Michael Friedman「現代哲学のカント的テーマ」

Michael Friedman, Kantian Themes in Contemporary Philosophy: Michael Friedman - PhilPapers

Friedman, Michael (1998). Kantian Themes in Contemporary Philosophy: Michael Friedman. Supplement to the Proceedings of the Aristotelian Society 72 (1):111-130.

この論文で、マイケル・フリードマンは、ストローソンとマクダウェルという現代の「カント主義的」哲学者二人のカント解釈を取り上げ、批判している。この二人は哲学の方法論という側面に関しては、ほとんどカント的ではない。

これに対してもちろん「カント的じゃなくてもええやんけ」という反論は可能だろう。フリードマンもさすがにそれが批判になるとは思っていない。むしろフリードマンが強調するポイントは、「じゃあ現代においてカント的な哲学って、ストローソン、マクダウェル路線以外だとどういうものになるの?」というオルタナティブの探求にある。

カントが本来超越論的哲学でやりたかったことは、「メタ科学としての哲学」だ。カントは、ユークリッド幾何学ニュートン物理学という分野が、(1)アプリオリな知識(総合的アプリオリ)の例であると捉えた上で、(2)それが厳密科学としてうまくいっていることを前提にしていた。幾何学と物理学という一階のアプリオリな科学があることを前提にした上で、なぜそんな学問が可能なのかを考えようとしたのだ。

一方、ストローソンやマクダウェルらは、カントの哲学を、ユークリッド幾何学ニュートン物理学という当時の古臭い科学から切り離した。ストローソンの場合は、カント哲学は、経験の形而上学として解釈され、〈われわれのような経験主体が持たざるをえない基本的概念セット〉の探求になる。マクダウェルはそれを規範的な「理由の空間」の構造の探求として捉える。またストローソンもマクダウェルも「自然主義」を否定し、哲学の固有の対象は、「概念」や「理由の空間」であるとする。

つまりストローソンやマクダウェルにとっては、哲学は科学と切り離された自律的な領域であり、哲学固有の探求対象が存在している。しかし、フリードマンに言わせるとこれはまったくカント的ではない。特にストローソンは、合理的直観によって概念の必然的連関を探求すると言っていて、まったくカントではない。

じゃあ何がカント的なのか?

ここでフリードマンは20世紀の科学的哲学の伝統に目を向ける。非ユークリッド幾何学と相対論の衝撃──カントが総合的アプリオリの典型例としたユークリッド幾何学ニュートン物理学は、必然的に正しいものではなかった──は、論理実証主義者たちにはよく認識されていた。

これに関連して、ライヘンバッハは「アプリオリ」の意味を以下の二つにわけている。

  1. 必然的で改訂不可能で永久不変のもの
  2. 知識の対象の概念を構成するもの

アプリオリ」を後者の意味で捉えるかぎり、それは、われわれの認識の基本的構成要素であるという点では基礎的なものであるが、にもかかわらず歴史的に変化することがありえる。この後者の捉え方によれば、アプリオリなものは、トマス・クーンの「パラダイム」のように、歴史的なものになる(例えば、相対論によって、時間と空間の概念は基礎的なものではなくなった)。言語のフレームワークの変化を受け入れるカルナップの立場も、本来はこのように解釈されるべきものだろう。ライヘンバッハやカルナップらは、同時代に進行していた科学革命を横目に見ながら、それを理論的に捉えようとしていたのだ。

フリードマンは、超越論的哲学の役割を以下のように捉える。

  1. 科学革命が起き、通常科学のパラダイムが使いものにならなくなり、新しいパラダイムが登場する
  2. 超越論的哲学が登場し、新しい科学のパラダイムを明確化する

これは、哲学を通常科学の一部に吸収するような立場とも異なるし、哲学は、科学と切り離された哲学固有の領域だけやってればいいよという立場とも異なる。カントや論理実証主義は、同時代の科学革命を真剣に受け止めた上で、何とかそれを哲学的に捉えようとした。それが超越論哲学だ!ということらしい。

