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Gregory Currie『物語と語り手』の性格懐疑論

Narratives and Narrators: A Philosophy of StoriesNarratives and Narrators: A Philosophy of Stories

ちょっとずつ読んでいた『物語と語り手』、途中を飛ばして一番気になっていた性格懐疑論の箇所を読んだ。
「性格character」とは個人の固定的精神的特徴のことを指す。普通に日本語の「性格」でいいけども、もう少し広く、パーソナリティ一般と言ってもいいかもしれない。
議論の背景はこうだ。近年の社会心理学の研究は、人間に固定的性格なるものがあることを疑問視する。これを受けて倫理学の方では、性格なるものが無いとすれば倫理学にどんな影響があるか議論が盛り上がっている(らしい)。とりわけ困るのは徳倫理学だ。人間に固定的性格が無いとすれば、徳倫理学の仮定する徳ある性格も無いかもしれない。
Currieはこの議論を美学に持ち込んだ。物語は人物の性格というものに大いに頼っている。もし性格なるものが無いとすれば、物語は私たちの誤謬を助長するだけで、人間精神に洞察を与えることなど望めないのではないか。
なおCurrieの言う「物語」はフィクションであれ、ノンフィクションであれ、とにかく何らかのストーリーを語る言説のことだ。
(ライフストーリーのようなものについて言えば、Currieは人生は物語ではないと考えるが、人生を一種の物語として表象することはCurrieの議論の射程に含まれている)

  • 10. 物語と性格
    • 10.1 予備的考察
    • 10.2 性格に関するいくつかの主張
    • 10.3 物語が性格のためにすること
    • 10.4 性格が物語のためにすること
    • 10.5 性格と批評
  • 11. 性格懐疑論
    • 11.1 性格に反対する事例
    • 11.2 反論
    • 11.3 物語における性格の役割
    • 11.4 考察
  • 補遺 性格と虚偽のコスト

10章の議論

私たちは、行為から意図を推測し、意図から性格を推測する。推測された性格は、引き続く意図や行為を説明することで正当化される。性格は単なる規則的な行為のパターンではなく、行為が規則的なパターンを描いて生じることを説明できるような、傾向性あるいは傾向性の基礎となるカテゴリカルな性質である。性格によって説明を与えることは、意図や行為を理解可能なものにする。
物語は常に性格を利用するわけではない。しかし、物語は作り手の意図の産物であり、時に特定の性格に関する物語である。物語が特定の性格を巡るものであるとき、その中で表象される行動は、その中で表象されているというだけの理由によって、性格を推測するための合理的な根拠を与える。物語が性格関与的なものであるとき、きわめて多くの情報を性格を推論するために使うことができる。
また、物語は性格や動機を直接記述することもできるし、メトニミーなどを使って間接的に示唆することもできる。


一方登場人物の性格は、物語に統一性と安定性を与える。性格は行為がなぜ生じたのか理解可能にするし、また、偶然の成り行きに必然性を与える(「この事件がなかったとしても、彼らの性格を考えれば、いずれ破局が訪れたはずだ」)。また、登場人物の性格によって行為が説明されることは、物語により没入することを可能にする(反対に、ストーリー展開に都合の良い、一貫しない行為をする登場人物は、平板なものに見えるだろう)。
行為や動機に一貫性の無い登場人物は、むしろリアルなのかもしれないが、物語の欠陥と見なされる。
(ここの議論がちょっとおもしろいのは、「性格は一貫してない方がむしろリアルだ」という仮定が背景にあるので、じゃあなぜ登場人物が一貫した性格を持つことが物語をおもしろくするのか? という問いを「リアル」かどうかから独立に説明しようとしているところだ)。


まとめると、性格は、物語のための強力な装置であり、物語は、性格を表象するのに向いた形式であり、物語と性格の相性はとても良い。

11章の議論

一方人間に固定的な性格があるという人間観は、社会心理学のデータによって疑義にさらされている。Currieは性格の存在を疑わせる三つの結果をあげている(最初の二つは間接的だが)。

