Noel Carroll, 穏健な道徳主義

Carroll, Noël (1996). Moderate moralism. British Journal of Aesthetics 36 (3):223-238.

Beyond Aesthetics: Philosophical Essays

Beyond Aesthetics: Philosophical Essays

目次

  1. 過激な自律主義
  2. 穏当な自律主義

芸術的価値と道徳的価値の話が話題だったので、Evernoteの読書ノートからサルベージ。

芸術的価値は道徳的評価から自律しているか?というのはよく議論されるが、この論文は自律主義の批判で有名。最初のところでは、「自分の若い頃はニュークリティシズムの全盛で、芸術を道徳的に評価するなんてとんでもないという雰囲気だったが、最近はアーティストも政治の話をするようになった」とか思い出話をしており、その辺もおもしろい。

キャロルは以下の3つの立場を対比させた上で、穏健な道徳主義を擁護している。

立場 説明
過激な自律主義 芸術を道徳や政治の観点から語ることは不適切だ
穏健な自律主義 芸術作品の道徳的評価は有意味だが、芸術作品の美的次元は、道徳的評価の次元から独立している
穏健な道徳主義 作品の道徳的評価は美的評価に関わりうる

前半では、自律主義の議論を「最大公約数論証」として再構成し、これを批判している。後半では、後に「適切な反応の論証」と名付けられた論証で、穏健な自律主義を批判している。

キャロルが考える自律主義の問題点は、一部の芸術の特徴をアート一般に拡張し、アート一般の評価規準として主張してしまう部分にある。例えば自律主義の論証は典型的には以下のような形をとる。

  • 芸術はそれ自体として評価される。
  • 道徳的評価は作品をそれ自体として評価することではない。
  • よって作品を道徳的に評価することは不適切だ。

「芸術はそれ自体として評価される」「道徳的に評価されない」といった特徴は、確かに芸術作品のプロトタイプ的イメージとしてはよくあるものかもしれない。しかし、それは本当に、あらゆる芸術形式・あらゆるジャンルの芸術作品の特徴として適切なものだろうか。

キャロルが指摘するように、物語作品に対して道徳的反応をすることはごく普通だ。物語の読者は、作中の出来事を道徳的に捉え、適切な感情的反応をとる。しかし、そうだとすると、自律主義が「芸術一般の評価規準」として持ち出すものは、単に一部のジャンルの慣習を不当に一般化したものになってしまうかもしれない。

また、キャロルが穏健な自律主義に対する批判として持ち出すのもやはり物語芸術の例だ。物語芸術の場合、道徳的評価は明らかに芸術的評価に影響する場合がある。例えば、作中で道徳的人物として肯定的に描かれている主人公が、実際には差別的な言動をしていれば、それは作品としてもマイナスに評価されるだろう*1

具体的に、キャロルがあげているのは『アメリカンサイコ』の例だ。この作品は80年代アメリカの風刺だが、殺人の場面を暴力的に描きすぎてあまりうまくいっていない(らしい)。こういうのは制作者の道徳的な誤判断が作品の芸術的評価にも悪影響を及ぼす例だとキャロルは主張する。

*1:もちろん、ジャンルにもよるし、文脈にもよる。キャロルが言っているのは単にそういう場合があるだろうという話だ。

Marcia Muelder Eaton, 「美的義務」

Eaton, Marcia Muelder (2008). Aesthetic obligations. Journal of Aesthetics and Art Criticism 66 (1):1–9.

美的理由について勉強するシリーズその2。

その1

「道徳的義務」や「認識的義務」が存在するのに対し、「美的義務」は存在しないと言われる。道徳的義務や認識的義務に反することは非難に値する。例えば、「他人のものを盗まない」とか「証拠の無いことを信じない」といった規範を受け入れなければ非難を受けるだろう。

一方、美的理由に従わないからといって真剣な非難を受けることは想定しづらい。美的理由は、道徳的理由や認識的理由とちがって、「オプショナル」だ。どれだけ美しい絵であれ、崇高な光景であれ、特に興味がないから見に行かないということは許されている。美的理由に従うことは、自発的な意志の問題であり、よくも悪くも義務による強制とは異なるのではないだろうか。

