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Alon Chasid「図像的関係はなぜ指示ではないのか」

http://philpapers.org/rec/CHAWTP
この人イスラエルの人だな。イスラエルって分析美学さかんなのかな(そんなことないか)。

  • 1. イントロダクション
  • 2. グッドマンのテーゼ
  • 3. 図像と美的性質
  • 4. 第三のテーゼ
  • 5. 反論の否定

絵や写真は、何かの絵や写真である。では何かの絵や写真である(何かと図像的関係にある)とは、どういう関係にあることなのか。
グッドマンによれば、図像的関係は指示すである。言語が対象を指示するように、図像も表象システムの恣意的なルールに基づいて対象を指示する。グッドマンによれば、適切なルールさえあれば、いかなる絵がいかなる対象を指示することもありえる。
このグッドマンの立場はこれまでさんざん批判されてきた。Chsidは批判を三つのグループにわけている。
1. 直観に反する。
多くの人は図像が対象に似ていると考える。グッドマンの立場は常識と相容れない。しかし、これは致命的な批判にならない。グッドマンはこの「似ている」という素人の直観を、別の理由によって説明することもできるだろうし、少なくとも素人がそう思うこととグッドマンの立場が矛盾するわけではない。


2. 十分ではない
グッドマンが考えた図像的表象システムのルール(稠密性、相対的充満)に対し、様々な反例があげられた。しかしこれは致命的な批判ではない。グッドマンは図像的表象システムの特徴を取り下げても、図像的関係は指示であるというメインのテーゼを取り下げる必要はない。


3. グッドマンのテーゼと矛盾する例をあげる
グッドマンの中心的テーゼと矛盾する図像の特徴をあげるというタイプの批判もある。これがもっとも致命的な批判である。


ウォルハイムの「移送」による批判。
犬の絵の見方を知っていれば、猫の絵も象の絵も蛇の絵も理解できる(猫や象や蛇の姿を知ってさえいれば)。
言語の場合、新しい表現を理解するためには、新しい語彙を覚えなければならない。この点で、言語的記述と図像は大きく異なる。


再反論:
図像は、語彙の少ない言語的記述に似ている。色や形といった非常に少ない語彙しかないため、一つの図像を理解すれば容易に他の図像も理解できるようになる。
このような反論がありえるため、これも致命的ではない。


Chsidは、第三のカテゴリーに分類される新しい批判をあげる。それは、図像によって、表現される美的性質を用いた批判である。
Chsidの批判は3つのテーゼからなる。最初の2つは、図像の一般的特徴についてのテーゼである。
テーゼ1. 図像は普通対象が何らかの美的性質を持つことを描写する。

顔の絵は、きれいな顔やいかめしい顔、整った顔などを描くことができる。美的性質に触れない絵もあるかもしれないが、普通は何らかの美的性質を持ったものとして対象を描く。


テーゼ2. 図像は普通、対象が何らかの美的性質を持つという美的判断に関わることで、対象が美的性質を持つことを描写する。
言語的記述の場合、例えば「壮麗な城」という記述は美的性質を帰属するが、美的判断には関わらない。私たちは、この「壮麗な城」という記述が壮麗さを指示する、ということを知るのに美的判断をする必要はない。
こういう指示の仕方は図像にはできない。例えば壮麗な城の絵は、何らかの非美的性質を持った城を描き、私たちはそれをもとに美的判断をし、結果として城に壮麗さを帰属する。図像的な美的性質の描写には、美的判断が必要なのである。


Chsidによれば、三つ目のテーゼは描写の理論によって異なるテーゼである。ここでの目的はグッドマン批判なので、グッドマンバージョンのテーゼを用いる。
テーゼ3. 図像と対象の美的性質の関係は指示である。

図像が対象の美的性質を描写するとしよう。対象の美的性質はその場合、図像の描写内容のひとつである。グッドマンによれば、図像による描写は指示なので、美的性質も指示される。


ところが、テーゼ2とテーゼ3は矛盾する。もし図像が恣意的なルールによって美的性質を指示するとすれば、美的判断は必要ない。私たちは単に表象システムのルールを適用すればいいだけである。
グッドマン以外の立場だと、この点はさほど問題にならない。例えば、描写が特殊な視覚経験(内に見る[seeing-in])に基づくとしよう。図像が美的性質を描くのは、鑑賞者が美的性質を図像の内に見るときである。この美的性質を内に見ることが、美的判断を必要とすると考えることには特に問題はないだろう。
従ってこの点は、グッドマンの中心的テーゼの致命的な問題なのである。


メモ:
著者は、図像が美的性質を描写する(美的性質が図像の内容に含まれる)ということを主張しているが、そこには疑問の余地があるように思う。
例えば、座り込んだ人物を描くことで、「絶望」を表現するとき、絶望が描写されると考える必要はない。絶望は表現されているが、描写されていない。
美的性質もそれと同じように考えられないか。
著者はこの点について、美的性質の描写を認めない理由は、グッドマン理論と矛盾する以外にあるかどうか疑わしいとしている。もし美的性質が図像の内容から除外されるなら、図像の使用に関する多くのものが冗長になる。なぜならば、美的側面を経験することは、図像を描写する目的のひとつだからという。
この議論に説得力があるかどうかわからないが、とりあえずメモしておく。