森功次「ウォルトンのフィクション論における情動の問題」

http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/handle/2261/51237

  • 1. ごっこ遊び
  • 1.1 「ごっこ遊び」概念のポイント
  • 1.2 「ごっこ遊び」概念の意義と問題: 快、遊び、参加
  • 2. ゲームワールド
  • 2.1 ゲームワールドと作品世界
  • 2.2 世界共有という考え方に関する誤解
  • 2.3 ゲームワールド概念は、鑑賞における読者の参加構造を説明するための概念である。
  • 3. 準情動
  • 3.1 フィクション作品体験における情動のパラドックス
  • 3.2 準情動と、その種別化プロセス
  • 4. ウォルトン理論の問題: 準情動と、虚構上の真理との齟齬
  • 4.1 ウォルトンの情動種別化プロセスが持つ問題
  • 4.2 チャールズの犯した二つの不合理性: 志向対象の導出と、情動の種別化
  • 4.3 ウォルトンのプロセスがはらむ、もうひとつの問題: 情動の種別化における拵えもの性の認識
  • 4.4 情動的反応の記述がもつ、もっともらしさ

ウォルトンの「フィクションを怖がるFearing Fictions」に対するその後の批判をまとめているものは無いかなと思ったところ、昆虫亀さんが書いてたので読んだ。
個人的には、ウォルトンって、何度読んでも(というほど読んでないが)ぴんとこない部分があって、ごっこ遊びモデルでフィクションを説明すると言われても、それが何のための「モデル」なのかよくわからないのが気になっていた。ただ最近は、ごっこ遊びのモデルは、説明や正当化にかかわるというより、ヒューリスティックスに属するモデルと考えた方がいいのかなと思ってきている。特にフィクションに関する鑑賞者の「参加」の水準に注目するための概念なのだろう。
この論文では、前半でウォルトン理論のポイントを解説し、よくある誤解を正してくれている。

というのも、ウォルトン理論の主眼は、ごっこ遊びと再現体験が似ているという主張にあるのではなく、そこに到るまでの様々な主張をすることにあるのであって、その目的はほぼ達成されており、またそこから作られた理論には十分な利点が認められるからだ。p.51

という記述を見ると、やっぱりヒューリスティックスなのかなという気がしてくる。個人的には「ごっこ遊び」という語はあまり使いたくないので、言い換え語を探したいと思っている。


後半は、フィクションのパラドックスに関するウォルトンの議論の紹介と批判。

  • チャールズは映画に出てくるスライムを怖がる。
  • ところがチャールズの恐怖が本当の恐怖であるためには、チャールズはスライムの存在を信じていなければならない。
  • しかしチャールズはスライムの存在を信じていない。

以上の3つをすべて認めると矛盾が生じるというのが、フィクションのパラドックスと呼ばれる問題。
これに対し、ウォルトンは、恐怖の感情が身体的な反応(準恐怖)と、信念のふたつからなることを指摘し、さらにチャールズの恐怖は、「スライムがむかってくる」というフィクションのごっこ遊びにおける信念に基づいていると考える。

  • 普通の恐怖 = 信念(危険の認識など) + 動悸などの身体的反応
  • 虚構の恐怖 = 虚構における信念 + 動悸などの身体的反応

つまりチャールズの恐怖は、虚構の信念に基づく感情なので、虚構における恐怖であると考えるわけだ。チャールズの恐怖はごっこ遊びゲームの一部であり、現実世界における文字通りの恐怖でないことから、パラドックスを回避しようとする。
鑑賞者の感情のようなものも、ごっこ遊びの一要素であり、フィクション受容のためのひとつのファクターであると捉える発想になっていて、これはこれでおもしろいと思う。


森さんはこれに対し、二つの批判をしていて

  • 1. ひとつめは、チャールズの身体的反応は虚構の信念だけではなく、音楽や映像技術が引き起こしたものでもある。従って、それを恐怖と分類すること自体が恣意的なのではないかということ
  • 2. もうひとつは、フィクション作品が拵えものであることによって、情動の種別が変わりうるのではないかという指摘。

1については、音楽や映像は、フィクションから独立に感情を喚起するというよりは、フィクションにおける「スライムがむかってきて危険だ!」という状況認識を強める働きをしているという風に考えられないかと思った。そう考えるなら、たとえ音楽によって感情的反応が強められるとしても、恐怖が特定の信念に基づいていることを否定する必要はあまりないのではないか。