では美的義務は本当にないのか? 著者はこの論文で、美的義務の可能性を模索している。

著者が注目するひとつは、美的ジレンマだ。道徳的ジレンマに道徳的義務が現われるように、美的ジレンマには美的義務が現われるかもしれない。著者は現実の事例も架空の事例もたくさん検討しているが、わかりやすいのは、「焼ける美術館」のケースだ。火事で燃えさかる美術館からひとつだけしか絵を持ち出せないとすれば、どの絵を救出すべきか?

また、架空の例ではなくても、現実の絵画修復者はこれと同じようなジレンマに直面する。1980年に開始されたシスティーナ教会の復元では、色あせたフレスコ画が鮮やかに復元されたが、批判も多く、激しい議論があった。これについてはWikipediaの記事で詳しく説明されていてなかなかおもしろかったが、修復によって美術作品の長く親しまれた姿を取り除くことはジレンマを含んでいる。

もうひとつ著者が注目するのは、他人を人格として扱うことは、他人の人生を物語として尊重し、良いストーリーを語ることを含んでいるという論点だ。例えば、歴史上の人物を悪の象徴として歪めたり、逆に美化して語ることは許されるのかといった問題だ。

ただし、著者自身認めているように著者があげている例は、美と道徳の中間領域のような事例が多い。

McGonigal Andrew「美的理由」

3月のワークショップに向けて、私が美的理由について勉強するシリーズ。「美的価値と行為の理由」というテーマを設定してみたが、そんなに参考文献はない。

直近は以下を読んだ。難しかったが、わりとおもしろい。

Andrew, McGonigal (forthcoming). Aesthetic Reasons. In Daniel Star (ed.), Oxford Handbook of Reasons and Normativity. Oxford: Oxford University Press.

McGonigal Andrew, Aesthetic Reasons - PhilPapers

こちらは、『理由と規範性に関するオックスフォードハンドブック 』の記事になる予定のものらしい。

目次

  • 美的理由を導入する
  • 予備的区別
  • 独自性と謙虚性
  • 反実在論を動機づける: 美的理由の安定性
  • 反実在論を動機づける: 美的対立と感性の役割
  • 美的理由の権威
  • 反実在論を動機づける: 美的義務への反対
  • 美的対立に関する実在論的立場
  • 反論への懸念
  • 美的理由と組み込み説
  • 美的義務の可能性

道徳や認識に関わる理由があるのと同じように、美的理由と呼ぶべきものもありそうに思われる。例えば、ある絵の美しさは、その絵を観に行く理由を与えるかもしれないし、森林の美しさは、森林破壊に反対する理由を与えるかもしれない。

ただし、美的理由とその他の理由の間には、大きく異なる点もある。美的理由は、(1)感覚経験に強く結びつき、(2)また、あまり強い強制力を与えないという特徴がある。とりわけ、道徳的義務と同じような仕方で美的義務があるという見解を疑う論者は多い。結局のところ、美的理由なるものがあるとしても、それは、各人の趣味や好みに依存するという意味で、きわめて主観的なものにすぎないのではないか?

一方、著者は、美的理由に関する反実在論(美的理由は主観的だという立場)にさまざまな魅力があることを認めながらも、美的理由の実在論を擁護する経路を提案している。それは大まかには以下のようなものだ*1

  1. 美的感性の涵養は、各人の人格的統合integrityと結びつくものであるという意味で、人によって異なるものである。
  2. しかし、「あなたの人格的統合と結びついた美的感性を涵養せよ」という行為者中立的理由は認められるだろう。
  3. 一方、一度美的感性を涵養すると、特定の選択が強制力をもつようになるだろう。

もし、「あなたの人格的統合に結びついた美的感性を涵養しなさい」という行為者中立的理由を認められるなら、この中立的理由は、「これこれの選択は、私の人格的統合に結びついた美的感性によって導かれるものである」という事実に橋渡しされ、特定の選択を美的に後押しする。

