読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

愛と同一性

理由と人格―非人格性の倫理へ

理由と人格―非人格性の倫理へ

パーフィット『理由と人格』の第十三章「重要なこと」にある愛の話がなかなかおもしろいので紹介がてらまとめてみます。


議論は、バーナード・ウィリアムズがあげたひとつのケースからはじまります。
ウィリアムズのケースでは、メアリ・スミスという人物の特定の時刻における複製がたくさん作成されます。メアリ・スミスの「レプリカ」たちは、メアリ・スミスの記憶や身体の正確なコピーを持ち、複製機によってオリジナルの脳と身体は破壊されてしまいます。レプリカはどれもメアリ・スミスであり、メアリ・スミスという人-タイプのそれぞれに異なったトークン(またはインスタンス)です。また、レプリカたちは、はじめは当然ながらよく似ていますが、しだいに異なった経験を持ち、異なった影響によってそれぞれに変わっていくことになります。
ここでウィリアムズは、二種類の愛を区別します。誰かがメアリ・スミスのレプリカの内のひとりを愛するとき、その人は、

  • レプリカがメアリ・スミス(の一人)だから愛するのかもしれませんし、
  • レプリカがメアリ・スミスの一人であるにもかかわらず、ただ一人のレプリカとして愛するかもしれません。


ウィリアムズによれば、前者のような愛を持つことは、個別のトークンであるレプリカではなく、メアリ・スミスの人-タイプを愛することである、とされます。このような愛を持つ人は、個別の演奏を通じて作品-タイプを愛するように、個別のメアリ・スミスのレプリカを通じてメアリ・スミスの人-タイプを愛します。
ウィリアムズはこのような愛が、われわれが普段愛と呼んでいるものとはきわめて異なっていることを問題にし、人を愛することは(誤解を招く表現ではあるものの)、その身体を愛することではないかと主張します。


一方、パーフィットはこの議論の前提を否定します。前者のような愛は、必ずしも人-タイプへの愛ではないからです。たとえば、誰かのメアリ・スミスへの愛が、複製以後、レプリカに移されるとしても、それは人-タイプへの愛ではないし、それゆえ人を愛することを、身体を愛することとして理解する必要はありません。
これを説明するために、パーフィットはウィリアムズがあげた元々のケースとは異なった状況を設定します。


こちらの世界では、人々はしばしば元々の身体と脳を破棄し、レプリカをひとつだけ作成します。人々は若返りのために複製を行いますが、それによって複数のレプリカが存在することはありません。この世界では、メアリ・スミスは、他の多くの人々と同様に、一年に一度自分を複製します。
この世界で、メアリ・スミスを愛する人は、メアリが複製を行なったあと、どう振舞えばよいでしょう。愛した人がかつて持っていた身体や脳はもはや存在しません。パーフィットによれば、この人は、継続してメアリのレプリカを愛するだろうし、愛すべきでもあります。
なぜならば、レプリカはメアリ・スミスであるからです。レプリカはメアリ・スミスの記憶、意志、欲求、性格を受けつぎ、メアリ・スミスとそっくりな身体を持ちます。これらが保持されることが人の同一性の保持における重要なことのすべてであり、複製は通常の生存と同じくらいよいものと見なされるべきだからです*。
従ってレプリカをレプリカとしてではなく、メアリ・スミスとして愛することは、人-タイプを愛することではなく、単にメアリ・スミスという個体を愛することです。
* この辺の人の同一性についての見解は、本の別の場所で議論されているので、ここでは単純に前提されています。


また、レプリカが複数存在する世界であっても、レプリカをメアリ・スミスとして愛することは、人-タイプを愛することではないように思われます。タイプは、数のような抽象的対象であって、永遠に存在します。もしわたしが人-タイプを愛することがあるとしても、タイプがわたしを愛することはありそうにありません。通常の愛は「共有された歴史」を重視するものであり、メアリ・スミスに対する愛も(たとえレプリカをメアリ・スミスとして愛するのであれ)、個別的な歴史を持った個別の個体を愛することであるように思われます。


以上のような反論により、パーフィットはウィリアムズの議論をしりぞけています。わたしもこの議論に基本的には賛成しますが、一方でパーフィットの反論は一部論点をずらしてしまっているのではないかとも思います。元々のウィリアムズの議論では、

  • レプリカをメアリ・スミスとして愛すること
  • レプリカをレプリカとして愛すること

という二種類の愛が区別可能であることが問題になっていたはずです。この内の前者は人-タイプに向けられた愛であるというウィリアムズの議論にはやはり問題があると思いますが、依然として、レプリカをレプリカとしてのみ愛することも可能であるように思えますし、パーフィットの議論では、後者のような種類の愛がどのように扱われるのかは不明なままです。
(パーフィットがあげたような一連の破壊-複製を繰り返すコミュニティでは、レプリカの1つをまさにその個別のレプリカとして愛することは想像しづらいですが、最初のウィリアムズのケースのように、複数のレプリカが存在する世界では、メアリ・スミスではなく、そのひとつのレプリカだけを愛することはありえるように思えます)。


ただし、この疑問に対する答えは、同じ章の後半の議論によって、答えることができるように思われます。再構成してみましょう。
パーフィットはそこで「心理的連結性connectedness」と「心理的継続性continuity」という二つの概念を区別します。

