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Timoty Williamson『哲学の哲学』6章「思考実験」

The Philosophy of Philosophy (The Blackwell / Brown Lectures in Philosophy)The Philosophy of Philosophy (The Blackwell / Brown Lectures in Philosophy)

前回
http://d.hatena.ne.jp/at_akada/20140329/1396092336

6章を読んだ。

感想:
双子地球みたいな奇抜な思考実験など使わなくても研究はできるという哲学者はいるだろうが、事例(具体例)を使うなと言われると、大半の(分析)哲学者は何もできないのではないかと思う。
「意図せず道徳的に悪いことをしてしまうことがある」とか「存在しないものが見えることがある」とか、ちょっとした主張でさえ、どうすれば具体例なしに議論できるのかわからない。
この意味で事例の方が思考実験よりはるかに重要だが、Williamsonは事例と思考実験をあまり分けていないようだった。これは多分あげている例がゲティアケースであるせいもあるだろう。Williamsonも書いてる通りゲティアケースは現実に実現することもそれほど難しくないため、いわゆる典型的な「思考実験」のように、そもそもの実現可能性が問題になることもない。
(ちなみに私は事例の内で変わった設定のものを「思考実験」と呼ぶのだと思っていたが、そもそもこの理解に問題があるのか?)
そういうわけなので、本章の議論は、特殊な思考実験だけではなく、想像上の事例すべてに当てはまりうるものだと思う。具体例を検討することは、哲学の場合、単に説明をわかりやすくするだけではなく、正当化や説明の役割も持っていると思われるし、そうした説明役割の分析としては納得いく部分も多かった。


以下まとめ。また長くなってしまった。
節タイトルは適当に付けた(私が勝手に考えたものなので注意)。

  • 1 序
  • 2 ゲティアケースの論理的構造
  • 3 ゲティアケースと反事実的条件法の認識論
  • 4 反事実的条件法の形式化にかかわる問題
  • 5 反事実的条件法の種類にかかわる問題
  • 6 様相の種類にかかわる問題


本章では、5章の反事実的条件法と形而上学的様相の認識論を使って、思考実験について論じる。
思考実験は安楽椅子哲学の方法論の中でももっとも疑わしいものである。しかし思考実験に特別な哲学的能力のようなものは必要ない。思考実験に必要なのは、想像など日常的な認知能力の使用である。
本章では思考実験の典型例としてゲティアケースを取り上げる。なぜゲティアケースを取り上げるかというと、もし成功した思考実験があるとすればゲティアケースこそそれだというほどの成功をあげたからである。権威ある哲学理論を、何の権威も知名度もないゲティアの短かい論文が一夜にして葬りさったのは驚くべきことである。
この章では、ゲティアの思考実験の論理的構造を分析する。それは他の思考実験にも一般化されうるものだが、そのためにはこれ以上の研究が必要である。
またもうひとつの目的は、思考実験の認識論を反事実的条件法の認識論と形而上学的様相の認識論に組み込むことである。


ゲティアケースは、以下の哲学的理論の反例として提出された。

何かを知ることの必要十分条件は、それについて正当化された真なる信念を持つことである。

たとえば、私は今日太郎が会社にきていることを信じている。それには根拠があり(正当化されており)、それは真である。このとき私は今日太郎が会社にきていることを知っている。


ゲティアケースの例

太郎は古本屋から高値を出して、かつてヴァージニア・ウルフが所有していたという本を購入した。太郎は「自分がかつてヴァージニア・ウルフが所有していた本を持っている」と信じている。さらにそれには古本屋の証言という根拠もある。
ところが、この古本屋は詐欺師であり、この本はヴァージニア・ウルフとは何の関係もないものだった。
もしもこれだけであれば太郎は正当化された偽なる信念を持っていることになる。ところが、太郎の蔵書の内、古本屋から買った件の本と別の本が、偶然にもヴァージニア・ウルフがかつて所有していたものだった。つまり、「自分がかつてヴァージニア・ウルフが所有していた本を持っている」という太郎の信念は、(その根拠とは特に関係なく)真なのである。