例えば、太郎が涵養した美的感性のもとでは『最後のジェダイ』を絶賛することが導かれ、花子が涵養した美的感性のもとでは『最後のジェダイ』を批判することが導かれるとしよう*2。この際、太郎と花子はそれぞれ異なる美的理由をもつが、それらはどちらも「美的感性を涵養せよという抽象的理由」と「個別化する事実」の2つによって導かれたという意味で、各人のほしいままではない、美的義務の要請になっている。著者は、以上のようなルートによって、実在論的な美的義務の可能性を擁護している。

*1:だいぶ単純化したが、実際にはJ.ブルームの広いスコープと狭いスコープの話と結びついていて、やたらと細かい話になっている。

*2:この際、両者がそれぞれ理想的な評価者としてふるまったとしても、実質的な対立は残りうるということは前提になっている。

ノエル・キャロル「ホラーの本質」

Noël Carroll, The nature of horror - PhilPapers

Carroll, Noël (1987). The nature of horror. Journal of Aesthetics and Art Criticism 46 (1):51-59.

だいぶ間が空いてしまったが一応SFファンタジーに関する論文を紹介したので、ホラーに関する論文も紹介する。

これはのちに『ホラーの哲学』の1章の一部になった論文だ。書籍の方も読んだ。基本的な主張は変わってないが、書籍の方が長いのでそちらを読めばいいと思われる。

The Philosophy of Horror: Or, Paradoxes of the Heart

The Philosophy of Horror: Or, Paradoxes of the Heart

この論文でキャロルは、ホラージャンルがもたらす固有の感情を特徴づけることで、ホラージャンルの本質を特定しようとしている。ホラー特有の感情は、「アートホラー」という名前で呼ばれている。

キャロルによれば、感情の種類は、特定の状況の認知と身体反応によって特定される。よって、アートホラーを特定するには、アートホラーがどんな身体反応と、どんな状況の認知を伴うかを特定すれば良い。

また、このアートホラーの感情を特定するために、キャロルは、次のような手順を踏んでいる。まず、ホラージャンルにおいては、鑑賞者に期待される反応は、登場人物の反応と一致すると考えられる。さらに、ホラージャンルにおける登場人物の反応は以下のようにまとめられる。

登場人物は、何らかのモンスターXと遭遇することで、以下のような反応に陥る。

  1. 身体反応: 震え、悪寒、叫びなどの正常でない身体的動揺状態
  2. 状況認知: モンスターXは危険threateningで不浄impureなものである
  3. 1の身体反応は、2の状況認知によって引き起こされる。

これがそのまま観賞者に期待される感情(=アートホラー)の構成要素となる。

ポイントは、危険と不浄の両方が必要だという部分にある。モンスターが危険なだけであれば、引き起こされる感情は、危いものへの恐れfear(コワイ)になる。モンスターが不浄なだけであれば、引き起こされる感情は、嫌悪disgust(キモイ)になる。アートホラーには、この両方が必要であるとされる。

不浄

「不浄」という部分はわかりにくいが、キャロル説の特徴的な部分でもある。キャロルは、メアリ・ダグラスに依拠した上で、不浄なものは、多くの場合、境界侵犯的なものや不定形のものであると説明している。要するに、人間の嫌悪を引き起こすような性質だ。具体的に不浄なものの例としてあがっているのは、

  • 生と死の境界を侵犯するもの: 幽霊、ゾンビ、ミイラ、フランケンシュタインの怪物
  • 無生物と生物の境界を侵犯するもの: 意志をもった家、ロボット、殺人自動車
  • 異なる種を組み合わせたもの: 狼男、蜥蜴男
  • 複数の個体の融合: ジキルとハイド、悪魔憑き
  • 特定のカテゴリーの部分しかないもの: 動く手

確かに、単純に「危険で恐い」だけではなく、日常的な理解を攪乱したり、タブーに触れる要素が重要な気もする。

私見では、ホラーの登場人物はオープンマインドで寛容な人間ではなく、偏見に満ちた狭量で保守的な人間であった方が良いと思うのだが*1、それはおそらくこの要素と関連しているのではないかと思った。つまり、狭量な人間が焦点になっている方が、モンスターによって境界を攪乱されやすくなるので、よりアートホラーが高まるのではないかと考えられる。

