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ネッド・ブロック「心的像についての議論における写真的誤謬」

http://philpapers.org/rec/BLOTPF
心の哲学における心的イメージについての論文なのだけど、ここで出てきた概念(コミット、明示的非コミット、暗黙的非コミット※)はその後描写/図像の哲学でも頻繁に用いられている。背景としては、心的イメージは言語的なものなのか、図像的なものなのかという議論が元々あって、そこでそもそも図像って何なのということが議論されたという感じ。
心の哲学から美学へとアイデアが伝わったわけで、こういう横のつながりはおもしろい。
※以前解説を書いたことがある。
http://d.hatena.ne.jp/at_akada/20140212/1392171817


争点になっているのは、図像の確定性。たとえば、言葉で「ここに三角形があります」と言うと、とくに角度について何も言っていないがとにかく何らかの三角形があると言うことができる。一方三角形の図像を描くと、二等辺三角形なのか、正三角形なのか、角度がどれくらいなのかが確定してしまう。このように図像は言葉と比べ、抽象能力が低く「余計なことを言ってしまう」ものだとされてきた。
このように、図像はすべての視覚的性質を確定させなければならないと考えるのが、ブロックのいう「写真的誤謬」。
(今はこれは否定して、図像には抽象能力があると考える人が多いと思う)


ここではデネットの心的イメージ批判の議論が批判されるのだが、デネットの議論は「シマウマの図像を描く時、描かれたシマウマに何本のシマがあるのかは確定している。しかし我々がシマウマをイメージする時、シマの数が確定しているとは限らない。従って心的イメージは図像より言語的記述に近い」といった感じ。
これに対しブロックは、暗黙的非コミットなどの概念を用いて、図像は確定しないものを描くことができると反論している。
なお、図像がしばしば余計なことを確定させてしまうのは必然的でないとしても正しいし、シマウマのシマの数を曖昧にして図を描くのは実際難しいだろうが、ブロックによれば、図像が不確定な描写を行なうには関連する慣習が必要とのこと。たとえば慣習のおかげで新聞紙の上にぐちゃぐちゃという線が書いてあればそれは文字が書いてあるという意味になり、そこに何文字書いてあるかは確定しない。