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道徳は規範的か

道徳的判断について、われわれはついそれを、規範的な主張であるかのように理解してしまうバイアスをかかえている。
たとえばわれわれは、道徳的判断を、人は道徳的に生きなければならないという、一種の「お説教」として考えてしまうことが多い。ここは個人的に誤解しやすいポイントなのだが、道徳的判断というのは、まずは形式的妥当性のレベルで正しいとかまちがっているものであると思う。少し自分の整理のために書いておこう。


道徳にまちがいや真理があるのかということを言う人がいるのだが、道徳的推論をあやまってる場合、基本的な推論やスケールをまちがってることが多い。以下の事例を考えよう。

郵便局員


太郎の母は子どもの生活を心配し、太郎が必要とするであろう食べ物などを送った。郵便局員が太郎に、母からの贈り物を届けてくれた。太郎は母からの贈り物を郵便局員自身からもらったような気分になり、郵便局員に負い目を感じる。


ここで太郎の判断は誤っているように思われる。確かに太郎には、郵便を届けてくれたことについて、郵便局員に感謝する理由があるかもしれない。しかし贈り物そのものについては、郵便局員に対する恩はない。恩を負うのは母に対してである。
さて、われわれがそのことを主張するとしよう。「なんとなく、郵便局員に恩があるような気がするかもしれないが、そうではない、本来の恩は母に対してのみ発生するはずである」と。
ところが、ここでよくある誤解が生じる。つい、「太郎は母に責務を負う」という主張を、「人はつねに道徳的でなければならない」という前提とセットで主張しているかのように錯覚してしまう。「さあ感謝しろ」と言っているのかと思ってしまうのである。
(自分はそんな錯覚をしないと思っている人は、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いについて考えてみてほしい。この問いに対して「なぜ道徳的でなければならないか」から答えようとしたあなたはこれと同じことをしている。われわれは「なぜ道徳的でなければならないか」に答えることなく、「なぜ人を殺してはいけないか」を説明できるはずだし、後者の問いについてだけ答える方がよっぽど簡単そうであるにもかかわらず、余計な問いに答えようとしてしまう)。


まず「郵便局員に責務を負うのか、母に責務を負うのか」という水準でのみ考えよう。本来言うべきことはこうである。「人がそもそも道徳的に生きる義務があるかどうか、責務をつねに果すべきかどうか、それはわからない。しかしとにかく、われわれの道徳がもつ形式にそって考えれば、贈り物を届けた人に対してではなく、贈り物を実際に贈った人に恩を負うのである」。
答えるべき問いがこういうものであるかぎり、「道徳に答えはない」などという意見は基本的にはトンチンカンなものだろう(それが適切であるような文脈もあると思うけど)。
答えはあるし、郵便局員に感謝しないといけないような気がしているのはかんちがいである。


太郎がどんな責務を負うかという問いや太郎にどんな道徳的義務があるかという問いは、「太郎はなぜ道徳的に生きるべきなのか」という問いとは基本的に関係ない。「何が道徳的に正しいか」という問いは、「そもそも道徳的に生きるべきか」からは独立に答えられる問題だからである。にもかかわらず、道徳について主張しようとすると、「人は道徳的に生きなければならない、このように生きなさい」という、一種の「説教」として理解するむきが多い。というか、われわれの多くはどうしてもそのようなバイアスのもとで考えてしまう(個人的な経験をふりかえると、「何が道徳的に正しいか」という部分が既知の内容だったりすると、「あ、形式的な問題を確認しているんだな」とスムーズに理解できるが、そこの部分にあまり考えたことのない内容が入っていると、もう、誤解コース一直線である。「なぜそんなことをしなければならないのか」と首をかしげはじめる。誰も「そうしなければならない」とは言ってないにもかかわらず)。
このタイプの錯覚はものすごくよく見られるものである。というか、基本的な倫理学や道徳哲学の訓練を受けていない人で、ここにひっかからない人をほとんど見たことがない。個人的にもすごくひっかかりやすい罠なので改めて気をつけたい。