぐ後の節(1章4節)では、自己についての想像の事例も取り上げられており、そこでは自己が想像の対象であると言われている。あるいは、ジョージ・ブッシュについて想像する場合、ブッシュが想像の対象であるという例もあげられている。われわれは、人形について想像することもあるし、自己について想像することもあるし、ブッシュについて想像することもある。この概念が捉えようとしているのは、この「Xについての想像」におけるXだ。Xについての想像とは何なのかという疑問はあるだろうが、ウォルトンはそこは明らかにしておらず、例示によって説明されているだけだ(これについては後述する)。

一方、表象の対象という語は、どのように導入されているか。

戦争と平和』はナポレオンについての小説である。…ある物は、ある表象体がその物についてのさまざまな命題を虚構として成り立たせる場合、その表象体の一つの対象となる。p.106, 訳p.106、強調引用者

表象の対象は、表象体がそれについての命題を虚構的に成り立たせるようなものとして導入されている。なお、ウォルトンの分析では、「虚構的に成り立たせる」は想像への命令として定義される(p.39, 訳p.41)*3。この定義を上の引用箇所に適用してみよう。あるものについての命題を虚構的に成り立たせるということは、それについての想像を命令することに当たる。

定義を明示的にして書くと以下のようになる。

あるものが表象体の表象の対象であるのは、表象体が、それについて想像を命令する(あるものを想像の対象としてもつように命令する)ちょうどそのときである。

つまり、きちんと読めば、表象の対象というアイデア自体が、想像の対象によって規定されていることがわかる。別の箇所では、これは明示的に書かれている(何回も出てくる)。

あるものを対象として持つとは、そのものについての虚構的真理を生み出すということであり、そのものについての想像活動を命令するということである。p.109, 訳p.110

何かを表象することは、そのものについての想像活動を命令することだからである。p.115, 訳p.115

表象がある対象をもつとき、鑑賞者は、それを想像の対象としてもつように命令される。つまり、『戦争と平和』はナポレオンについての小説であり(ナポレオンが表象の対象であり)、読者はナポレオンについて想像するよう命令される(ナポレオンを想像の対象とするように命令される)。こんな風に、「想像の対象」と「表象の対象」の明確なつながりが述べられている。

並行性の問題?

なぜ訳者の方が上記のような誤解をしたのかという理由を推測してみよう。おそらくその理由は、「小説に実在の人物や都市が登場するケース」と「ごっこ遊びで実在のものを利用するケース」が似ていないことだろう。『戦争と平和』がナポレオンについて想像させるということと、人形遊びが人形についての想像であることはどこかちがうことであるように思える。

しかし、ウォルトン両者を同じように扱っている。ここはウォルトンが過激なことを言っているのがおもしろいのであって、それを歪めるべきではない。

それが明確に見える箇所を二つ例にあげよう。

(1)3章5節では直接的に両者が並列されている。まず『キングコング』にニューヨークという実在の都市が出てくる例があげられ、これらが「作品の一つの対象とされたことの目的」は何かという疑問が提示される(p.116, 訳p.116)。要するに表象の対象はなぜ必要なのかという問いだ。そのすぐ後の段落では、「木の切り株とか、積もった雪とか、合成樹脂の人形」を想像の対象の例としてあげ、その例を使ってこの疑問に答えている。これらは興味の焦点ではないが、想像に貢献しており、それが対象をもつことの目的にあたるという答えが与えられる。ウォルトンが『キングコング』におけるニューヨークと、ごっこ遊びにおける人形を、ともに同じ意味で、表象の対象/想像の対象だと見なしているのでないかぎり、この議論は意味をなさないだろう。

(2)人形の表象対象については以下のような答えが与えられる*4

お人形は、それで遊ぶ子どもたちに赤ちゃんを想像するよう命令するだけではなく、そのお人形自身が赤ちゃんであると想像するように命令している。それゆえ、このお人形は、それ自身についての虚構的真理を生み出しており、それ自身を表象しているのである。こういうものを反射的表象体(a reflexive representation)と呼ぶことにしよう。p.117, 訳p.117

人形はそれ自身を表象の対象としてもつと言っている。『戦争と平和』との並行性がわかるように並べると、以下のようになる。

表象体 表象の対象 命令された想像の対象
戦争と平和 ナポレオン ナポレオン
人形 人形自身 人形自身

人形は、人形自身についての想像を命令するので、人形自身を表象している。しかし表象の対象とは、想像の対象として命令されたものだという定義をきちんと理解していないと、なぜ人形の表象対象が人形自身なのかはわからないだろう。ウォルトンの立場では、『戦争と平和』がナポレオンについて虚構的真理を生み出すのと、人形遊びが人形について虚構的真理を生み出すのは基本的に同じ仕方で説明される現象なのである。

不一致の問題?