またキャロルも指摘しているように、モンスターは日常世界の外から来る(宇宙、地中、海など)というのもこうした境界侵犯性と結びついていると考えられる。

*1:そして実際そのように設定されることが多いと思うのだが。

Laetz Brian & J. Johnston Joshua, ファンタジーとは何か

Laetz Brian & J. Johnston Joshua, What is Fantasy? - PhilPapers

Laetz Brian, & Johnston Joshua J., (2008). What is Fantasy? Philosophy and Literature 32 (1):161-172.

ファンタジージャンルの特徴を述べた論文。作品がファンタジージャンルに分類される条件を論じている。

ファンタジーの条件

まず、ファンタジージャンルの特徴として、ドラゴンやエルフや魔法のような超自然的なものに訴えるのは自然な見解だろう。しかし著者によれば、現代的なファンタジー作品は、神話や宗教作品からは区別される。例えば、死後の世界の存在を主張する宗教団体が作った映画に死後の世界が登場しても、それはファンタジーとは見なされないだろう。

一方で、ファンタジーは神話や伝説に深く影響を受けてもいる。古典的なファンタジー作品の多くは、ヨーロッパの神話や伝説に材をとったものだが、近年では、アジアやイスラム圏の伝説に基づいたファンタジー作品もある。神話や伝説の「転用」は、むしろファンタジーの本質的な条件に思われる。

そこで著者らは、神話とファンタジーのねじれた関係をそのまま条件に組み込む。

  • ファンタジーには、神話・伝説・民間伝承に影響を受けた超自然的な内容が含まれる。
  • 観衆の大部分はこれらの内容を信じていない。
  • 観衆はそれらが別の文化によって信じられていたと信じている。

要するに「昔の人が信じていた神話を、もはやそれを信じていない現代人が別の目的に転用したもの」がファンタジーだ。ただし、この条件は多少複雑化されている。「実は古代ギリシア人もギリシア神話を大して信じていなかった」というのはありえる事態だが、それによって、ある作品がファンタジーでなくなることはない。古代ギリシア人がギリシア神話本当に信じていたことは必要ではない。現代のわれわれがギリシア神話を、「かつて信じられていた神話」と見なしているだけで十分だ。

さらに、著者たちは超自然的内容の使用のされ方に関して、細かい条件をいろいろ付けている。

  1. それらは目立った形で登場する
  2. それらは自然化されていない
  3. それらは寓意的にのみ使用されているのではない
  4. それらは単にパロディとして使用されているのではない
  5. それらは単にバカげたものではない
  6. それらは主として観衆を怖がらせることを意図していない

映画の中で2分だけ魔法使いが登場するだけで、作品全体がファンタジーになるわけではない。ファンタジーは、超自然的なものを主要な要素とする作品でなければならない。また、神話を科学的に説明するタイプのSFはファンタジーではない。

また、喋る動物が寓話のためにのみ登場する作品、例えば『動物農場』はファンタジーではない。パロディやギャグのためだけに魔法使いやドラゴンを登場させる作品もファンタジーではない。恐怖のために超自然的なものを導入する作品はホラーであってファンタジーではない。

また、それ以外の条件として、ストーリーにアクションの要素が含まれること、フィクションであることも要請されている。

ぜんぶまとめて書くと「ファンタジーとは、フィクションのアクションストーリーであり、神話・伝説・民間伝承に影響された超自然的内容を目立った形で含む。さらにその内容は観衆の大部分によって信じられておらず、観衆はそれらが別の文化によって信じられていたと信じている。さらにそれらは自然化されておらず、もっぱら寓意的使用、単なるパロディ、単にバカげたもの、主として観衆を怖がらせることを意図していない。」となる(長い)。

