Matthew Kieran「スノッブの悪徳: 美的知識、正当化、芸術評価の徳」

Matthew Kieran, "The vice of snobbery: Aesthetic knowledge, justification and virtue in art appreciation"
Philosophical Quarterly 60 (239):243-263 (2010)

http://philpapers.org/rec/KIETVO
http://www.matthewkieran.com/storage/writing-work/SnobberyKieran.pdf

昆虫亀さんおすすめの一本。おもしろかった。
スノッブな判断は美的判断とその内的正当化を破壊する。しかもスノッブの厄介な点は適切な美的判断とスノッブなそれを区別するのがとても難しいことにある。自分がスノッブでないと知るのも難しいし、そもそもアート界隈なんてスノッブばかりだ。そこで美的評価の「徳」に訴えて、スノッブな判断と適切な美的判断を区別するよう試みてみよう、という論文。
出てくるスノッブの事例がおもしろく笑ってしまうが、夢論証によく似た懐疑論のバリエーションになっており興味深い。徳の概念がいいのかどうかはよくわからないが、単一の判断だけを見てスノッブかどうかを判別するのは無理で、長期的なふるまいを見たり、仮想的な状況に置いてみないとだめだというのはよくわかる。


以下要約。事例がおもしろいのでやたら詳細になってしまった。
Aさんはillyのコーヒーを良いと思っており、スターバックスを避け、illyのコーヒーを出すカフェにしか行かない。これだけではまだスノッブではない。ところが、Aさんがillyを評価するのは、コーヒーの味のためではなく、特定のブランドを好むことで自らの社会的地位を高められるからなのだ。これがスノッブ
スノッブな美的判断は、美的判断に関連しない社会的要因(自らの社会的地位を他の人やグループより優位におくこと)に動かされている。時にはその判断が正しいこともあるが、問題は、その正当化の部分にある。スノッブな判断の原因(自らの社会的地位を高めたいという欲求)は、スノッブな人の反応を説明するが、正当化しない。スノッブ性は美的評価とその正当化を汚染するのである。


スノッブの問題はスノッブな評価と適切な美的評価の区別が難しいことと、スノッブが氾濫していることだ。スノッブはアートの風土病みたいなもので、ギャラリーでもどこでも社会的地位を競い合っているし、「これはアリか?ナシか?」みたいな話ばかりしている。トークショーで、あるポップバンドとそのファンについてほのめかすと、聴衆からクスクス笑い声がもれる。そう、彼らは自分をこのバンドのファンよりも優位に置いているのだ
こうした現象の一部には、社会的地位や同一化を巡る心理学的説明が与えられるだろう。人間は社会的な動物だ。


しかし美的領域がここまでスノッブに弱いこと、内省だけではスノッブでないという保証ができないことにはどんな説明が考えられるだろう。
美的判断の場合、評価は内的な快に結びついている。快をもたらすということは、作品をポシティブに評価するための訂正可能な理由を与える。ところが、快が美的な特徴に由来するのか、それとも偏見から来るものなのか見分けるのはとても難しい。
例えば単純接触効果というものがあって、私たちは(自覚なく)見慣れたものを高く評価する傾向がある。芸能人格付けチェックみたいな実験がいろいろあって、白ワインを赤く染めてもかなりの人が気づかないし、ボトルを変えただけで味に対する判断は変わる。こうしたサブパーソナルな効果を内省で見分けるのは無理だ。
また、他人の美的評価が適切なものかどうかをチェックする公的な基準もない。数学や哲学と比較してみよう。愚かなフレッドは数学ができれば女子に受けると思っており、モテたいがために数学の勉強をがんばっている。フレッドが数学をする究極の目的は彼女をつくることだが、別にそのせいで数学の知識を得られないということはない。フレッドの数学上の判断は、純粋に数学が好きな人と同様に適切な理由に基づいている。美的領域ではこういうわけにはいかない。