しかしこの際、人形についての想像は、人形に関して、それが赤ちゃんであるという性質を付与しており、現実と異なっている。この点は、『戦争と平和』のナポレオンの例とは異なるように思われるかもしれない。もちろん『戦争と平和』のようなフィクションでは、ナポレオンは現実と異なるふるまいをするかもしれない。しかしナポレオンを犬や無機物に変えることは許されるのだろうか。

例えば、私が自分で書いた小説にナポレオンを登場させていると私自身は主張しているのだが、その小説の中の「ナポレオン」は自動車であり、特に現実のナポレオンと何の共通点もないというケースを考えてみよう。この場合、この小説はナポレオンを表象していないだろう(少なくとも表象することに失敗している)。この種の例はウォルトンも取り上げており、「表象体とその対象の間には何らかの対応がなければならない」(p.112, 訳p.112)と言っている。要するに、表象の内容は対象とある程度一致していなければならない。ウォルトンは、表象体があるものを対象としてもつための必要条件として、因果関係と、ある程度の一致の二つをあげている。

ナポレオンを自動車として表象することが不可能なのに、人形を赤ちゃんとして表象することが可能なのだとしたらそれはなぜだろう。実はこの点についても回答が与えられている。

そういうわけで、お人形は、彫像では対応関係が成り立たない多くの側面で自分自身と対応関係をもっている。お人形は自分自身と一致するという状態に随分近づいている。つまり(形式にこだわらずに言えば)、虚構的な赤ちゃんは、虚構的なコンスタンティヌスが彫像に似ているよりも、ずっと人形に似ているのである。pp.118-119, 訳p.119

人形と虚構の赤ちゃんは実はすごく似ており、両者の間には多くの側面で対応correspondanceがあると言っている*5

この答えは、ウォルトンが何を言っているのかさえ理解できれば、興味深いものだ。まずここで言われている対応とは、現実の事実と虚構的真理の間の対応だ。『戦争と平和』のナポレオンの例に戻ると、小説がナポレオンに関して虚構的に成り立たせている虚構的真理と、ナポレオンに関する現実の事実がある程度一致していなければならない。

一方、ごっこ遊びの場合、人形を抱けば、赤ちゃんを抱くことが虚構的に成り立つ。人形をなでれば、赤ちゃんをなでることが虚構的に成り立つ。ごっこ遊びにおいては、こんな風に、人形に関する事実と、赤ちゃんに関する虚構的真理の間の対応がいくつも成り立つ。

両者を並列してみよう。

表象体 現実の事実 虚構的真理
戦争と平和 ナポレオンは皇帝である, ナポレオンはロシアに遠征する, etc. ナポレオンは皇帝である, ナポレオンはロシアに遠征する, etc.
人形 子どもは人形の頭をなでる, 子どもは人形を抱く, etc. 子どもは赤ちゃんの頭をなでる, 子どもは赤ちゃんを抱く, etc.

人形の方は、ごっこ遊びの参加者の行為に関する事実であるが、確かに対応が成り立っている。ウォルトンは、行為に関する事実も虚構的真理(虚構性)に含めるので、どちらのケースでも現実の事実と虚構的真理の間の対応が成り立つのだ。

改めて想像の対象とは何か

最初の方で説明したように、ウォルトンは「Xについて想像する」とは何をすることなのか分析していない。しかし上記のような説明から、ウォルトンが「Xについての想像」をどのようなものとして捉えているかはある程度見えてくるだろう。まずXについての想像は、Xの姿をある程度歪めてもよい。人形が赤ちゃんであると想像することもできる。

一方で、Xに関する現実の事実と、Xについて想像された内容の間には、多くの対応が成り立っていなければならない。しかしこの対応は、行為を通じたものであってもよい。例えば、人形をなでることで、赤ちゃんをなでることを想像するという形でもよい。ごっこ遊びで使用される想像の対象に関しては、この種の行為を通じた対応が成り立っていることが多い。

この種の行為を通じた対応は、小説などにはあまり見られない事例ではあるだろう。しかし上記のように一般化し、一見すると見えづらい両者の形式的類似を明らかにすることで、それ自身が自伝であると想像させる小説といった事例も、同じように説明することが可能になる(3章6節)。これは、この『フィクションとは何か』という本のおもしろいところだろう。

*1:なお、以下の定義は、表象の対象に関してはーー基本的にはこの路線であると言えるもののーーあまり正確ではない。なぜならウォルトンのプロジェクトは、表象一般の理論という側面をもっており、表象の概念は、想像や虚構性といった概念によって説明される。従って、定義の説明項には「表象」という語は現われない。

*2:ちなみに、ウォルトンは想像の対象とは別に、想像の小道具という概念も導入しており、これは「依り代」に近い意味かもしれないが、この概念と「想像の対象」の概念ははっきり区別されている。

*3:「虚構的に成り立たせる」の原語はmake it fictionalであり、「虚構的にする」が直訳だが、ここは訳書に従う。

*4:先ほどの訳注では、人形の例があげられているにも関わらず、なぜかこの箇所を無視している。

*5:なお、この際、人形は、虚構において赤ちゃんなので、人形はそれ自身と対応しているという変な言い方にならざるをえないことに注意。

芸術概念の誕生と芸術の理論(Lopes『芸術のかなた』二章)