驚異

「恐怖のためであってはいけない」「パロディのためであってはいけない」というネガティブな条件がたくさん付くことに疑問を抱く人もいるだろう。私もそこは変だと思う。そういったネガティブな条件の集積ではなく、ファンタジーに固有の目的を特定し、「超自然的な内容が、主としてXという目的のために使用されている」という積極的な条件を入れればいいのではないだろうか。

一方、ファンタジーに固有の目的の候補がひとつある。それは驚異wonderの感情を喚起することだ。ホラーが恐怖を喚起するのと同じように、ファンタジーは驚異を喚起するというのは自然な捉え方ではないか。

ところが、著者たちは、これに疑問を呈している。まず、多くのファンタジー作品は驚異を喚起しないし、大人向けのダークファンタジーなどは驚異の喚起を意図したものではないだろうというのだ*1。そのため、驚異がファンタジーの伝統において重要な要素だったことは疑いないが、ファンタジーの条件には入らないだろうと著者らは主張する。ここは少なくとも疑問の余地のある部分ではあるだろう。

感想

「神話からの転用」というのは、少なくともファンタジーのひとつの典型的な形を取り出すことには成功していると思うが、ファンタジーもいろいろあるから難しいなと思った。例えば世界幻想文学大賞 World Fantasy Awardはファンタジーの賞だが、SFやホラーに近いものが受賞することもある*2。有名なところでいうと、2010年の受賞作であるチャイナ・ミエヴィルの『都市と都市』は、超自然的なものがいっさい出てこない。にもかかわらず『都市と都市』には確かにファンタジーの要素がある感じもするし。それが何なのかというと、やっぱり「驚異」というしかないのではないか*3

単なるアイデアではあるが、「神話から流用した要素が、少なくとも当初は、驚異の喚起を意図して導入される」という形の条件にすればいいのではないだろうか。ファンタジー慣れした観衆にとって、ドラゴンや魔法使いがすでに驚異を喚起しないとしても、ドラゴンや魔法使いはもともと驚異の喚起を目的に導入されたものだから、ファンタジーの構成要素たりえるのだという発想だ。いわゆるジャンルファンタジーが、使い古された要素しか含んでおらず、ほとんど驚異を喚起しないとしても、かつて驚異を目的とした道具立てを含んでいればファンタジーに分類されるという形だ。

都市と都市 (ハヤカワ文庫SF)

都市と都市 (ハヤカワ文庫SF)

*1:英語のdark fantasyがどういう作品を指すのかよくわからないなと思った。

*2:日本語だと「ファンタジー」と「幻想文学」はちょっと使いわけがあるような気もするが、英語だとその辺どうなのだろう。

*3:『都市と都市』がファンタジーに分類されるかどうかは微妙だが、なぜ『都市と都市』が最低限のファンタジー「っぽさ」をもっているかというと、驚異を喚起するからだということ。

Simon Evenine, 「でもこれってSFなの?」 - サイエンスフィクションとジャンルの理論

Simon J. Evnine, “But Is It Science Fiction?”: Science Fiction and a Theory of Genre - PhilPapers

Evnine, Simon J. (2015). “But Is It Science Fiction?”: Science Fiction and a Theory of Genre. Midwest Studies in Philosophy 39 (1):1-28.

目次

  1. ジャンルに対する二つのアプローチ
  2. 所属、定義、規範性
    1. 所属と定義
    2. 規範性
  3. ジャンルを巡る争い
    1. マーガレット・アトウッド
    2. パミラ・ゾリーン「宇宙の熱死

@pubkugyo さんに教えてもらった。作品のジャンルについて論じた論文。特に具体的なジャンルとしてSFを取り上げ、SFにおけるジャンルの定義論争などに触れつつ議論をしている。著者は、デイヴィドソンの解説書などでも知られる哲学者。

デイヴィドソン―行為と言語の哲学

デイヴィドソン―行為と言語の哲学

著者は、ジャンルに関する理論を以下の2つにわける。

  1. 概念領域説
  2. 歴史的個物説

概念領域説によれば、ジャンルとは、作品を分類する方法である。概念領域説に分類される代表的な見解として、著者は、クラス説(ジャンルとは作品の類classである)、性質群説(ジャンルとは性質の集まりである)などをあげる。

