Simon Evenine, 「でもこれってSFなの?」 - サイエンスフィクションとジャンルの理論

Simon J. Evnine, “But Is It Science Fiction?”: Science Fiction and a Theory of Genre - PhilPapers

Evnine, Simon J. (2015). “But Is It Science Fiction?”: Science Fiction and a Theory of Genre. Midwest Studies in Philosophy 39 (1):1-28.

目次

  1. ジャンルに対する二つのアプローチ
  2. 所属、定義、規範性
    1. 所属と定義
    2. 規範性
  3. ジャンルを巡る争い
    1. マーガレット・アトウッド
    2. パミラ・ゾリーン「宇宙の熱死

@pubkugyo さんに教えてもらった。作品のジャンルについて論じた論文。特に具体的なジャンルとしてSFを取り上げ、SFにおけるジャンルの定義論争などに触れつつ議論をしている。著者は、デイヴィドソンの解説書などでも知られる哲学者。

デイヴィドソン―行為と言語の哲学

デイヴィドソン―行為と言語の哲学

著者は、ジャンルに関する理論を以下の2つにわける。

  1. 概念領域説
  2. 歴史的個物説

概念領域説によれば、ジャンルとは、作品を分類する方法である。概念領域説に分類される代表的な見解として、著者は、クラス説(ジャンルとは作品の類classである)、性質群説(ジャンルとは性質の集まりである)などをあげる。

一方、著者自身が採用する、歴史的個物説によれば、ジャンルとは、特定の起源と歴史と地理的位置をもつ個物である。より具体的には、ジャンルは、「ユダヤ的伝統」となどと同じ、伝統traditionの一種であるとされる。この立場では、ジャンルの中には、作品だけではなく、作家や読者コミュニティやさまざまな慣習が含まれる。ジャンルを一種のムーブメントと捉える立場だと言った方がわかりやすいかもしれない。

著者は、歴史的個物説の利点として以下の点などをあげる。

  • ジャンルの歴史性(歴史的変化など)をうまく認められる。
  • ジャンルを巡る争い(「これってSF なの?」)をうまく認められる。

特に後者の点は、著者が重要視しているものだろう。ここはわりと疑問もあるのだが、おそらく著者は、概念領域説をとった場合の帰結を以下のように考えている。

概念領域説をとった場合、ジャンル名の指示対象は、作品の類や、共通の性質群である。従って、「SF」のようなジャンル名の意味は、分類を可能にする記述の集まりになると考えられる。例えば、「SF」の定義は「宇宙船、光線銃、タイムマシン、ロボットが出る作品」といったものになるかもしれない。

仮に「SF」の定義がこういったものだとすると、「SF」という語の意味を知っている人は誰でも、何がSFに分類されるのかを容易に知ることができるはずだ。どの作品がSFに属するかに関して対立が生じることはありそうにない。もちろん、二人の人が「SF」という語を異なる意味で使っていれば、見かけ上対立が生じるかもしれない。しかしそれは、ただの言葉づかいを巡る争い(「SF 」という語をどういう意味で使うべきか)だろう。ところが、これは現実に生じていることとは違う。現実には「これってSFなの?」という議論がいたるところで生じているし、もっと実質的な対立があるように見える。

一方、著者のような伝統説をとった場合、もっと実質的な対立が生じる余地がある。伝統説では、「SF」という語は、ある特定の伝統を指示する。しかし伝統は個物なので、ジャンル名の意味を知っているからといって、作品の分類原理を知ったことにはならない(というかおそらく著者はジャンルには分類原理などないと考えている)。ジャンル名は、特定の伝統を「あれ」といって指すようなタイプの語で、分類の原理については何も教えてくれない。また、伝統に関して争いが生じるのもよくあることだ。「これってSFなの?」という争いは、「何がこの伝統の後継者か」と巡る争いとして理解できる。そこには正解はなく、単に権力を巡る争いが生じているのかもしれない。

感想

ジャンルは伝統であるという立場自体はそんなに悪くないし、歴史的変化を認めたいというのもわかるような気はする。ただし、ジャンルの決定には正しい答えは何もなく、影響関係と権力争いだけで決まっているというのは、かなり変じゃないかと思った。

著者はSFを例にしているが、ジャンルにはもっと違うタイプのものもあるだろうというのも気になる。登場人物や舞台によって規定されるジャンルというのもある。例えば、スパイものというジャンルは、おそらく規定の一部に〈登場人物がスパイであること〉を含むだろう。また、西部劇は〈開拓時代のアメリカ西部を舞台にする〉といった規定をもつだろう。こうしたジャンルに関しても、スパイや西部がジャンルの分類に関して何の役割も果たさないというのは、変な立場だろう(少なくともそれは、ジャンルを巡る実践を捉える上では大きな欠陥を持つ立場だろう)。

ただ、著者の言っていることにはもっともな部分があって、例えば、西部劇のファンコミュニティが先鋭化し、「舞台が西部であることが重要ではない、西部のスピリットが大事なんだ。SF西部劇はありだよ」とか言いはじめるような事態はありえるかもしれない。その結果として、開拓時代ではなく未来世界を舞台にした西部劇が認められるというのは、別にあってもいいような気はする。というか、現実にそういうことはあるだろう。でも、それを認めた上でも、ジャンル分類が一定の理由と合理性に基づいてなされていることは捉えられるのではないか。

Kendall Walton, 「なんて素晴しい!」

Kendall L. Walton, How marvelous! Toward a theory of aesthetic value - PhilPapers

Walton, Kendall L. (1993). How marvelous! Toward a theory of aesthetic value. Journal of Aesthetics and Art Criticism 51 (3):499-510.