タイトルの訳はてきとう。

Beyond Art

Beyond Art

ちょっとずつ読んでるが、二章の歴史の話がなかなかおもしろい。

ロペスは、芸術に関する理論をふたつにわけている。

  • 芸術作品の理論theory of art: 「xが芸術作品であるとはどういうことか」「何がxを芸術作品にするのか」に答える理論。
  • 芸術活動の理論theory of the arts: 「Kが芸術であるとはどういうことか」「何がKを芸術にするのか」に答える理論。

英語の直訳だと「芸術の理論」「諸芸術の理論」になるのだが、めちゃめちゃわかりにくいので、とりあえずここでは、「芸術作品の理論」と「芸術活動の理論」と呼ぶ。芸術作品の理論は、芸術作品とは何かに答えるもので、芸術活動の理論は、どんな活動が芸術に属するのかを答えるものだ。たとえば「作者のいない作品はありえるか」というのは、芸術作品の理論が答える問いだし、「ゲームは芸術か」とか「ファッションデザインは芸術か」というのは、芸術活動の理論が答える問いだ。

20世紀以降、美学の主要な論点は、芸術作品の理論だった。美学者は、芸術作品とは何かについてさんざん論争してきた。ロペスのこの本はこの力点を芸術活動の理論の方に移すことを提案しているのだが、二章では背景となる歴史が語られている。「芸術作品の理論」全盛はあくまで20世紀以降の傾向であり、それ以前はむしろ「芸術活動の理論」がさかんだった。ロペスは18世紀19世紀20世紀をそれぞれ扱っているが、以下ではとりあえず18世紀の話をまとめておく(長くなったので力つきた)。

芸術概念のはじまり

18世紀に関して、ロペスのネタ元はPaul KristellerのThe Modern System of the Artsという論文だ。Kristellerに従えば、芸術の概念が完成したのは18世紀半ばのフランスだ*1

芸術概念の成立ということでここで意味されているのは、絵画や音楽や詩を「似た活動」としてまとめあげ、それを学問や他の技術から区別する発想だ。よく知られているように、それ以前の"art"*2という語は、現在の「技術」に近い意味であり、絵画や彫刻だけではなく、哲学や天文学や釣りや工学やその他さまざまなものを含んでいた。

要するに、現在ある芸術の分類に近いものが完成したのが18世紀だった。この新しいグループの中核にあったのは、絵画、彫刻、建築、音楽、詩。よく含まれていたのが造園、ダンス、舞台、散文。またこのグループは、リベラルアーツや実践的技術や科学といった他の新しいグループから区別されるようになった。なお、この辺の歴史は日本語だと佐々木健一美学事典』の「芸術」の項目などが簡潔にまとまっている。

また、この新しいグループは、理論によって保護された。Paul Kristellerによれば、この重要なステップは、シャルル・バトゥーの理論によってなされた。バトゥーによれば、芸術は美しい自然を模倣するという共通点をもっている。この理論は、同時代でもさまざまに反論されたが、それが提案していた分類そのものは否定されなかった。これはおもしろいところだと思うが、バトゥーの理論そのものは正しくないかもしれないし、受け入れられもしなかったが、それによって芸術概念が導入され、安定化することになった。

芸術概念は理論──バトゥーの模倣理論──によって導入され、その概念がまとめあげているものは、この理論が同一視したものたちであると理解された。理論は概念の指示を固定したが、その理論がすぐに廃棄されたのだ。すべての概念がこんな風になっているわけではない。重力、人格性、色の民間概念は、重力、人格性、色の理論によって導入されたわけではない。18世紀の芸術概念はポリマーの概念や論理的完全性の概念の方に似ている。ポリマーや論理的完全性の概念とはちがって、それは今や民間概念のレパートリーへと浸透したのだけど。p.29

ロペスがここから引き出している重要な帰結は、バトゥーの理論が「芸術活動の理論」であることだ。それは活動が芸術に属するのは、何によるのかを述べている。どんな活動が芸術に属するのか? ──美しい自然を模倣するようなものを生み出す活動。

もちろんこの理論から、「芸術作品の理論」を引き出すこともできる。芸術作品とは何か?──美しい自然を模倣するもの。そのかぎりでは、18世紀に芸術作品の理論があったと言ってもいい。しかし、この「芸術作品の理論」は「芸術活動の理論」の単なる系であって、特に問題になっていなかった。例えば、模倣理論には、さまざまな反例があげられたが(例えば、器楽曲は模倣しない)、それはあくまで「芸術活動の理論」に対する反例であって、美しい自然を模倣しない作品があることについては特に問題になってはいなかった。例えば、絵画が総体として芸術であると言えるかぎりにおいて、ひどい光景を描いた絵画もあるということは深刻な反例とは見なされなかった。

*1:ただし、Kristellerは「18世紀以前に芸術はなかった」という主張は否定するらしい。これはあくまで芸術概念誕生の日付だ。

*2:ギリシャ語の「テクネー」