美的判断にスノッブがもたらす挑戦はもっと根本的なものだ。もし私たちがスノッブな判断をしているのであれば、内的な正当化は欠けており、美的知識を得られる正当な立場にはない。しかも自分がスノッブでないかどうか知ることは難しい。つまり、任意の美的判断について、私たちにはそれが正当化されているのかどうか知ることができない。
美的知識に、内的正当化が必要かどうかは意見が分かれるが、もし必要だとすれば、以下のような論証が得られる。
# 以下は説明しないとさっぱりわからないと思うが、どれくらい説明するものか悩む。一般的な懐疑論の議論とほとんど同型なのでそれを調べてもらえばいい気もする。

閉包原理より

  • (c): ¬K(Kp)

KK原理が成り立てば以下も成り立つ。

  • (d): ¬Kp

直観的な説明:
「(a)もしスノッブなら美的知識がないと知っている」「(b)自分がスノッブではないとは知らない」の2つを仮定しよう。
もし私たちが自分に美的知識があると知っているなら、(a)より自分はスノッブでないことも知っているはず。でもこれは(b)と矛盾するのでこの仮定はおかしい。
よって仮定があやまりで、私たちは、自分に美的知識があるとは知らないはず。これで自分に美的知識があるかどうかわからないという高階の懐疑論が成り立つ。
ここで、もし、「「知っていることを知らない」なら、そもそも知らないんじゃないの」という原理を採用すると、そもそも私たちは美的知識を何ら持っていないという普通の懐疑論になる。


これは美的知識についての懐疑論だ。これを回避するためには、美的正当化がどういう条件で得られるか考える必要がある。


ここで徳の概念に訴えてみよう。徳ある行為は以下の三つを要求する

  • 1.何をしているか知っている
  • 2.徳ある行為それ自身のためになされる
  • 3.性格の安定した傾向より生じる

重要なのは2で、評価の徳を持つ人は、作品を評価の対象たらしめる特徴に動機づけられる。スノッブは別の関心(社会的地位)に動機づけられるから、スノッブには評価の徳が欠けている。スノッブな判断は美的価値ではなく、社会的威信を追うので、美的価値と社会的威信が分かれる状況では、社会的威信の方を選ぶ。スノッブは単に徳が欠けているだけではなく、美的判断についての誤った考え方に従うから、悪徳と呼べる。
また、スノッブの誤った動機は、スノッブがしばしば臆病、閉鎖的、陳腐などの別の悪徳と結びつく理由も説明する。


以上のように、徳の理論を立てるとスノッブがなぜ非難されるかをうまく説明できるが、徳ではなく、信頼性説を取ってもよいのではないかという反論もあるかもしれない。信頼性説によれば知識は信頼できる(安定して真なる信念を産出する)プロセスによって産出される。スノッブな判断は偶然正しいこともあるが、信頼できないプロセスによって産出されているからだめなのだと考えられないだろうか。
しかし信頼性説だとうまくいかないケースがある。戯画化されたシアトルを考えてみよう。このシアトルは優れた芸術家や批評家が集まる町だ。シアトルに集まる人々は皆よい趣味を持っている。シアトルのスノッブは、優れた批評家に従うことで、安定して、適切な美的判断を産出する。シアトルという環境にあるかぎり、スノッブな人の判断は信頼できるプロセスに基づいている。
つまり信頼性説によれば、シアトルのスノッブは適切な美的判断をしていることになる。これは架空の状況だが、実際ブランドや希少性や値段を参照すれば、スノッブでも、安定した正しい美的判断を生み出せるかもしれない。
しかしこのケースでもスノッブにはやはり問題がある。こういうケースでは、徳理論の方が、信頼性説よりも、スノッブの悪さ(つまり動機がまちがっていること)をよく説明できる。


以上のようにスノッブは美的正当化の認識論に根本的な挑戦をなげかけるが、徳理論に訴えることで、スノッブの悪さなどをうまく説明できる。現代美学ではあまり注目されてこなかった性格や徳にもっと注目すべきだろう。