ちなみに、私は未読だが、以上のようなフリードマンのカント解釈は、おそらく以下の著作にまとまっているはずだ。

Kant and the Exact Sciences

Kant and the Exact Sciences

しかし、この立場だと、超越論的哲学は、科学革命が起きてるときしか仕事がないので、普段は何をすればいいんだろうという点が気になった。

Hunter Crowther-Heyck「ジョージ・A・ミラー、言語、心のコンピュータメタファー」

George A. Miller, language, and the computer metaphor of mind. - PubMed - NCBI

心理学史の論文。認知革命前後の話を扱っている。

1950年代、計算機のメタファーは心理学に革命(認知革命)をもたらしたと言われる。それまで主流だった行動主義──つまり、心理学の対象は直接観察できない〈心〉という謎めいたものではなく、外面的に観察できる行動なのだという発想──は打ち捨てられ、「心は存在し、心理学者の仕事はそれを研究することなんだ」と多くの心理学者は考えるようになった。

この論文では、「なぜ計算機のメタファー──つまり人間の心を計算機のようなものだと考えること──がそのような力をもったのか」という問いを扱っている。確かに、よく考えると、これは奇妙な事態だろう。何しろ、心をもたないもの(計算機)とのアナロジーが、なぜか心理学を変え、〈心〉という対象を再び中心に据えるような変化をもたらしたというのだから。著者も指摘するように、人間を一種の機械と見なすという発想は、そもそも行動主義者の中にもあったはずだ。

この論文では、ジョージ・A・ミラーという心理学者の軌跡を追うことで、この問い(「計算機のメタファーはなぜ心理学を変えたか」)に答えている。ミラーは認知革命の最初のきっかけとなった論文「マジカルナンバー7プラスマイナス2」を書いた心理学者だ。一方、ミラーはハーバードでS. S. スティーヴンスの元で行動主義の教育を受けている。ちなみに、ちょうどこの前に読んでいたWorking Knowledgeがこの直前までのハーバード心理学科を扱っていたので、この論文でその後の話を知れて個人的には勉強になった。

ミラーは、シャノンの情報理論に大きな影響を受け、当初はそれを行動主義心理学に取り入れようとするが、しだいにそこから逸脱していく。 著者によれば、コンピュータの比喩が反行動主義につながった理由は三つある。

  1. コンピュータとの比喩は、当時登場しつつあったチョムスキー言語学に結びついていたが、チョムスキーは人間の心によって言語を説明しようとした。
  2. 行動主義は心理学の独立と固有性を主張したが、コンピュータメタファーは学際的なアプローチにつながった。
    • ジョージ・ミラーは戦時中の軍事研究で、学際的なタスクベースのアプローチに慣れていた。
  3. コンピュータメタファーは、心理学に新しい研究プログラムをもたらした。
    • 行動主義者のネズミを使った研究が、人間を使った研究に置き換えられた。

Joel Isacc『働く知識 - パーソンズからクーンまでの人間科学の制作』

Working Knowledge: Making the Human Sciences from Parsons to Kuhn

Working Knowledge: Making the Human Sciences from Parsons to Kuhn

ジョエル・アイザックWorking Knowledge: Making the Human Sciences from Parsons to Kuhn(『働く知識 - パーソンズからクーンまでの人間科学の制作』)を読んだ。著者の専門は社会思想史だが、歴史的アプローチで20世紀北米の人文科学・社会科学の研究をしている。以前このブログでは、この著者のデイヴィドソンと行動科学についての論文を紹介した。私もあまり知らなかったが、最近は20世紀の分析哲学史のような比較的新しい領域も、哲学者ばかりではなく、歴史よりのアプローチで研究が進んでいるようだ。

この本も一部は哲学者を扱うが、分析哲学史の本というわけではない。対象は、ハーバード複合体(Harvard Complex)、つまり20世紀のハーバード大学周辺で形成されていた研究者共同体とそこにおける知的伝統を扱った本だ。心理学者や社会学者を扱った章もあり、学術史(インテレクチュアルヒストリー)としか言いようのない内容になっている。