一方、著者自身が採用する、歴史的個物説によれば、ジャンルとは、特定の起源と歴史と地理的位置をもつ個物である。より具体的には、ジャンルは、「ユダヤ的伝統」となどと同じ、伝統traditionの一種であるとされる。この立場では、ジャンルの中には、作品だけではなく、作家や読者コミュニティやさまざまな慣習が含まれる。ジャンルを一種のムーブメントと捉える立場だと言った方がわかりやすいかもしれない。

著者は、歴史的個物説の利点として以下の点などをあげる。

  • ジャンルの歴史性(歴史的変化など)をうまく認められる。
  • ジャンルを巡る争い(「これってSF なの?」)をうまく認められる。

特に後者の点は、著者が重要視しているものだろう。ここはわりと疑問もあるのだが、おそらく著者は、概念領域説をとった場合の帰結を以下のように考えている。

概念領域説をとった場合、ジャンル名の指示対象は、作品の類や、共通の性質群である。従って、「SF」のようなジャンル名の意味は、分類を可能にする記述の集まりになると考えられる。例えば、「SF」の定義は「宇宙船、光線銃、タイムマシン、ロボットが出る作品」といったものになるかもしれない。

仮に「SF」の定義がこういったものだとすると、「SF」という語の意味を知っている人は誰でも、何がSFに分類されるのかを容易に知ることができるはずだ。どの作品がSFに属するかに関して対立が生じることはありそうにない。もちろん、二人の人が「SF」という語を異なる意味で使っていれば、見かけ上対立が生じるかもしれない。しかしそれは、ただの言葉づかいを巡る争い(「SF 」という語をどういう意味で使うべきか)だろう。ところが、これは現実に生じていることとは違う。現実には「これってSFなの?」という議論がいたるところで生じているし、もっと実質的な対立があるように見える。

一方、著者のような伝統説をとった場合、もっと実質的な対立が生じる余地がある。伝統説では、「SF」という語は、ある特定の伝統を指示する。しかし伝統は個物なので、ジャンル名の意味を知っているからといって、作品の分類原理を知ったことにはならない(というかおそらく著者はジャンルには分類原理などないと考えている)。ジャンル名は、特定の伝統を「あれ」といって指すようなタイプの語で、分類の原理については何も教えてくれない。また、伝統に関して争いが生じるのもよくあることだ。「これってSFなの?」という争いは、「何がこの伝統の後継者か」と巡る争いとして理解できる。そこには正解はなく、単に権力を巡る争いが生じているのかもしれない。

感想

ジャンルは伝統であるという立場自体はそんなに悪くないし、歴史的変化を認めたいというのもわかるような気はする。ただし、ジャンルの決定には正しい答えは何もなく、影響関係と権力争いだけで決まっているというのは、かなり変じゃないかと思った。

著者はSFを例にしているが、ジャンルにはもっと違うタイプのものもあるだろうというのも気になる。登場人物や舞台によって規定されるジャンルというのもある。例えば、スパイものというジャンルは、おそらく規定の一部に〈登場人物がスパイであること〉を含むだろう。また、西部劇は〈開拓時代のアメリカ西部を舞台にする〉といった規定をもつだろう。こうしたジャンルに関しても、スパイや西部がジャンルの分類に関して何の役割も果たさないというのは、変な立場だろう(少なくともそれは、ジャンルを巡る実践を捉える上では大きな欠陥を持つ立場だろう)。

ただ、著者の言っていることにはもっともな部分があって、例えば、西部劇のファンコミュニティが先鋭化し、「舞台が西部であることが重要ではない、西部のスピリットが大事なんだ。SF西部劇はありだよ」とか言いはじめるような事態はありえるかもしれない。その結果として、開拓時代ではなく未来世界を舞台にした西部劇が認められるというのは、別にあってもいいような気はする。というか、現実にそういうことはあるだろう。でも、それを認めた上でも、ジャンル分類が一定の理由と合理性に基づいてなされていることは捉えられるのではないか。

Kendall Walton, 「なんて素晴しい!」

Kendall L. Walton, How marvelous! Toward a theory of aesthetic value - PhilPapers

Walton, Kendall L. (1993). How marvelous! Toward a theory of aesthetic value. Journal of Aesthetics and Art Criticism 51 (3):499-510.