Marvelous Images: On Values and the Arts

Marvelous Images: On Values and the Arts

ウォルトンの美的価値論。この論文では「美的価値」という語を使っているが、どちらかと言えば「美的経験」や「美的快」を論じたものとして読んだ方がいいかもしれない。

「美的に価値がある」と言われるものは、(1)きわめて多様であり、さらに(2)他のさまざまな価値にともなうという特徴をもっている。例えば、ある作品に美的な価値があると言われる場合、それは刺激的であるかもしれないし、感情をゆさぶるかもしれないし、洞察やカタルシスを与えるかもしれない。考えさせるかもしれないし、日常からの逃避を与えるかもしれない。人を道徳的にするかもしれないし、人生の指針を与えるかもしれないし、宗教的体験を与えるかもしれない。美的な価値はときに、実践的価値や認知的価値や道徳的価値や宗教的価値に付属する。

ウォルトンは、美的価値を、一階の評価判断を対象とする高階の態度的快によって捉えるよう提案する。例として、巧みな技術を称賛するようなケースを考えてみよう。例えば、私が素晴しい楽器の演奏に触れ、心から称賛の態度をとるとしよう。このとき私は、演奏技術を称賛するだけではなく、演奏が称賛の態度を生じさせたことに快を見出すかもしれない。素晴しい演奏に接し、それを味わうことは、称賛だけではなく、ときに称賛による快をもたらす。

以上の事例で私は、(A)素晴しい演奏を称賛し、(B)さらに素晴しい演奏を称賛することに快を見出している。前者の演奏に対する称賛が「一階の評価判断」にあたり、後者の快が「一階の評価判断を対象とする高階の態度的快」にあたる。単純に言えば、「評価」と「評価による快」の二つがある。

実際、「鑑賞」とか「味わう」という語には元々この両者の意味がある。それは単に素晴しい演奏を享受するという意味ももっているし、それを評価することも意味している。

提案された分析はだいたい以下のようなものだ。

美的快: 称賛などの評価にともない、評価を対象とする快。

xが美的価値をもつ: xに対して美的快をもつことが適切である*1

この立場の特徴は、美的価値があるから称賛するのではなく、称賛による快が美的価値であるという風に説明を逆転するところ。

この説の魅力は、以下の2つにあるとされる。

  1. 一階の評価判断は、かなり多様なものであっていい。このため、一階の評価判断をいろいろ交換することで、美的価値の多様性をうまく捉えることができる。
    • 例えば、技術の称賛ではなく、畏怖・驚異といった評価判断と、それにともなう快を考えることで、自然美の美的価値にも適用できるといった可能性が検討されている。
  2. また、 一階の評価判断は、実践的価値・認知的価値・道徳的価値などの判断であってよい。このため、美的価値は、実践的価値・認知的価値・道徳的価値などに付属するものでありえる。
    • 美的価値に美的価値がともなうという「ブートストラップ」の可能性も示唆されている。

また、この説は、芸術における技術志向をうまく説明するかもしれない。芸術には、制度外から見れば無意味に思えるような技巧の追求がともなうことがある。音楽における超絶技巧演奏、複雑な対位法、絵画における極端な写実主義、文学における韻律などは、時に美的価値を高める手段であるという側面を越え、それ自体が目的として追求される。

美的価値が「評価による快」によって構成されているとすれば、この現象は実にうまく説明できる。評価による快が目的なのであれば、技巧を手段と捉える必要はなく、技巧の追求自体が自己目的化していくだろうからだ。

また書籍版のPostScriptでは、マイナスの評価判断に快が伴うケースを考えることで、B級映画の快を捉えられるかもしれないという話があって、そこもおもしろかった。

*1:「適切である」の部分は、おそらく美的判断の規範性を捉えたいのだと思うが、あんまり詳しく説明されていない。

ウォルトンとグッドマン - Kendall Walton, 表象は記号か

2017-05-09追記: 後半を中心に大きく書き直した。

芸術の言語

芸術の言語

ネルソン・グッドマンの『芸術の言語』には、文学・絵画・建築・音楽といったさまざまな表象芸術のカテゴリーを、体系的に位置づけ・比較するという側面がある。

この点で、グッドマンとウォルトンの体系的な比較ができないかということをぼんやり考えている。なぜ両者を比較する必要があるかというと、話は簡単で、上記のようなこと(各芸術形式の体系的な位置づけ)をやっている人が、そもそもこの二人くらいしかいないからだ。

しかし、そもそも枠組が全然違う上、両者とも常識とは乖離した異様な発想をしているので比較もかなり難しい。ところが、実は都合よく、ウォルトン自身がキャリアの初期にグッドマンのプロジェクトを批判した論文がある。これは上記のようなことを考える上でのとっかかりには良いかもしれない。

なお、この論文はおそらくMMBの3章7節の元になったものであるため、内容はそちらと大きく重なっている。

Kendall L. Walton, Are Representations Symbols? - PhilPapers

Walton, Kendall L. (1974). Are Representations Symbols? The Monist 58 (2):236-254.

表象

タイトルには「表象は記号か」とあるが、ウォルトンの結論は「表象は記号ではない」というものだ。そもそも表象は記号システムではないので、表象芸術を記号システムの枠組で捉えようとするのはまちがいだ。

なお「表象」という語には多様な意味があるが、ここでは基本的に表象芸術に属する作品、ないし表象芸術特有の表象機能を指す*1*2。それは小説、映画、マンガ、絵画、彫刻などを含んでおり、おおむねフィクションと(具象的な)美術を合わせたくらいのカテゴリーだと思っておけばいい。

また注意点として、ウォルトンは、「まじめな主張」と表象をまったく別のものだと見なしている。手紙や新聞記事や論文のように、主張を行なうものは、表象ではない。おそらく、グッドマンは、言語の「まじめな使用」と、表象芸術の間にそこまで差を認めないだろう。一方ウォルトンは「両者にはそもそも何の関係もない」くらいのことを考えている。サールのようにフィクションを言語の「まじめな使用」の派生態と見なす人とも違って、ウォルトンは、表象芸術と、「まじめな主張」の両者を、まったく別の生き物だと見なしているからだ。

記号

グッドマンは、表象芸術を記号システムと見なすが、「記号」という語に厳密な定義を与えているわけではない。しかし、およそ「記号」と呼ばれるものであれば、対象指示denotationが可能でなければならないだろう。もちろん、グッドマンは、指示対象を持たない個別の記号があることを認めるが、記号システムは、原理的には指示対象をもちうるようなものでなければならない。そもそも原理的にさえ指示対象をもたない体系を記号システムとは呼びづらいだろう。