非常に情報量が多く、扱う範囲も幅広い本なので紹介は困難だが、本書のインパクトを紹介するために、エピローグから引用しよう。

近年の研究は、「驚くべき」、直観に反するように見えるつながりを、クワインとカルナップの間、クーンと論理経験主義者の間、(クリフォード)ギアーツとパーソンズ的行動科学者の間に見出している。しかしそれらの発見が驚くべきものになっているのは、実証主義とポスト実証主義の認識論的対立という叙事詩的歴史によって、私たちの想像力が制約されているからだ。p.236

よくある通俗的歴史観によれば、ヴィラードクワイン、トマス・クーン、クリフォード・ギアーツといった著者たちは、前世代の「科学主義」「客観主義」「実証主義」「行動科学」を批判し、「ポスト実証主義」の時代を作ったのだと言われている。しかし、これらの著者たち──論理経験主義(論理実証主義)の一部、クワイン、クーン、パーソンズ、ギアーツ──はむしろ皆、ハーバード複合体というひとつの知的伝統に属するというのだ。

ハーバード複合体

本書を通じて強調されるハーバード複合体の特徴は以下の2つだ。

  1. 「隙間の学術界interstitial academy」
  2. 科学的哲学scientific philosophy

著者が「隙間の学術界」と呼ぶのは、学科組織からはみだした学際的な研究ネットワークのことだ。20世紀前半のハーバードでは、非公式・半公式の領域横断的なグループがいくつも形成され、横断的な研究の土台となった。論理経験主義者(論理実証主義者)のサークルもそのひとつだ。

「科学的哲学」は、そこに根付いていた知的伝統を指すために著者が使用している語だ。正直この本を読んでもそこまでピンときていないのだが、基本的には〈認識論〉〈科学の研究法〉〈科学の教育法〉をひとつの問題として捉えるような知的伝統のことらしい。「科学哲学(philosophy of science)」という領域が専門分野としてまだ確立しきれていなかった20世紀前半に、マッハ、ポアンカレ、ジェームズのような科学者に人気のある哲学者と、科学者の自然発生的哲学が混ざりあってできた知的潮流と言ってもよいかもしれない。

L. J. ヘンダーソン

アイザックの言うハーバード複合体を象徴する人物をあげよう。それがL. J. ヘンダーソン(ローレンス・ヘンダーソン)だ。おそらくそこまで有名な人物というわけではないし、私はこの本を読んではじめて知った。

だが、ヘンダーソンはハーバードの人脈上のハブとなる人物だ。本人は生化学者だが、生涯を通じて科学哲学や社会科学に興味をもった。パレートの社会学に魅了され、パレートを読む私的なゼミを開催していたが、この集まりには、経済学者のJ.A.シュンペーター社会学者のT.パーソンズ、R.K.マートン、G.ホーマンズなど戦後の有名社会科学者の多くが参加している。ヘンダーソンのパレートサークルは、アイザックの言う「隙間のアカデミー」の典型例のひとつだ。

パレートサークルは、ハーバードの社会科学者たちに「システム」「平衡」「機能」といった語彙を流行させた。またヘンダーソンは、論理経験主義の哲学者やクワインとも交流をもっている。クワインは後年「概念枠組」という語を、「L. J. ヘンダーソンを経由してパレートから受けついだ」と告白している*1。ハーバードにホワイトヘッドを呼んだのもヘンダーソンだ。また疲労研究所を設立し、ホーソーン実験にかかわり、科学教育の一貫として、ハーバードに科学史の講座を導入した。後には、ヘンダーソンが作った科学史の講座から科学社会学のR.K.マートンやトマス・クーンが登場してくる。

