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しあわせ仮説

しあわせ仮説

しあわせ仮説

幸福に関する研究において、遺伝子が人の平均的な幸福水準に強い影響力を持つということに次ぐ大きな発見は、大半の環境的、人口統計学的要因は幸福にほとんど影響しないということである。
自分が以下のボブかメアリーのどちらかと入れ替わると想像してみよう。ボブは、35歳独身の白人で、魅力的なスポーツマンである。彼は、年収10万ドルで、陽光輝く南カリフォルニアで暮らしている。彼はとても知的であり、余暇は、読書をしたり博物館に行ったりして過ごしている。
メアリーは、夫と雪の多いニューヨーク州バッファローで暮らしており、二人の年収は合わせて4万ドルである。メアリーは65歳の黒人で、太っており、地味な外見だ。彼女はとても社交的で、余暇にはたいてい教会関係の活動をして過ごしている。彼女は腎臓に問題を抱えており、透析を受けている。ボブはすべてを持っているように見えるので、好んでメアリーとその夫の生活を選択する読者はほとんどいないだろう。
しかし、もし賭けなければならないとしたら、ボブよりもメアリーの方が幸福であるという方に賭けるべきだ
p.133

このあと、なぜボブよりもメアリーの方が幸福であるのか、種明かしが書いてある。
ボブがもっている性質は慎重に選ばれており、どれも見栄えはするが、本人の幸福についての意識に寄与しないものばかりである。
たとえば、(わたしはこれが一番意外だったが)、住んでいる場所や気候はほとんど影響しないらしい。温和なカリフォルニアの気候は幸福を約束しないし、厳しい冬も幸福の意識に影響を与えることはない。収入も、一定を越えてしまうとほとんど寄与しない。一方、メアリーは、地味だが、幸福感に寄与するような性質を持っている(それが何かは読んでのお楽しみということにしておこう)。
著者が丁寧に書いているように、われわれは自分の感情を予測することが下手である。収入が増えれば、気候が温和なら、社会的に成功すれば、きっとすごく幸福感を感じるだろうと考える。しかしそれは正しいとはかぎらない。人々が強く望んでいるものが、実際には、それほど大した満足感を与えないということもしばしば起こる。


この本は別に福利論とかそういうテーマを扱ってるわけじゃないし、幸福の定義については、わりと無頓着に見える。
しかし、著者が書いているように、収入や仕事による名声みたいな要素が、他人に負けまいという意識の上でのみ意味をもっていて、本人の幸福感にほとんど寄与しないのだとすれば、そういう欲求が置かれるべき位置はどこなのか。「成功したい」という欲求がかなえられるとき、その欲求の実現は、ほんとうに幸福に結びつくんだろうか。欲求の実現は、本当に幸福の構成要素なんだろうか。
幸福についての欲求(選好)充足説(幸福とは欲求の充足である)は、倫理学などではわりと人気のある説なのだけれど、この本を読んでいたら、一部は事実に対する偏見(メアリーよりもボブの方が幸福を感じている)にもとづいているのではないかという疑いがだんだんめばえてきた。もちろん、本当にそうかどうかはきちんと考えてみる必要があるけれど。


たとえば、著者が言うように、わたしたちがものすごく感情の予測が下手だということが事実だったとしよう。そのとき、考えないといけないことってすごくたくさんあるんじゃないだろうか。たとえば政治ひとつとってみても、われわれが望んでいることは、変な予測にもとづいているのだから、本当にそれを全部実現してもよいのかどうかはわからない。欲求をかなえることは、結局それは少しも満足感を与えないかもしれない。
もちろんそこで、「満足感なんてくそくらえ。本当に大事なのは、人々の欲求がかなえられることだ」という道を選ぶこともありえるだろうが、少なくとも、ここには、それなりに重要な対立点がふくまれているように思われるのである。