ウォルトンが異論をぶつけるポイントはここだ。表象はそもそも、指示機能をもたなくてもよい。もう少し細かく言うと、グッドマンは、「個体への指示」と「性質(ないしクラス)への指示」の両方を認める。ウォルトンは両者ともに反対している。

主要な議論は2つで、「ウォルトピアの思考実験」と「行為とのアナロジー」によるものだ。

ウォルトピアの思考実験

まえおきしておくと、ウォルトンは、表象が、現実には、個体指示を行なうことがあるという点は認めている。例えば、モーツァルトの絵はモーツァルトという現実の個体を表象する。認めていないのは、それが表象にとって必須の機能であるということだ。これに反対するため、ウォルトンは、個体指示をまったく行なわない表象システムの論理的可能性に訴える。

なお、ウォルトン自身は、「ウォルトピア」という名称を使っていないが、ロペスがこの思考実験に出てくる共同体をWaltopiaと称していたのがおもしろかったので、この名称を採用する*3

ウォルトピアは次のような仮想の共同体だ。ウォルトピアの人々(ウォルトピアン)は、「人の絵」や「水牛の絵」を描くが、現実の個別の人を絵に描くこともないし、現実の個別の水牛を絵に描くこともない。おそらく、この共同体では、絵は、人や水牛の代用品として、祭祀などの目的のためだけに使用されるのだろう。ウォルトンによれば、ウォルトピアのような共同体が可能であることは、「述べるまでもないほど当然に思われる」らしい(p.244)。ウォルトピアでは、表象は個体指示を行なわない。従って、個体指示なしでも表象システムは存立する。

行為とのアナロジー

一方、ウォルトンは、性質への指示に反対するために、行為とのアナロジーをもちだす。こちらの議論は難しいので、やや丁寧めに説明する。

性質への指示は、〈個体に特定の性質を述定する〉作用、すなわち述語機能と捉えることができるだろう。例えば、「あれは白い犬だ」という発言において、「白い犬」という述語は、対象に〈白い犬〉という性質を帰属する機能をもつ。問題は、これと同じような述語機能が、表象一般に見出されるかどうかにある。

ひとまず、表象の例として、「白い犬の絵」を考えよう。グッドマンの表現を借りれば、この絵は対象を「白い犬として表象」する。あるいは「白い犬-絵」である。

一方、ウォルトンの意見は、「白い犬として表象」は、「白い犬」という述語と同じ機能を果たさないし、〈白い犬〉という性質の帰属ではないというものだ。ひとことで言えば、「として表象」は述語ではない。

おそらく、グッドマンのように、記号システム一般をモデルにするかぎり、として表象と、述語のちがいはわかりにくい。白い犬の絵は、「あれは白い犬だ」という発言と同じような形で、対象に〈白い犬〉という性質を帰属するように見えるだろう。少なくとも、グッドマンは、その点に特に疑問の余地を認めていないように思われる。

しかし、現実の個物を描いた絵ではなく、単に仮想の光景を描いた絵についても、これが成り立つかどうかはそれほど自明ではないだろう。少なくとも、ウォルトンが念頭に置いている典型的な表象は、現実の個物について情報を伝えるようなものではなく、仮想の作品世界を提示するものだという点に注意する必要がある。

ウォルトンは、表象芸術全般をフィクションのモデルで考えているため、表象芸術全般は、「何らかの命題・事態を、その作品の作品世界で真にする」という機能をもつものとされる。表象は、特定の命題を事実として伝えるのではなく、特定の命題を虚構的真にするものなのだ。

そして、ウォルトンは、行為とのアナロジーに訴えることで、〈命題を虚構的真にする〉機能と、述語機能のちがいを説明している。

なぜ行為とのアナロジーがもちだされるかと言うと、〈特定の命題を虚構的真にする〉という作用は、〈特定の命題を真にする〉という作用に類似したものだとされるからだ。行為は、まさにこの〈特定の命題を真する〉作用をもつ。特に制度的な行為を考えよう。例えばバスケットボール選手は、ボールをリングに通すことで、〈スコアを獲得する〉という命題を真にする。

しかしわれわれは、行為によって命題を真にすることを、性質の述定とは見なさないし、行為が述語機能をもつとも言わない。ボールをリングに通すことは〈スコアの獲得〉という性質の帰属ではない。従って、これと同様に考えれば、表象が命題を虚構的真にすることを、述語機能と見なす必要もない。

改めて書き出せば、以下のようになるだろう。

  1. 行為は、述語機能をもたない。
  2. 表象は、関連する点で、行為に似ている。
  3. よって、表象も述語機能をもたない。

*1:ウォルトン語の「表象」には特別な定義があるが、ここでは紹介しない。また、いずれにせよウォルトンの定義が捉えようとしている対象は、こでいう表象芸術だと言ってよいだろう。

*2:なお、グッドマンは「表象」を画像による描写に限定して使っているので、その点でも両者の語法はずれている。ただし、ウォルトンの批判は、「小説・映画・美術などは記号システムではない」というものだと思われるので、対立点自体は明確だと思われる。

*3:この思考実験はUnderstanding Picturesの4章で扱われている。この4章の議論もおもしろいので各自参照されたし。

グッドマンブックフェアの余白に

ブックフェアに余白ってあるんだろうか。

下記のブックフェアで、「芸術形式/芸術のメディア」の選書を担当させていただいた。

新しい古典がやってくる!『芸術の言語』刊行記念フェア「グッドマン・リターンズ」特設サイト| 企画:慶應義塾大学出版会 協力:勁草書房

選書した本に関連して、ブックフェア冊子に書いたこと以外を記す。

私の担当は最初「ポピュラーカルチャー」だったけど、グッドマンと関係なさすぎてあれだなと思ったので「芸術形式/芸術のメディア」という項目にさせてもらった。映画、マンガ、小説、絵画、ダンスなど、いろんな芸術形式や芸術のメディアに関する本を選んでみた。