心理的連結性
記憶、意志、欲求、性格などの心理的要素を共有すること。例えば、現在のわたしは、一年前のわたしと、強く心理的に連結する。
心理的継続性
心理的連結の連鎖が存在していること。たとえば一日で記憶を失う人は、今日と一日前との連結、一日前と二日前の連結...などを持つことによって、一年前の自分との間に記憶の継続性を持つが、一年前の自分と記憶の連結性はほとんど持たない。


この箇所は、この本のなかでもとりわけ激しくSF的思考実験が出てくる部分なのですが、パーフィットは以下のような一連の世界を想定します。

分裂する人々
アメーバのように分裂することで繁殖する人々。定期的に二つに分裂することで増殖する。分裂した時点では心理的に連結するが、分裂を繰り返すことで、共有する部分が小さくなっていく。
分裂+融合する人々
春に分裂し、秋に融合することで繁殖する人々。
不滅の身体たち
複数の不滅の身体だけが存在し、その外見や心理は少しずつ変化していく。心理的連結性は、五百年程度で大部分失われる。


ポイントは、どのケースでも、分裂、融合、連続的変化を繰り返す一連の自己の内、心理的連結性を持つのはその一部分だけであるということです。これらの人々にとって、継続性を持った一連の自己のすべてを「私」と呼ぶことにはほとんど意味がありません。もし「私」をそのように使用するならば、例えば「私はかつてヒマラヤを探検した」という発言の「私」は、五十回分裂する前の自己を指すかもしれず、その頃の記憶や心理的要素はもはや何も残っていないかもしれません。従って、一定程度以上、心理的に連結した(心理的要素を共有した)自己のみを「私」と呼ぶことが便利でしょう。
この場合「私」や「その人」など、人を指す代名詞は、当該の人の一連の自己の内、ある基準以上心理的に連結した部分だけを指すことになります(基準となる連結性の程度や、どの心理的要素を重視するかは文脈によって変化する)。


驚くべきことに、パーフィットは、こうした用法はわれわれの世界にもあると言い、プルーストソルジェニーツィン(!)の引用を例証としてあげます。
一部だけ引用しますが、以下のような文章です。

新しい、なじみのない人物が彼女の夫の名前を持ってやって来るだろう。彼女は自分が愛し、十四年間閉じこもって待ってきた男が、もはや存在しないことを知るだろう


パーフィットの論旨にかかわらず、例としてあげられているのがすべて「愛」にかかわるものであることがおもしろいと思うのですが、例えば、愛した人があまりに変わってしまっために、「私の愛した人はもういない」と言うような状況です(あるいはこの愛を失えば、この私はもはや存在しないだろうという状況)。
また、パーフィット自身が例示するのは以下のようなケースです。

あるカップルにとっては、自分たちが互いを愛している(love)ということは明白かもしれない。しかし自分たちは今も互いに惚れ合っている(in love with)のかと自問すると、彼らは当惑するかもしれない。
(...)
彼らが一連の自己の間の区別をしたら、彼らの当惑は解消されるかもしれない。彼らは自分たちが互いを愛していて、互いの以前の自己に惚れているということがわかるかもしれない。


邦訳p.419 (ただし訳文は変更した)

パーフィットはこうした状況を例にあげ、ある種の感情の対象は、無時間的に考えられた人ではなく、人生のなかの特定の期間における人であるかもしれないと示唆します。
すなわち、愛の対象は、ある一定の基準以上の心理的連結性を持った、人の時間的な一部分であるかもしれません(あるいは、ある特定の一側面から捉えられたかぎりでの人ということになるかもしれません)。
もちろん、これらの引用は単なる文学的な比喩であり、文字通りに受け取るべきではないという反論は可能かもしれません。しかし、文字通りの意味でないとすれば、それはどのような意味なのでしょう。
たとえば正義感の強い検事ハーヴェイ・デントが、凶悪な犯罪者トゥーフェイスになってしまうなどの重大な変化があった場合(今日『ダークナイト ライジング』を観たので例にあげますが)、「わたしの愛した人はもういない」ということは、単に「ハーヴェイ・デントを愛する理由が失われたため、もう愛していない」という意味なのでしょうか。そう言い換えることで、重要なポイントが失われてしまうようにも思われます。ハーヴェイ・デントを愛するとか、反対にトゥーフェイスを愛するということは、人の無時間的な存在にかかわるというよりは、その人が偶然的かつ一時的に持っている性質や、時間のなかで形成された関係に深く依存するのではないでしょうか。愛の対象は、必ずしも、通常の意味での「人」ではなくてもよいように思われるのです。





この辺りはあまりうまく論証ができませんが、収集がつかなくなる前に話を戻します。メアリ・スミスのレプリカのひとつを、メアリ・スミスとして愛することと、まさにそのレプリカとしてのみ愛することは、パーフィットの枠組では、異なった対象を愛することであるという風に考えることができるように思います。両者はともに個別的な対象ではあるでしょうが、異なる文脈に基づき、異なる心理的連結性の基準によって、選び出されます。
あるいは、以下のような考え方もできるでしょう。普通の意味での愛が、パーフィットも指摘するように、共有された歴史を重視するとして、二種類の愛は異なった歴史に基くものであると考えられます。レプリカと共有された歴史こそが重要なものであれば、レプリカに先行するメアリ・スミスとしての過去はそれほど重要なものではなく、レプリカこそが愛の対象になるかもしれません。一方、メアリ・スミスと共有された過去こそが重要なものであれば、愛の対象はメアリ・スミスであるということになるかもしれません。