源河亨「何が知覚されうるのか―知覚経験の許容内容について―」

http://openjournals.kulib.kyoto-u.ac.jp/ojs/index.php/cap/article/viewFile/108/46
高次性質(種性質、美的性質、道徳的性質、不在・欠如など)の知覚についてのサーヴェイ。勉強になった。
高次性質の知覚が許されるかについてよく議論されるようになった背景。まず知覚可能性をしめすことによって、因果効力があること、世界の中に存在することをしめすことができるという関心もある。
また知覚の哲学の主流がセンスデータ説から内容説(志向説)に移ったことも関係している。センスデータ説はセンスデータが高次性質を例化しているという主張を認められないが、内容説の場合、高次性質の知覚に反対する理由はあまりない。
(1)低次説(高次性質は知覚できない説)からの議論
高次性質がちがっていても見かけが異ならないことがある(偽物のリンゴの知覚など)
従って高次性質のちがいは、見かけのちがいをもたらさない。見かけに高次性質は含まれていない。
→反論
問題となっている経験は、高次性質を例化しているかのような錯覚を与えているだけ。
低次説支持者はこれは錯覚ではないと反論するだろうが、低次説と高次説ではそもそも錯覚に対する基準が異なる。
(2)高次説からの議論
松を見わけられるようになると、林の中を歩く体験にちがいが生まれる。
この体験のちがいは、松性を知覚できるようになる前の松についての知覚経験と、松性を知覚できるようになったあとの松についての知覚経験のちがいである。後者にだけは松性の知覚が含まれている。
→反論
この体験のちがいは、知覚内容ではなく、信念のちがいである。見慣れた感じによるものである。注意の向け方のちがいであるなど。


こういう高次性質一般についての議論では決着がつかないのでそれぞれの性質についてもっと細かく見ていかないといけない。