選書のあれこれ

選書の際に意識した方針は、

  • (1)『芸術の言語』と一緒に読んでおもしろそうな本。特にメディアの特性に関係ある本にする。
  • (2)手に入りやすいものにする。
  • (3)なるべくいろんなメディアを入れる。
  • (4)ぴったりくる本がなければ古典・基本書にする。

マンガとか映画は歴史が浅いせいか、メディアの特性に関する本がたくさんあるんだけど、美術とか文学はちょっと選びにくかった。文学理論の教科書はあっても、「小説とはどういうメディアなのか」という本は見当らない。

入れなかった本

選書しているときにまだ出版されていなかったので入れなかったけれど、『マンガ視覚文化論』を入れてもよかった。この項目じゃない気もするけど、『社会にとって趣味とは何か』とか。

あとはグッドマンの弟子でもあるチョムスキーを入れるべきだって言ってたんだけど、入らなくてそこは残念だった。

形式言語理論の祖はチョムスキーで、チョムスキーがどこからそのアイデアを学んだかというとおそらくグッドマンとクワインなので、『白と黒のとびら』とか入れてもよかったなあと思ったり。

バザン『映画とは何か』

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映画論・映画批評の古典。最近岩波文庫で出ている。選書に際してはじめて読んだけど、予想以上におもしろかった。

グッドマンとの直接的なつながりは薄いが、この本は、分析美学の議論ともつながりがある。分析美学の世界で有名な「写真のインデックス性」という議論は、本書の最初に入っている「写真映像の存在論」が元ネタといってよいものだろう。分析美学における写真のインデックス性の議論の出発点は、ウォルトンTransparent Picturesだが、ウォルトンは明らかにバザンを念頭に置いている*1

バザンは、ふわっとした感覚的な表現で写真のリアリズムを強調しているが、ウォルトンの論文は、この立場の明確化を試みたものだと言えそうだ。こんな風に「批評家がふわっとした形で言ったことをもっと明確に言い直してみる」というチャレンジは、分析美学という分野では、重要なアイデアの源泉だと思う。リアリズムの話以外だと、西部劇論などもおもしろいよ。

あとついでに言うと、本書の訳者解説でも指摘されているように、ロラン・バルトの有名な写真論(『明るい部屋』)もバザンの影響を受けている。バルトも写真のインデックス性みたいなことを言ってるんだけど、実はその背景にあるのは、ウォルトンもバルトもバザンを読んでるからなんだなというのは今回はじめて気がついた。

『マンガと映画』

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今回たまたまマンガ関係が多くなってしまったのだけど、これは文字通りメディウムスペシフィシティ(メディアの特性)を明示的に扱った著作。分析美学では、ノエル・キャロルのメディウムスペシフィシティ批判が有名なのだけど、本書はその辺の議論も紹介している。

ちなみに本書は後半の方がおもしろいので、読んでない人は後半まで読んでみることをおすすめする。趣味もあるかもしれないが、個人的には前半の理論的整理があまりピンとこなかったのに対し、後半の「マンガの時間性」などを軸にした作品分析は非常におもしろかった。

文体練習

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なんか小説とか入れたいなと思っていれた。おもしろいし、非常にグッドマン的なので読んだことない人はぜひ。

他にどんな本を選んだか

書店に足を運んで見てほしいが、いくつか並べておく。

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*1:バザンの論文をエピグラフに引用しているし、論文の冒頭で、写真のリアリズムを強調した人たちとしてあげられているのはまずバザンである。

Sacha Golob, ハイデガーの主張論

Sacha Golob, Heidegger on Assertion, Method and Metaphysics - PhilPapers

Golob, Sacha (2015). Heidegger on Assertion, Method and Metaphysics. European Journal of Philosophy 23 (4):878-908.

目次

  1. 論争の用語を定義
  2. (A)のいくつかの問題
  3. 「Carman-Wrathallモデル」 (A*)をBで説明
  4. (A)についての新しい「方法論的」説明
  5. (B)のステータス: 志向性、内容、文法

たまたま読んだ。なかなかおもしろかった。

ハイデガーは、主張Aussage(ないし判断)を、事物的存在者(手前存在)に深く関連するものと見なしている。しかし、両者の関係は正確にどのようなものなのか。

「手前存在」というのは、おおまかには、哲学史上で「実体subject」と呼ばれるものに、ハイデガーがつけた変な名前にあたる。著者によれば、(1)「実体」にくわえて、(2)時空間や因果的性質で個別化されるモノ、(3)道具的・社会的関係から切り離されたものとしての事物という、だいたい3つのイミで使用されているらしい。

主張と手前存在の関係について、よくある解釈は以下のようなものだ。

命題的志向性は、対象を文脈から切り離し、手前存在として志向する。

対象を(主張の)命題的志向性によって志向することは、文脈依存的な知覚や実践とのつながりを切断し、孤立した対象として切り縮めることになる。著者はこれをCarman-Wrathallモデルと呼んでいるが、もともとはドレイファスなどがこの解釈らしい。

しかし、著者によれば、これがハイデガーの立場であるということはありそうにない。著者はさまざまな難点をあげているが、そもそもハイデガーの著作の中には、この解釈で前提されているような、ゆたかで文脈依存的な知覚的世界についての記述はほとんどない。

かわりに著者は以下のような解釈を提案する。

命題的志向性に対する、ある種の哲学的分析は、対象を文脈から切り離し、手前存在として志向する。

ハイデガーは、主張の命題的志向性そのものではなく、それに対する特定の哲学的分析を批判しているという解釈だ。ここで特定の哲学的分析というのは、現存在の分析という形をとらない分析を指す。もっと言うと、現存在の社会的文脈において主張が果たす役割の分析以外の形をとった分析を指す。哲学者が、主張の行為としての側面を無視し、個物に対する性質の述定という側面だけに注目したとき、対象は手前存在として現れてくる。