本書には、このヘンダーソンのように「何が専門なのかよくわからない」領域横断的な人物がさまざま登場する。確立した専門分野という観点から見れば、どこかうさんくさく感じられるが、こういう人々が新しい分野を作ってきた、あるいは少なくともそれが受け入れられる土壌を作ったというのはよくわかるような気もする。

各章の紹介

各章の登場人物とキーワードを紹介しておく。本書では、ヘンダーソンのパレートサークルの他、行動主義心理学者たちのサークルや、論理経験主義(論理実証主義)者のサークルが紹介される。

時代的には、1章が前史で19世紀末から20世紀初頭、2-4章が20年代から30年代、5-6章が戦後の展開を扱っている。

主な登場人物 隙間の学術界 キーワード
1章 歴代学長?
2章 L. J. ヘンダーソン パレートサークル
ソサエティオブフェローズ
ケースメソッド
3章 P. ブリッジマン
S. S. スティーブンス
B. F. スキナー
心理学者たち 操作主義
新行動主義
4章 W. V. クワイン 科学の科学ディスカッショングループ
間科学ディスカッショングループ
理経験主義
5章 T. パーソンズ レベラーズ
社会関係学部
行動科学
カーネギー理論プロジェクト
6章 T. クーン パラダイム

目次

  • プロローグ: いかにしてパラダイムは作られるか
  • 1章 隙間の学術界: ハーバードとアメリカンユニバーシティの興隆
  • 2章 ケースの制作: ハーバードパレートサークル
  • 3章 科学の制作者は何をしているのか? : 操作主義の回遊
  • 4章 根源的翻訳: W.V.クワインと論理経験主義の受容
  • 5章 レベラーズ: 世界大戦から冷戦の間のハーバード社会科学者たち
  • 6章 革命の教訓: 科学史科学社会学、科学哲学
  • エピローグ: 大いなる脱埋め込み

*1: Quine, W. V. (1981). Theories and Things. Harvard University Press. p.41

スーパーヒーロー研究の紹介

先日「スーパーヒーローの概念史」という論文を書いた。その時の記事でスーパーヒーロー研究には先行研究が多いと書いたが、以下でスーパーヒーロー研究の基本書を紹介することにしたい。需要があるのかよくわからないが、書き残さないと自分で忘れてしまいそうなので書いておく。

まずアメリカにおけるコミック研究の現状を簡単に紹介しよう。The Routledge Companion to Comicsの序文によると、アメリカで、キャリアの最初からコミックを専門にしてコミックで博論を書いたのは、2005年に Alternative Comics を博論として出版したCharles Hatfieldさんがはじめてらしい。もちろんそれ以前にもコミックを扱った研究はあるのだが、「コミック研究が専門」という人はほとんどいなかったそうだ。

例えば、日本でもよく参照されるマクラウドUnderstanding Comicsは、アメリカでもコミック研究に大きな影響を与えた重要な著作だが、マクラウドはマンガ研究者というわけではなくマンガ家だ。

Understanding Comics

Understanding Comics

マンガ学―マンガによるマンガのためのマンガ理論

マンガ学―マンガによるマンガのためのマンガ理論

クラウドの本はどちらかというとアカデミックな感じだが、コミック研究という分野は、在野の愛好家に支えられた分野でもあるので、もう少しやわらかい一般向けの本もたくさん出ている。

ここでわざわざ〈一般書〉と〈研究書〉を区別するのは、両者は目的や体裁がかなり違うからだ。一般書の方は生き生きした記述が多くそれはそれで非常にためになるのだが(特に、私のようにアメリカに住んでるわけではない人間にとっては、一般書の存在はありがたかった)、文献やデータの参照をきちんと書いてくれていないことが多い。「この発言の出典どこだよ……」「この数字どこからもってきた……」みたいなことが多いので、論文で参照する場合は結構使いづらいのだ。そういうわけで、研究として扱いたい場合は、たとえ内容が無味乾燥であっても研究書を重宝することが多い。

