Timothy Williamson『哲学の哲学』7章「哲学における証拠」

7章のまとめ。
The Philosophy of Philosophy (The Blackwell / Brown Lectures in Philosophy)The Philosophy of Philosophy (The Blackwell / Brown Lectures in Philosophy)

まとめてない章もあるが、とりあえず一通り読めた。


過去記事
Timothy Williamson『哲学の哲学』5章 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ
Timoty Williamson『哲学の哲学』6章「思考実験」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ


節タイトルは勝手につけた。

  • 1. 証拠中立性
  • 2. 直観とは何か
  • 3. 判断懐疑論
  • 4. 判断懐疑論の論理構造と誤り
  • 5. 証拠中立性と判断懐疑論
  • 6. 認識論的保守主義
  • 7. 反省的均衡の問題点

哲学理論にとって証拠の役割を果たすものは直観や信念などの心理状態だと言われることがある。
Williamsonはこうした理解がなぜ生じるかを以下のように診断している。
例えば、「山は存在しない」という哲学者がいる。形而上学的に考えれば、本当に存在するのは物理学が対象とするような微粒子だけで、山のような日常的対象は境界が曖昧で、同一性の条件もはっきりしないので存在しない。
山は存在しない派の哲学者と山は存在する派の哲学者が議論するとき、どのような証拠に訴えればいいか。もし、哲学の議論では、対立する両方の側が認めるような証拠しか使ってはならないのだとすれば、長野県に山が存在することは証拠の役割を果たさない。山は存在しない派の哲学者はそもそもそれを認めていないからだ。ここで、哲学者はしばしば事実から後退し、「山は存在するかもしれないし、存在しないかもしれない。しかし私たちはいずれにせよ『山は存在する』という直観を持っている。そのことは山の存在を支持する証拠になるはずだ」といいはじめる。
Williamsonはこうした要求を証拠中立性の要求と呼ぶ。Williamsonによれば証拠中立性の要求は誤りであり、哲学の自己理解を歪めるものだ。Williamsonはここで、「内省を通じて心理的なデータを集め、概念について明らかにする」といった哲学に対する内省モデルを攻撃している。


Williamsonは証拠中立性の問題点を二つの方向から議論している。ひとつは直観や信念のような心理状態も、議論の余地のない中立的な証拠などではないこと。
もうひとつは、証拠中立性の要求を妥当なものとして受け入れれば、全面的な懐疑論まで受け入れなければならないことである。
前者の例としてWilliamsonは自己知の誤りや心についての消去主義からの反論をあげているが、この本で強調されるのは主に後者なので、ここでも後者の議論に集中する。


Williamsonは「山は存在する」のような日常的判断に対する懐疑を、判断懐疑論と呼ぶ(これはWilliamsonが使ってるだけで、別に「判断懐疑論」という名称を自分たちの立場と考える哲学者がいるわけではない)。Williamsonは判断懐疑論に共通する抽象的な論理構造を分析し、それが全面的な懐疑論に陥らざるをえないことを議論している。ここの議論はかなり難しいのでそれほど自信はないが、以下のようなものだと思う。


判断懐疑論は見かけと事実のギャップに訴えることで、判断の妥当性を疑う。
例えば、判断懐疑論では、以下のように議論が進む。「山が存在するように思われる」という直観は、山が存在しなくても生じうるので、直観は「山が存在する」という事実の良い証拠ではない。私たちの持っている証拠は、「山は存在する仮説」と「山は存在しない仮説」のいずれに対しても中立的である。従って山は存在するという事実が成り立っているとは確信できない。
ところが、もし見かけと事実のギャップに訴えて判断を阻却する議論が妥当だとすれば、全面的な懐疑論も認めなければならない。なぜならば、これはおおよそあらゆる判断に当てはまる議論だからだ。
例えば、私は自分に手があると思っているが、この信念は、私が水槽の中の脳であるなどの状況でも生じるので、私に手があるという事実のよい証拠ではない。私の持つ証拠は、水槽脳仮説からもその否定からも中立的である、などなど。
ここでWilliamsonは判断懐疑論の誤りを以下のような確率についての誤りに求めようとする。

  • 1 私たちが持つ証拠によれば、「私には手がある」「山は存在する」などの仮説が支持される。
  • 2. 私たちが持つ証拠によって、「私たちがこの証拠を持っているとき、私には手がある」「私たちがこの証拠を持っているとき、山は存在する」という仮説は支持されない。

確率についての一般論として、1と2は問題なく両立する。ところが、判断懐疑論は、2から1を否定するという誤謬を犯している。


Williamsonは証拠中立性と判断懐疑論をしりぞけ、哲学にとっての証拠は事実そのものであると主張する。例えば、山が存在しない派の哲学者は、長野県に山が存在するという事実を証拠として受け入れないかもしれない。しかし、そのことによって、この事実を証拠として使ってはならないなどということにはならない。
長野県に山が存在することを主張しても議論は前進しないが、議論を前進させる対話上の利便性と、事実が果たす認識論的役割は別物である。そもそも、懐疑論者が認めるような前提だけを使って懐疑論を論駁することはできないし、議論の余地のない証拠など存在しない。
というわけで、中立性の要求によって哲学にとってのデータを心理的なものに限定すべきではない。Williamsonによれば、哲学は事実から事実を探求する営みであって、そこで直観や内省は大した役割を果たさない。