感想

ハイデガーは、いくつかの箇所では、単純に「手前存在というタイプの存在者もあるよ」と言ってるように見えるので、その点で著者の解釈は微妙かなと思った。もし、ハイデガーの立場が著者のいうようなものなのであれば、「手前存在などない」と言ってほしいように思う。

それとも、電子を理論的存在者と見なす哲学者のように、手前存在を、理論に依存した存在者だと考えていたという話なのだろうか。それならちょっとわかる。そういう風に考えていいなら、以下のようにシンプルに整理できていい感じじゃないかと思うんだけど。

  • 手前存在(事物) = 理論的判断に依存する存在者
  • 手元存在(道具) = 実践的判断・行為に依存する存在者

「想像の対象」と「表象の対象」再訪

以前このブログで『フィクションとは何かMimesis as Make-Believe』の訳注を批判する記事を書いたところ、なんと訳者本人から、反論の論文をいただいた。

以前のエントリ: ウォルトンにおける想像の対象

反論論文: 田村均, 事物と私たちの想像論的なかかわりについて : ケンダル・ウォルトンの「想像活動のオブジェクト」の概念をめぐって

私がのろのろしていたところ、フットワークの軽い松永伸司、シノハラユウキの二人がすでにリアクションの記事を書いてしまった。

田村・松永ともに私の解釈とは食いちがう部分があるので、以下松永解釈も適宜参照しつつ、田村論文の反論に答えていきたい(シノハラは、両者の意見にそれぞれ部分的に賛成ということだと理解している)。

訳者の田村氏には、ぶしつけな記事に対し、丁寧な反論をいただいたことを感謝する。依然として反論はあるが、論文内で提示された問題は、確かに興味深く、難しいものだった。

もともと私の問題意識として、ウォルトン解釈についてはもっと議論があってもよいのではないかという思いもあったので、議論が出てきたことは素直にうれしい。ウォルトンMimesis as Make-Believe(以下MMBと呼ぶ)は、歴史になるにはまだ早い本ではあるが、少なくともフィクションの哲学という分野に関して言えば、古典と言ってさしつかえない地位を築いている。また、ウォルトンの文章は一見平易に書いてあるので、とっつきやすく思えるが、その立場は実際にはかなり込み入っており、相当に難しい*1。私自身は、とにかく、業界全体的に解釈のレベルがあがってくれればうれしい。

あとはまあ今さらではあるが、森さんの言葉を引用しておく。

誤訳の指摘ってのは多分に「岡目八目」的なところがあるので、その分差っ引いて理解して下さい。訳者の努力に比べれば、貢献度は非常に些細なものです。偉いのは訳者。

1. 論点

争点は、ウォルトンの「想像の対象/想像活動のobject/objects of imagining」および「表象の対象/表象体のobject/objects of representation」という概念の解釈にある*2

はじめにひとつ断わっておきたいが(誤解している人もいないと思うが念のため)、私は「想像の対象」と「表象の対象」がまったく同じ意味だと言っているわけではない。

前回の記事で書いたのは、主に以下のような内容だった。

  1. 「対象」という語が、両者の間で異なる意味で使用されているわけではない。
  2. 「表象の対象」という概念は、「想像の対象」という概念を使って規定されている(表象体が、これを想像の対象とせよと命令しているもの = 表象の対象)*3
  3. 「表象の対象」と「想像の対象」の実例は重なっている*4

以下論点になっているウォルトンの主張を書きだしていく。これらの位置づけはともかく、これらの内容がMMBに少なくとも「書いて」あることまでは認めてもらえると思う。

1a. 想像の対象と「について想像」

ある人の想像の対象とは、その人がそれについて想像しているものである。

布で作ったお人形で遊んでいる子どもは、赤ちゃんを想像するだけではない。そのお人形が赤ちゃんだと想像しているのである。…人が想像活動をそれについて展開する事物が、想像の対象である。MMB, p.25, 訳p.25

1b. 想像の対象は主語の位置にある

私たちは、切り株について、それが熊であると想像することができる。田村論文に端的にまとまっていたので以下に引用する。

現実世界のその事物は、現実と虚構という二つの世界を跨いで、そこにある同じそのそれとして指示され、虚構世界においては、現実世界で備えていない想像上の属性をしばしば付与される。お人形は赤ちゃんであり、切り株はクマであり、ブッシュは賭け屋であり、身近な都市がエルサレムである。田村2017, p.15

この性質は、自然言語で表現することがめんどうであり、理解が難しくもあり、この見解の理解で毎度混乱するので、以下何通りかの方法で書いてみよう*5

(1b1)例えば、太郎が、切り株についてそれが熊であると想像しているという事態は、以下のように書ける。

太郎は、xが熊であると想像している。(ここでxは現実に切り株であるそれである)

(1b2)太郎の想像の内容を、ラッセル命題(個体と性質の対)であらわすと以下のようになる。

〈a, 熊性〉 ※a = 現実に切り株であるそれ

(1b3)太郎が切り株についてpと想像しているとき、現実に切り株であるそれは、pの主語の位置に含まれる。

(1b4)現実に切り株であるそれは、想像において熊であるそれと数的に同一の個体である。

なお、私が以上をウォルトンの見解と見なすテキスト的根拠は、「布で作ったお人形で遊んでいる子どもは、赤ちゃんを想像するだけではない。そのお人形が赤ちゃんだと想像しているのである」といった記述だ。

こうした記述を以上のような仕方以外で理解するのは難しいと思う。仮に「現実に切り株であるそれ」と、「想像において熊であるそれ(想像の主語位置を占めるもの)」が同一ではないと仮定してみよう。この場合、「想像において熊であるそれ」は、切り株とは別の個体であるか、現実に存在しないかいずれかだろう。しかし前者の場合、太郎は切り株について想像しているわけではなく、別のものについて想像していることになってしまう。後者の場合、太郎は何ものについても想像していないことになるだろう。このいずれの場合も、「切り株が熊であると想像している」とは言えないだろう。もし仮にそういう立場を取るのであれば、「現実の事物についての想像」なるものがありえることをむしろ否定すべきだろう。