Marvelous Images: On Values and the Arts

Marvelous Images: On Values and the Arts

ウォルトンの美的価値論。この論文では「美的価値」という語を使っているが、どちらかと言えば「美的経験」や「美的快」を論じたものとして読んだ方がいいかもしれない。

「美的に価値がある」と言われるものは、(1)きわめて多様であり、さらに(2)他のさまざまな価値にともなうという特徴をもっている。例えば、ある作品に美的な価値があると言われる場合、それは刺激的であるかもしれないし、感情をゆさぶるかもしれないし、洞察やカタルシスを与えるかもしれない。考えさせるかもしれないし、日常からの逃避を与えるかもしれない。人を道徳的にするかもしれないし、人生の指針を与えるかもしれないし、宗教的体験を与えるかもしれない。美的な価値はときに、実践的価値や認知的価値や道徳的価値や宗教的価値に付属する。

ウォルトンは、美的価値を、一階の評価判断を対象とする高階の態度的快によって捉えるよう提案する。例として、巧みな技術を称賛するようなケースを考えてみよう。例えば、私が素晴しい楽器の演奏に触れ、心から称賛の態度をとるとしよう。このとき私は、演奏技術を称賛するだけではなく、演奏が称賛の態度を生じさせたことに快を見出すかもしれない。素晴しい演奏に接し、それを味わうことは、称賛だけではなく、ときに称賛による快をもたらす。

以上の事例で私は、(A)素晴しい演奏を称賛し、(B)さらに素晴しい演奏を称賛することに快を見出している。前者の演奏に対する称賛が「一階の評価判断」にあたり、後者の快が「一階の評価判断を対象とする高階の態度的快」にあたる。単純に言えば、「評価」と「評価による快」の二つがある。

実際、「鑑賞」とか「味わう」という語には元々この両者の意味がある。それは単に素晴しい演奏を享受するという意味ももっているし、それを評価することも意味している。

提案された分析はだいたい以下のようなものだ。

美的快: 称賛などの評価にともない、評価を対象とする快。

xが美的価値をもつ: xに対して美的快をもつことが適切である*1

この立場の特徴は、美的価値があるから称賛するのではなく、称賛による快が美的価値であるという風に説明を逆転するところ。

この説の魅力は、以下の2つにあるとされる。

  1. 一階の評価判断は、かなり多様なものであっていい。このため、一階の評価判断をいろいろ交換することで、美的価値の多様性をうまく捉えることができる。
    • 例えば、技術の称賛ではなく、畏怖・驚異といった評価判断と、それにともなう快を考えることで、自然美の美的価値にも適用できるといった可能性が検討されている。
  2. また、 一階の評価判断は、実践的価値・認知的価値・道徳的価値などの判断であってよい。このため、美的価値は、実践的価値・認知的価値・道徳的価値などに付属するものでありえる。
    • 美的価値に美的価値がともなうという「ブートストラップ」の可能性も示唆されている。

また、この説は、芸術における技術志向をうまく説明するかもしれない。芸術には、制度外から見れば無意味に思えるような技巧の追求がともなうことがある。音楽における超絶技巧演奏、複雑な対位法、絵画における極端な写実主義、文学における韻律などは、時に美的価値を高める手段であるという側面を越え、それ自体が目的として追求される。

美的価値が「評価による快」によって構成されているとすれば、この現象は実にうまく説明できる。評価による快が目的なのであれば、技巧を手段と捉える必要はなく、技巧の追求自体が自己目的化していくだろうからだ。

また書籍版のPostScriptでは、マイナスの評価判断に快が伴うケースを考えることで、B級映画の快を捉えられるかもしれないという話があって、そこもおもしろかった。

*1:「適切である」の部分は、おそらく美的判断の規範性を捉えたいのだと思うが、あんまり詳しく説明されていない。