日本語で読めるもの

以下の2冊は、一般書カテゴリーだが、どちらもすごく良い本で、これを読むだけでスーパーヒーローコミックの通史がある程度わかる。前者は図版も多いので内容もイメージしやすいと思う。後者は、グラント・モリソンという一級のコミックライターが書いたものなので迫力があるし、これ自体が一次資料として重要なものだと思う。

THE HERO―アメリカン・コミック史

THE HERO―アメリカン・コミック史

DCコミックスアンソロジー』は、DCコミックスの重要な著作を並べつつ、簡単な歴史解説をつけたもの。これは歴史解説とセットで作品の翻訳も読めるので非常におすすめだが、当然ながらDCの作品しか載っていない。

DCコミックス アンソロジー

DCコミックス アンソロジー

基本書

スーパーヒーロー研究はすでにある程度先行研究が整備された分野なので、ありがたいことに論文集とリーダー*1と教科書が出ている。

What is Superhero?は、スーパーヒーローの定義について研究者とクリエーターを集めて、それぞれの意見を書かせましたという内容だが、執筆陣が豪華で、代表的な研究者と、とんでもない大御所のクリエーターが集まっている。

What is a Superhero?

What is a Superhero?

The Supehero Readerはスーパーヒーロー研究の代表的論文を集めたリーダーで、ここに入っている論文はどれもおもしろかった。これを読むと、代表的な研究者や研究のバラエティの広がりも含めてわかると思う。姉妹編でA Comics Studies Readerというのも出ている。こちらはスーパーヒーローコミックにかぎらず、英語のコミック研究の論文を集めたもの。

Superhero Comics はBloomsbury Comics Studiesというシリーズの一冊らしく、教科書的な一冊。良い本ではあるが、ちょっとぶ厚いのが欠点。

Superhero Comics (Bloomsbury Comics Studies)

Superhero Comics (Bloomsbury Comics Studies)

おまけ

これくらいで十分な気もするが、以下おまけ。

A Brief History of Superheroes は一般書カテゴリーだがマンガだけではなく、後半で映像化の歴史が網羅的に紹介されていた。

Comic Book Nation は研究書カテゴリーで、歴史家が書いたものなので、歴史の部分が詳細。

*1:代表的な論文を集めた論文集。

ニック・ザングウィル「ホテルペインティングと芸術の本質」

Nick Zangwill, Hotel Paintings and the Nature of Art: Everyday Artistic Phenomena and Methodology - PhilPapers

Zangwill, Nick (2018). Hotel Paintings and the Nature of Art: Everyday Artistic Phenomena and Methodology. The Monist 101 (1):53-58.

The Monistの日常美学特集に掲載された論文。

  1. ホテルペインティング(ホテルの部屋にある絵)は、観客の目に止まらず、すぐ忘れられるような無難なものであることが望ましい。ホテルペインティングはまさにそれを目指して作られる*1
  2. しかしホテルペインティングは芸術である。

という2つの前提から、芸術作品に関する美的機能説──芸術作品とは、鑑賞者に美的経験をもたらす機能をもった人工物であるという立場──など、鑑賞者の反応によって芸術を定義する立場への反例としている。

つまり、ホテルペインティングにとってはすぐ忘れられることが成功の条件であり、美的経験をもたらすことは目的ではない。そういうタイプの芸術作品もあるのだとすると、美的機能説のような立場は芸術をうまく捉えられていないということになるという議論だ。おそらく、スーパーでかかってるBGMなどでも同じ議論はできそうな気がする。

本当にホテルペインティングは芸術作品なのか?という点は疑問の余地がありそうだが、ホテルペインティングは絵画であり、絵画は芸術であるという以上の議論は特になかった。

ただし、ホテルペインティングの目的は忘れられることにあるという指摘は非常に印象的なものではあると思う。今改めて考えてみると、先週末泊ったホテルにどんな絵があったのか、そもそも絵があったのかすら思い出せないことに気づいた。