1c. 想像の対象は、想像に生気を与える

現実のものについて想像することで、想像に実体性が与えられる。(以下、「実体性を与える」「生気を与える」などは特に区別せずに使用する)

想像を促すだけではなく、想像の対象objectとしての切り株の役割は、想像するという経験にどのように貢献しているのか。直観的な解答は、切り株は想像上のクマに、言わば「実体を与える」ということである。MMB, 訳p.26

1d. 表象の対象と「について想像」

表象の対象とは、表象が、それについての想像を命令するものである。表象の対象とは、表象がそれについて虚構的真理を成り立たせるものであるという言い方もなされる。

戦争と平和』はナポレオンについての小説である。…ある物は、ある表象体がその物についてのさまざまな命題を虚構として成り立たせる場合、その表象体の一つの対象となる。MMB, p.106, 訳p.106

あるものを対象として持つとは、そのものについての虚構的真理を生み出すということであり、そのものについての想像活動を命令するということである。MMB, p.109, 訳p.110

1-2. 解釈

それぞれについて、まず私の解釈を述べる。

  • 1aが「想像の対象」の定義である。
  • 1bは1aと互換的な規定として使用されている(つまり、ほぼ同じことを言っている、ないし1aをもっと詳しく説明している)。
  • 1cは、「想像の対象」の定義ではないが、ウォルトンが想像の対象について述べていることではある*6
  • 1dは、「表象の対象」の定義であり、想像の対象も表象の対象も、どちらも「現実にあるものについての想像」によって規定されている。

田村は、1aや1bの形で想像の対象が定義されていることは認めているように思われる。

私の解釈とはっきり食いちがっているのは、以下の点だと思う。

  1. 「対象object」「についての想像imagining about」という語は、1a(想像の対象)と1d(表象の対象)で異なる意味で使用されている。
  2. 1dは「対象」「についての想像」という語の「標準的な意味」で使用されているが、1aの「対象」「についての想像」は、「ウォルトン的な意味」で使用されている。

前回のエントリでは、主に「想像の対象」の定義(1a)と「表象の対象」の定義(1d)を主張した。両者の間で、「対象object」という語が二つの異なった意味で使用されているわけではないことを確認するためには、両者がともに「現実にあるものについての想像」によって規定されていることを示せば十分だろうと思ったからだ。しかし、田村の考えは、「についての想像」も、二つの異なった意味で使用されているということだったようだ。

田村が標準的な意味とウォルトン的な意味をそれぞれどのような意味だと捉えているのかは、私はまだ明確につかめていない。しかし、少なくとも「ウォルトン的な意味」の方には、想像の活性化(1c)の意味が込められているということは強調されている。おそらく、「ウォルトン的」な「について想像」は、「標準的」な「について想像」にくわえて、現実の事物によって想像が活性化されているという条件が追加されているのかもしれない。

2. 反論のモチベーション

田村があげている問題については後で触れることにして、なぜ上記のような解釈に反対するのかを先に述べる。

まず一般論として、著者が特に何のことわりもなく、同じ本の中で同じ語を使っている以上、よっぽどの理由がないかぎり、そこに異なる意味を割り当てるべきではないと思う。しかも、「についての想像」は、定義を与えられたテクニカルタームではなく、テクニカルタームを説明するために使用されている未定義概念だ。未定義概念である以上、われわれは、日常概念の延長線上で理解するしかない。その場面で、何のことわりもなく、「についての想像」という表現が複数の意味で使用されているというのは、あまりうれしくない解釈だ。

田村は「想像に生気を与える」という含意を強調しているが、私には、その点で想像の対象と表象の対象を区別することは難しいように思われる。ウォルトンが「現実の事物によって想像に実体性が与えられる」という現象に関心をもっているのは確かであるが、むしろ表象の対象に関しても想像に生気を与える側面を強調しているように見えるからだ。

また、これが一番の理由だが、テキスト上でも両者は並列されている。前回のエントリでもいくつかあげたが、他にも、以下のような箇所は、両者を同一視しているように見える。

というのも、何かを表象することは、そのものについての想像活動を命令することだからである; 何ものかについて——ジョージ・ブッシュについて、フランス革命について、自己について——の想像活動に従事することは、そのものについての自分の理解を深めるよいやり方である。p.115, 訳pp.115-116

一文目の「について想像」は、表象の対象の定義の方だ。しかし、次の文では、ジョージ・ブッシュや自己についての想像(1章における想像の対象の例)に言及しており、両者はセミコロンで並列されている。

3. 田村の反例

次に田村が反例としてあげた俳優の事例を取り上げる。最初にことわっておくと、俳優の事例は確かに難しい。この点は私も解釈に悩んでいる。

田村は映画と演劇の二つの例をあげているが、映画の例だけあげよう。映画の例としてあげられているのは、『ワイアット・アープ』という映画だ。この映画でケヴィン・コスナーは、歴史上の実在の人物であるワイアットアープを演じる。

議論を私なりの仕方で再構成する。

  • (K1)映画『ワイアット・アープ』の鑑賞者は、ケヴィン・コスナーについて想像する。ケヴィン・コスナーは鑑賞者の想像の対象である。
    • ウォルトンは、俳優を想像の対象と見なしているのでこれは成り立つだろう(1章3節)。
  • (K2)映画『ワイアット・アープ』という表象体は、ケヴィン・コスナーについての想像を命令する。
    • これはウォルトンが明確に書いていることではない。しかし、映画をまっとうに鑑賞するためには、(K1)のような想像をしなければならないことは確かであり、また映画は慣習上、この種の想像を要求しているように思われる。
  • (K3)映画『ワイアット・アープ』という表象体は、ケヴィン・コスナーについての虚構的真理を成り立たせる。
    • これは虚構的真理のウォルトンの定義と(K2)から帰結する。
  • (K4)ケヴィン・コスナーは、映画『ワイアット・アープ』の表象の対象である。
    • これは表象の対象の定義と(K2)(K3)から帰結する。
  • (W1)ワイアット・アープは、映画『ワイアット・アープ』の表象の対象である。
    • フィクションに歴史上の人物が登場するケースは、表象の対象の典型例なのでこれも成り立つだろう(3章1節)。
  • (W2)映画『ワイアット・アープ』という表象体は、ワイアット・アープについての虚構的真理を成り立たせる。
    • 表象の対象の定義と(W1)から帰結する。
  • (W3)映画『ワイアット・アープ』という表象体は、ワイアット・アープについての想像を命令する。
    • 虚構的真理の定義と(W2)から帰結する。
  • (W4)映画『ワイアット・アープ』の鑑賞者は、ワイアット・アープについて想像する。ワイアット・アープは鑑賞者の想像の対象である。
    • (W3)の想像への命令を鑑賞者が実行すればこれは成り立つだろう。