  • 1. 私たちは心についてよく知らない。

心理学は、自覚されることなく、心に影響するファクターがたくさんあることを発見している。私たちは自分の心についてよく知っているわけではない。

  • 2. 私たちは、性格を見て取るべきでないときにも性格を発見する傾向がある。

与えられたセリフを読んでいるだけなのに(しかもそのことを知らせても)人はそこに性格を見ようとするという実験があるらしい。またCurrieは補遺の方で書いていたが、明らかに性格を見て取るべきでない、ある種の動物や自然現象や無機物を擬人化し、性格を見ようとすることがある。

  • 3. 行為は大部分置かれている状況によって決定される。

例えば、急いでいるグループと急いでいないグループを、助けを求める人に遭遇させる。助けるかどうかは、かなりの程度急いでいるかどうかで決まるらしい。
もし慈悲深くふるまうような安定的な性格傾向なるものがあるとすれば、ちょっとした環境要因に簡単に左右されるのはおかしい。
ささいな環境要因によって行為が左右されることは、性格なるものが行為を決定するという仮定を疑わしくする。


Currieはこれに対する反論として、例えば、生活世界と科学が探求する世界は別であり、科学によって生活世界を歪めるべきではないという反論(二世界説)を検討している。二世界説を退ける議論はなかなかおもしろいが、物語と関係ないのでここでは省略する。
ともかく、Currieはこうした懐疑論を物語の価値に対する大きな脅威と捉えている。


Currieは物語を擁護する反論として次のようなものを検討している。まず性格は幽霊や魔女と同じ架空の存在で、物語をおもしろくするためだけに利用されているのかもしれない。性格にはストーリーを盛り上げる働きがある。
しかし、プロットを構成する装置として性格が優秀であるとしても、物語は人間について洞察を与えることを期待されている。問題は、性格が虚偽の存在であるにも関わらず、物語が人間の心理について洞察を与えられるのはなぜかという点にある。
Currieは、性格という装置を利用しつつも、性格による説明に頼らず、特定の状況における選択やジレンマを描くことはできるのではないかと述べている。性格というツールを利用することで、価値観や動機の対立を鮮明に描き、人間心理に対するリアルな洞察を与えることはできるかもしれない。たとえ性格なるものが無いとしても、そうした洞察は生き延びるかもしれない。
物語は、ありそうにない状況を設定することで、ある種の洞察を与えるということをしばしばやるので、性格もそうした装置のひとつとして捉えられるかもしれない。


ただし、Currieは、自分でこの議論に対する反論を提示している。私たちは、性格というものに対する信頼を完全に捨て去ったときに何が起きるかをよく知らない。実際に性格に頼った説明を捨てたとき、なおも物語の中に生き延びるものがあるのかどうかはそれほどはっきりしない。
Currieは、最終的な結論は与えていない。物語は生き延びるかもしれないし、そうでないかもしれない。

補遺の議論

補遺の方では、物語や性格に関する進化学的な仮説が提出されている。あくまで仮説として提出されているだけだが、こちらも簡単に紹介する。
性格が虚偽の存在であるとすれば、性格に対する信念はなぜ生じたのか。性格があるという仮定によって、不正直なふるまいをした行為者は、信頼できない性格の持ち主であると思われるようになり、将来の信頼も失う。こうした性格の帰属に根拠がないとしても、これによって不正直なふるまいのコストが高くなる。性格の帰属は、集団の協調を強化する方向で機能するのである。
ただしこれは、性格に対する信念がなぜ維持されているかについての説明ではあっても、そもそも人がなぜ性格を見出すようになったかの説明ではない。Currieは以上にくわえて、性格の帰属は、私たちの心を読むスキルの副産物として生じたのではないかと言っている(なお、ここで検討されているのが「性格懐疑論」であって、心に対する全面的な消去主義でないことには注意しよう。Currieは別に心の存在は疑っていない)。私たちは心の無いものに心を見るし、心のあるものには必要以上に複雑な心の構造を見ようとするし、心がそれほど秩序だっていないとしても秩序だったものとして見ようとするし、個々の心の働きを統一的な性格のもとに組み込もうとする。性格の帰属は、心を読む能力を過剰に行使した結果として生まれたのかもしれない。