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伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へテヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

あまりまとめられないのでざっくりと。

  • 絵に描かれたキャラクターについて考えてみましょう。
  • 絵と設定だけでも何となく存在感がありますし、こういうものはストーリーと切り離されたところでも消費や受容の対象になることがあります。
  • こうしたキャラクター表現は元々マンガが持っている表現手法のひとつです。
  • ただ、マンガがリアリズム的な手法を採用するにつれ、そうしたキャラクター表現の可能性は無視されてきました。
  • しかしそうした表現は最近復活し、作品を越えてキャラクターを単体で受容したり、そういう消費のあり方を助長する作品がたくさんあります。


「キャラ」という言葉は以下の二つくらいの意味で使われていると思う。

  • 1.(潜在的にはすべてのマンガ表現に備わっている)キャラクターを絵で描くことで可能になる機能・表現
  • 2. 特定の描かれ方、特定の消費の仕方がされているキャラクター

2は1の機能を発揮することで成り立っているのでもちろん関係はある。しかし「アトムというキャラクターを表現すること」と「アトム」を一緒にしてはまずい。


例えば、まず「キャラ」はマンガ表現の主要な構成要素とされる(「キャラ」「コマ構造」「言葉」p.66)。

以下が「キャラ」の定義ということになっている。

多くの場合、比較的に簡単な線画を基本とした図像で描かれ、固有名で名指されることによって(あるいは、それを期待させることによって)、「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの。

p.95

この辺りの使い方だと、限定はあるが、基本的にはキャラクターを絵に描くことで可能になる表現が問題になってるのだろうと思われる。
そもそもマンガ表現の主要な構成要素であるとされているので、ほとんどのマンガが用いているものとして考えないとおかしい。


ところが以下のような文言が出てきてしまう。

耳男は、まず「キャラ」として現れ、作品が幕を閉じるとともに「キャラクター」になったのだ。

p.125

では、耳男の「死」によってもたらされたものとは何か。
それは、「キャラ」の強度を覆い隠し、その「隠蔽」を抱え込むことによって「人格を持った身体の表象」として描くという制度だと考えられる。マンガ表現は、耳男の「死」とともに、プロトキャラクター性の強度を見失ったのである。

p.141


これらの文は「キャラ」を「コマ構造」や「言葉」と並列なものと思って読むとおかしい。
好意的に解釈できないわけでもないが、少なくともこれは手塚治虫のストーリーの文学的な解釈(亜人間の悲しい運命とキャラクター表現の無視を重ね合わせるようなそれ)であって、キャラ表現の分析ではない。


ただ以下などはキャラ表現の分析かもしれない。

ここでは、キャラが単純な線画で構成されていることが逆手に取られる。耳男はウサギである。顔には白い(おそらくは白であろう)毛が密生しているはずだ。
もしここに少しでも写実的に身体を想像させるものがあったならば、この場面は成立しない。

p.135

耳男の「死」が衝撃的たりえたのは、その「死」が「もっともらし」かったからではなく、キャラが「かわいかった」からである。

p.137