完全な人間は毎日同じメニューを食べる

「完全な人間は毎日同じメニューを食べる」を擁護する論証を考えたので書いておきます。

前提1. 完全な人間は、完成されて以降のどの時点においても完全である。

完全な人間は常に完全である。ただし完全な人間といえども、未完成な状態から完成にいたることはあるかもしれない。しかしこの前提は完成の可能性を排除しない。
この前提が排除するのは、完全な人間が完成されて以降に、不完全に戻る可能性である。不完全に戻る人間は完全ではない。これを支持する簡単な論証は以下の通りである。
まず、完全な人間よりも完全である人間は可能ではない。これは完全の語義よりただちに帰結する。
一方完全な人間xが不完全に戻ることがあると仮定する。
ところが、不完全に戻ることのない完全な人間yは可能であり、yはxよりも完全である。
よって仮定は誤りである。

前提2. 完全な人間は完全なメニューを食べる。

これは前提1の帰結である。完全な人間xが完全でない、例えば栄養に偏りのあるメニューを食べると仮定する。このとき、xは偏りを取り戻す別のメニューを食べるまでの間、栄養の面において不完全である。このことはxがある時点において、少なくとも栄養の面で不完全であることを意味する。
従って前提1より、xは完全な人間ではないことになる。よって仮定は誤りである。

前提3. 完全なメニューは高々一つしかない。

これは最も異論の余地のある前提である。等しく完全である多様なメニューはなぜ存在しないのか?
これを擁護するための論証は以下である。
まず等しく完全な複数のメニュー、x1, x2,…, xnがあると仮定する。
ここでx1, x2,…, xnから少しずつ食材を集めてつくった新しいメニューyを考えよう。yをつくる際われわれは栄養のバランスや味などを、従って完全性を崩さぬように食材を集める(これが不可能であるという反論については後述する)。
このとき、新しくできたメニューyは、x1, x2,…, xnのいずれよりも多様なメニューであり、多様性の面においてより完全である。
これは完全性の語義に反するため、仮定は誤りである。完全なメニューは高々一つしか存在しない。


ただし以下のような反論がありえるかもしれない。完全なメニューのいくつかは全体として創発的な性質を持っており、従って完全なメニューの完全な部分を取り出すことはできないと。これが不可能であれば、われわれの新しいメニューyの作成は不可能である。
残念ながら、この創発性による議論への有効な反論は思いつかなかったが、部分に還元できない食物の創発的性質という観念はミステリアスであることだけを指摘しておきたい。
また、もし完全なメニューが複数あるとしても、毎日違うメニューを食べることは不合理であると指摘できるかもしれない。毎日異なる完全メニューを食べることは、完全な人間に余計な悩みをもたらすかもしれない。

前提4. 完全なメニューは存在する。

これを支持する論証はない。あっても良いと思うが、残念ながら論証は思いつかなかった。
しかし、以下のように考えることができる。もし完全なメニューが存在しないとすれば、前提2より完全な人間も存在しない。従って、完全な人間が存在しないと考えるものは、この一連の論証全体を、「完全な人間が存在すれば成り立つであろう論証」として読むことができる。

結論: 完全な人間は毎日同じメニューを食べる。

前提3と前提4より、完全なメニューはちょうど一つしかない。前提2より、完全な人間は完全なメニューしか食べない。
以上より、完全な人間は毎日毎食同じ完全なメニューを食べるのである。


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