このとき、太郎は正当化された真なる信念を持っている。にもかかわらず、太郎が「自分がかつてヴァージニア・ウルフが所有していた本を持っている」と知っているとは言えない。

ゲティアの議論を、思考実験なしで組み立て直すこともできるが、その場合、十分なサポートをえられない一般的な言明に頼ることになってしまう。
例えばゲティアは正当化された偽なる信念があると仮定しているが、具体例なしにどうやってこれを知るのか? 議論に必要なのは、一般的な主張ではなく、むしろこれが成り立つような特定の事例である。議論は、個別例から、それを説明する一般原理へ進むというアブダクション的なものになっている。



Williamsonはゲティアケースによる議論の論理構造を以下のように分析する。
以下「xがpという正当化された真なる信念を持っている」を「JTB(x,p)」、「xがpについてゲティアケース的な状態にある」をGC(x,p)と書く。
まずゲティアケースは以下の正当化された真なる信念(JTB)説への反例である。

(1)JTB
必然的に、xがpを知っている iff JTB(x,p)

次に、ゲティアケースは可能である。

(2)
GC(x, p)は可能である

さらにもし仮にゲティアケースがあれば、それはJTBでありながら知識ではない事例を生み出す。

(3*)
もし仮に、GC(x, p)ならば、JTB(x,p)かつ¬K(x,p)


このとき、(2)と(3*)から以下を推論できる。これは(1)と矛盾する。

(4)
JTB(x,p)かつ¬K(x,p)は可能である

ポイントの1つは(3*)が反事実的条件法になっていること。ここで以下のように厳密含意で定式化するのはまずい。

(3)
必然的に、GC(x, p)ならば、JTB(x,p)かつ¬K(x,p)

そこまで強い主張は必要ないし、ゲティアケースのような事例は例外を許容する。事例は完全に細部まで記述されているわけではないので、例えばゲティアケースではあるが、悪い科学者が推論を妨害するなどのような例外を考えることはできてしまう。例を評価する際は、普通そうしたおかしな可能性を持ち込まずに考える。


大前提(3*)は反事実的条件法なので、それを評価するにあたっては日常的な反事実の評価と同じように想像が用いられる。私たちは周囲の人々について、知っている知っていない、正当化されているされていないを分類する能力を持っている。(3*)の評価は、この能力のオフラインの適用に基づいてなされる。
小前提(2)は可能性の主張である。ゲティアケースの場合は特に問題にならないが、SF的な思考実験の場合、そもそもそれが可能かどうかが問題になる。
ゲティアケースで問題になっているのは、知識の有無を分類する能力である。(3*)の認識はアプリオリでもアポステリオリでもない。知識や正当化の概念を持っていれば即座に出てくるような判断ではない。私たちは、特定の事例について、正当化されているかどうか判別するスキルを過去の経験から学ぶ。ここではこのスキルを使っているが、これは過去の経験からの帰納でもないし、通常の知覚経験による知識でもない。
ゲティアケースは現実につくることもできる(Williamsonは授業で実際にゲティアケースを再現した例を紹介している)。現実のゲティアケースも同様に反例として機能する。そうした意味でも、実生活における判断と、思考実験の判断に違いがあるわけではない。


ゲティアケースは、形而上学的可能性に関わる。Williamsonによれば、ゲティアケースの思考実験は知識なしの正当化された真なる信念が形而上学的に可能であることを示す。
ここでWilliamsonはゲティアケースは「概念の様相」に関わるという対抗仮説を検討している。
しかし概念の様相における反事実的条件法とは何かというのはよくわからない。また、認識論の関心は知識の本質であって、知識概念の本質ではない。重要なのは、知識が正当化された真なる信念かどうかであって、両者が概念的に同一かどうかではない。
(概念的様相とか概念的な同一性ということで何を考えているのかはわかりにくいが、概念的な同一性は意義の同一性を含む強い意味での同一性のようだ)。


同様に、思考実験は認識様相に関わるという主張にも問題がある。Xについての信念の認識論を通じてXの本質を探求するということはできるだろうが、もっと直接的なアプローチも可能である。哲学者の関心は常に認識論にあるわけではない。