まずすぐに指摘できる帰結は以下の二つだ。

  • 二つの想像の対象の問題: (K1)と(W4)より、ケヴィン・コスナーとワイアット・アープの両方が鑑賞者の想像の対象になる。
  • 二つの表象の対象の問題: (K4)と(W1)より、ケヴィン・コスナーとワイアット・アープの両方が『ワイアット・アープ』の表象の対象になる。

また、「二つの対象」の問題からは、「二つの内容」の問題も帰結するように思える。例として、『ワイアット・アープ』にワイアット・アープが馬に乗るシーンがあるとしよう(私は未見だが)。もし想像の対象が二つあるなら、この場面で鑑賞者は以下の二つの想像をしていることになるだろう。これを「二つの想像内容の問題」と呼ぶことにする。

さらに、もし表象の対象が二つあるなら、この映画の虚構世界には、以下の二つの虚構的真理が含まれることになりそうだ。これを「二つの虚構的真理の問題」と呼ぶことにする。

おそらく、この最後の帰結が一番奇妙な感じがするだろう。田村、松永はそれぞれにこれらの帰結を(部分的に)避けようとしている。このため、私自身の考えは後にして、まず、他の人の解決を見よう。

4. 解決案の候補

田村の解決は、おそらく以下のようなものだろうと思う。

  • (K3)(K4)(W4)は成り立たない。「表象の対象」の定義に現われる「についての想像」は、(K1)(K2)に現われる「についての想像」とは意味がちがうので、(K3)(K4)のように推論していくことはできない。

この解釈に同意できない理由はすでに述べた。しかし、もう一点大きな問題がある。そもそも田村の解釈をとってもこの問題は解決しないのではないだろうか。なぜなら、田村は、表象の対象と想像の対象が、時には一致してしまうことを認めているからだ。つねに一致するわけではなくても、一致するケースがいくつかあれば、結局その事例で上記の問題が成り立ってしまうのではないだろうか。

田村は、『キングコング』におけるニューヨークが「ウォルトン的な意味での想像活動のobject」であることを認めている(田村2017, p.17)。『キングコング』のニューヨークは、想像の対象であると同時に表象の対象である。実際、このニューヨークの事例をそう解釈しないのは難しいだろう。しかし、そうだとすると、これと同様の事例が歴史上の人物についても成立しうるだろう。都市に関してそのようなケースがあることを認めた上で、人に関してはありえないと考える理由はなさそうだ。

議論の方便のため、ワイアット・アープがその例だとしてみよう。『ワイアット・アープ』は、ワイアット・アープというよく知られた歴史上の人物を扱うことで、鑑賞者の想像に実体性を与えており、ワイアット・アープを「ウォルトン的な意味での想像活動のobject」とするのかもしれない。この場合『ワイアット・アープ』は結局二つの想像の対象をもつことになってしまうように思われる*7

つまり、この解釈をとった場合、認められるのはせいぜい歴史上の人物が登場する映画すべてについて上記の問題が起きるわけではないということだ。しかし、たまにはそういう問題が起きうることを認めなければならないのではないか。

一方、松永の解決は以下のようなものだろう。

  • (K1)-(K4)から(W1)-(W4)はすべて成り立つ。しかし、「二つの虚構的真理の問題」は成り立たない。

ある実在物Aについての虚構的真理は〈Aについてpという命題がフィクショナルであること〉であって、Aについてのなんらかの命題が当の虚構世界の内部の事実である必要は必ずしもない(MM p.107)。『ハムレット』の世界にオリヴィエ卿が存在しなくても、『ワイアット・アープ』の世界にケヴィン・コスナーが存在しなくても、オリヴィエ卿やケヴィン・コスナーについての虚構的真理は成立しうる。たとえば、画面に映ったケヴィン・コスナーを指して「彼がワイアット・アープだ」と言うことは、『ワイアット・アープ』の公式のごっこにおいて適切なふるまいだろう。

どちらかと言えば私の解釈は松永に近いが、この部分は同意できない。ウォルトンは、少なくとも現実の事物については、「想像の対象は主語の位置にある」と認めているように思えるからだ*8。「Aについてpという命題がフィクショナルである」なら、Aはpの主語位置に含まれるだろう。

参照箇所にあげられているp.107で例外とされているのは、あくまで実在しないもののケースだ。そこでは「についてのabout」という語は引用符にくくられており、これはde dictoな虚構的真理だと言われている。今考慮しているのは、現実の事物についてのde re想像なので、そこの記述をこの事例に当てはめるのは難しいと思う。

5. 解釈

上記の問題について、私自身の解釈は以下のようなものだ。残念ながらあまりはっきりした解決ではないし、推測もかなり含まれている。

  • (K1)(W1)(W2)(W3)(W4)は成り立つ。
  • (K2)(K3)(K4)は何らかの理由で成り立たないか、ウォルトン自身が気がついていない。

まず、(K1)(W1)(W2)(W3)(W4)が成り立つので、「二つの想像の対象の問題」と「二つの想像内容の問題」は帰結する。これに関しては、私自身は大きな問題だと思っていないし、ウォルトン自身は、はっきり書いてはいないが、認めるのではないかと考える。一方、「二つの表象の対象の問題」と「二つの虚構的真理の問題」については、奇妙である上に、ウォルトンがこれを認めている可能性は低いと思う。