*1:著者も指摘するように、制作者はホテルペインティングとして作ったわけではないのだが、無難な絵だったためにホテルペイティングとして採用されるという可能性もある。ただしその場合でもホテル側の目的は、無難さにあると言えるだろう。

書いた論文の宣伝: スーパーヒーローの概念史

フィルカル最新号(Vol. 3, No. 1)に「スーパーヒーローの概念史: 虚構種の歴史的存在論」という論文を書きました。

BaseまたはAmazonなどから購入できます。あと池袋のジュンク堂さんや新宿の紀伊国屋さんにあるようです。

目次は以下で見ることができます。

http://philcul.net/?p=598

(1) スーパーヒーローの歴史を扱った論文です

38年から80年代くらいのアメリカンコミック史(スーパーヒーローコミックのみ)をざっと扱っています。メインは60年代です。

これを読むと、最近のMCU映画などでも有効な「スーパーヒーロー=トラブルメーカー」という図式や、ユニバース化の傾向がだいたい60年代のマーベルでスタン・リーやジャック・カービーによって作られたということがわかります。また、この論文のメインの主張としては、60年代の前後で、スーパーヒーロー概念が、〈読者が用いる概念〉から〈キャラクターが自己規定に用いる概念〉に変化し、それによって分類が変化したということを書いています。

すいませんがちょっと長いんですが、無意味に長くしたわけではなく、歴史的な素材を扱うところでどうしてもページ数が必要でした。

(2) ハッキングの研究の応用です

この論文は、イアン・ハッキングのやっている「歴史的概念分析」(歴史的存在論)を自分でもやってみたというものになります。だいたい哲学者はハッキングのことはほめるけど、絶対自分でハッキング的な研究はしないんですが(本当にやってる人がいない)、私は自分でハッキング的な研究を実行してみました。

なんでそんなことをやろうと思ったかというと、私自身はフィクションの哲学に関心があるんですが、メインの関心はやはり、私たちがフィクションに関わる時に実際にやっていることをきちんと理解したいという部分にあるんですね。そういうモチベーションが大きいので、抽象的な議論だけでフィクショナルキャラクターの存在論とかを扱うことにちょっと限界を感じていたというのもあります(もちろん哲学的な議論だけでできる仕事もまだあるでしょうし、単純にいろんなアプローチがあっていいと思うんですが)。

そこで何か具体的なジャンルとか虚構種の歴史を扱いたいと思って、スーパーヒーローにしました。なんでスーパーヒーローかというと、単純に私が興味があるというのもあるんですが、主な理由は先行研究が多かったからです(そのうち先行研究の紹介もしようかと思います)。

イベントもあります!

4月21日(土)19時から、田原町の書店Readin' Writin'さんで、私と岩切啓人さんと森功次さんで、フィルカル最新号ににからめてトークイベントをします! こちらもよろしくお願いします。

【日時】4月21日(土)18:30開場 19:00開演

【場所】田原町 書店「Readin’ Writin’」

【料金】参加費1,000円

【登壇者】高田敦史、岩切啓人、森功

イベントの詳細

事前予約

ロナルド・ドゥオーキン「リベラルな国家は芸術を支援できるか?」

美的理由について勉強するシリーズ。

その1 その2 その3

原理の問題

原理の問題

『原理の問題』の9章に入ってる、国家による芸術支援に関する有名な論文を読んだ。

この論文では、国家が芸術と人文学に関して、どれだけ支援すべきなのかという問題を扱っている。前半では、(1)経済学的アプローチと(2)高尚なアプローチという二つのアプローチが検討され、どちらも退けられる。

  1. 経済学的アプローチ: 共同体において保持されるべき芸術の質は、共同体が芸術の保存のために支払うことを望む価格によって決定される。
  2. 高尚なアプローチ: 人々が望むものではなく、人々が持つに値する芸術を保持するべきだ。