順番に説明しよう。まず、「二つの想像の対象の問題」と「二つの想像内容の問題」について。『ワイアット・アープ』の鑑賞者が、ケヴィン・コスナーとワイアット・アープの両方について想像しているというのは、単純に正しい帰結ではないかと思う。鑑賞者は実際ケヴィン・コスナーについても想像しているし、ワイアット・アープについても想像しているだろう。もし鑑賞者が単一の思考でこの両者について想像していると考えると奇妙かもしれないが、そんな風に考える必要もない。人間は、複数のレベルの思考を同時に行なうことができる。

MMBの中で、いくらかこれに似た事例として思いあたるのは、1章4節の「自分がナポレオンであると想像する」例だ。ウォルトンは、自分がナポレオンであると想像する例を文字通りに想像可能なものとしておおむね認めているが、どうしてもこれを認めたくない人のために、次のような選択肢も用意している。「ジョイスは(自分自身が)サイを見ていると想像する。そして、この一人称の自己想像を手段として、ジョイスはナポレオンがサイを見ていると想像する」(p.34, 訳p.34)。

この二つの選択肢は、俳優の事例にも適用できそうだ。鑑賞者はケヴィン・コスナーが文字通りにワイアット・アープと同一であると想像するのかもしれない。あるいは、鑑賞者はケヴィン・コスナーが馬に乗ると想像し、この想像を手段・媒介として、ワイアット・アープが馬に乗るという別の想像に従事するのかもしれない。いずれの場合でも、両方が想像の対象であると考えることができそうだ。特に後者は俳優の演技に関して自然な理解に思える。

次に「二つの表象の対象の問題」と「二つの虚構的真理の問題」について。私が最大の問題だと思うのは、ウォルトンがこれを認めているというのがあまりもっともらしくないことだ。ウォルトンがこれを認めているという解釈に反するテキストはいくつかある。もし、俳優が一般に表象の対象でもあるのだとすると、定義上、ほとんどの俳優は反射的表象になるだろう。しかしウォルトンが反射的表象の例にあげているのは、レーガンの役を演ずるレーガンだ(p.211, 訳p.212)。「レーガンが俳優であるという事実は、レーガンを表象体の対象とすることにほとんど関係がない」とも言われている(p.212, 訳p.212)。俳優一般を反射的表象だと考えているようにはとても見えない。また別の箇所では、俳優は「演技によって虚構的真理を生成する」とも言っているが(p.243, 訳p.244)、俳優についての虚構的真理を生成するという言い方はしていない。

また、「(K2)映画『ワイアット・アープ』という表象体は、ケヴィン・コスナーについての想像を命令する」は、成り立ちそうに思われるのだが、これに相当する内容がどこにも書かれていないことも気になっている。ただの推測だが、ウォルトンは単にこれに気がついていないのかもしれない。あるいは、私にはわからない何らかの理由で(K2)は成り立たないと思っているのかもしれない。

いずれにせよ、ウォルトンは、結局2015年のFictionality and Imagination(In Other Shoes収録)の中で、虚構的真理を想像への命令によって定義することをあきらめている。そこでは、想像への命令は、虚構的真理の必要条件だが、十分条件ではないという風に立場が弱められる。つまり、ウォルトンの現在の立場では、(K2)から(K3)への推論を受け入れる必要はない。想像への命令を虚構的真理の必要十分条件として認めてしまうと他にもいくつか反例が出てくるので、これもそのひとつなのかもしれない。

これは本当にただの当て推量だが、MMBの時点では、ウォルトンは想像への命令を、暗黙的な仕方でかなり制限していたのではないかという気もする。つまり、「ケヴィン・コスナーについての虚構的真理なんて無いんだから、ケヴィン・コスナーについて想像せよという命令はないんだ」といった、論点先取に当たるような想定をしていたかもしれない。しかし、論点先取でない形で想像への命令をうまく定義できないことがわかったので、上記の定義を撤回したのかもしれない。

いずれにせよ、この部分の解釈は本当によくわからない。

*1:私を含め、議論した人たちはおそらく皆このことを実感したと思うが。

*2:objectの訳が争点のひとつなので中立的な表現にした方がよいと思うが、煩雑になるので以下引用以外は「想像の対象」「表象の対象」で統一させてもらう。

*3:表象を媒介させずに現実の対象について想像する状況や、表象体は想像への命令を行なっているが鑑賞者が実行しない状況などを考えれば、「表象の対象ではないが、想像の対象であるもの」やその逆は想定できる。

*4:想像の対象の典型例は人形・切り株などであり、表象の対象の典型例はフィクションに実在の人や都市が登場するケースだが、人形が表象の対象になることもあるし、フィクションに都市が出てくるケースが想像の対象になる場合もある。

*5:あとでこの性質を使うので丁寧に説明している。おそらく、田村と私はここの解釈は一致しているが、松永とは食いちがっている。

*6:定義ではないというのは、定義からトリビアルに出てくるようなタイプの主張ではないということ。

*7:さらに、「二つの表象対象の問題」「二つの虚構的真理の問題」が成立するためには、『ワイアット・アープ』において、ケヴィン・コスナーを「標準的な意味での想像活動のobject」とするような想像への命令も成り立たなければならない。田村の解釈でこれが成り立つのかどうか私はよくわかっていない。ウォルトン的「について想像」に従事している人が、標準的な意味での「について想像」にも従事しているのだとすれば、成り立つだろう。そして、ウォルトン的「について想像」が標準的「について想像」に条件を付け加えたものなのだとすれば、そうなるだろう。

*8:細かいことを言えば、先に述べたのは想像についての話で、ここは虚構的真理の話だ。しかし、同じような話は虚構的真理についてもできるだろう。

スタンフォード哲学事典の仏教関係の記事

まとまってなくてイラっとしたので一覧を作った。あと、地味に日本語と対応させるのがめんどうなので、日本名をつけた。検索と、関連記事に頼って作ったので漏れはあるかもしれない。

(インド哲学一般とかチベット哲学一般の記事は意図的に外した)

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