経済学的アプローチは「市場に任せろ」、高尚なアプローチは「良い芸術を与えろ」とそれぞれ要約できるだろう。

経済学的アプローチにおいては、人々が自分が喜んで支払ってもよいと思う金額に応じた芸術を享受するべきだという前提が採用される。ここからストレートに出てくる結論は、芸術への公的支援はほとんどしなくても良いというものになる。なぜなら、国家が余計な支援をしなければ、人々は自分が望むだけの金額を美術館の入場料やオペラのチケットに対して支払うはずだからだ。市場に任せておけば、適正な価格が決定され、人々はちょうど自分が望むだけの芸術を得るはずだ。もし、公的補助金が市場を邪魔してしまうと、共同体は、自分が必要とする以上の金額を芸術に対して投入してしまうことになる。

また、経済学的アプローチに対して反発を覚える人々は、高尚なアプローチに共感するかもしれないが、その欠点についても考えるべきだろう。第一に、大学や美術館への補助金によって利益を受ける人々の大半は、すでに芸術を好むだけの教育を受けた裕福な人々である。医療や貧困対策ではなく、芸術に出資することは、裕福な人々にさらなる利益を与え、不公平を拡大するかもしれない。第二に、高尚なアプローチは傲慢なパターナリズムである。それは、ある生き方よりも特定の生き方の方が立派であり、テレビでフットボール中継を観るよりもティツィアーノの絵を観る方がより良い生き方だといった判断を強制するものである。国家が徴税と警察権力の独占を背景に、特定の善の構想を押しつけることは許されるべきではない。

だが、改めて考えると、経済学的アプローチの前提には問題がある。ドゥオーキンは、芸術には、いわゆる公共財とよく似た性格があることを指摘する。ハイカルチャーが栄えると、文化全体がその恩恵を受けて栄えるという関係があるのであれば、芸術への支払いは、料金を支払った人以外にも利益を与えることになる。公共財の場合、市場による選択がうまくいかないことはよく知られている。

ただし、芸術支援の場合、公共財に対する通常のアプローチはあまりうまくいかなさそうだ。ドゥオーキンは3つ問題をあげている。

  1. タイムラグの問題: ハイカルチャーを援助することで文化全体が栄える場合、効果が出るまでに大きな時間がかかる。
  2. 不確定性の問題: どの程度の出費がどの程度の効果をあげるのか、大まかに予言する方法さえない。
  3. 一貫性の問題: 人々がどんな文化を欲するかを決めることは原理的に不可能である。

このうち一貫性の問題がもっとも深刻なものだが、一言で説明するのは難しいので、詳しく説明する。ドゥオーキンによれば、共同体の文化は、その成員の選好と価値観にあまりにも深く影響してしまうので、文化の選択を比較することは不可能だ。例えば、オペラという芸術形式が仮に存在しなかったとしよう。しかしオペラをもたない文化は、果たしてそのことを嘆くだろうか。彼らはもはやオペラ文化を構成していた概念や価値観を持たないのだから、その喪失を残念がることもないだろう。もし私たちが現在の芸術支援をケチれば、未来世代はオペラの喪失と同様の喪失をこうむるかもしれないが、それがどれだけの害になるのか、果たして害と言えるのかどうかすら明確ではない。

ドゥオーキンの言う困難は、比較不可能性の問題なので、もちろん〈芸術を支援すべきではない〉という結論が出てくるわけではない。問題はむしろ〈いくら払えばいいのか決定することは極端に難しい〉という部分にある。

代替案としてドゥオーキンが提示するのは、以下のような案だ。まず文化と芸術は、私たちの思考と価値観を構成するリソースであり、言語と同じようなものだ。それらが多様性や創造性を失なうことは悪いことだとは一応言えるだろう。また、これはパターナリズムではないという擁護は可能だ。多様性と創造性を保持することは、特定の選好を押しつけることではなく、むしろより選択肢を増やすことにつながるのだから、パターナリズムではないだろう。

ドゥオーキンの案は、それほど明確とは言えないが、以上のような発想のもと、芸術と文化の多様性と創造性を保持することを目的とした公金の投入は一定程度正当化されるだろうというものになる。