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Timothy Williamson『哲学の哲学』

The Philosophy of Philosophy (The Blackwell / Brown Lectures in Philosophy)The Philosophy of Philosophy (The Blackwell / Brown Lectures in Philosophy)

過去記事
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Timothy Williamson『哲学の哲学』7章「哲学における証拠」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ


一応読み終わったので全体の感想。全体の要約は無理なのでほんとにただの感想になった。
いくつかの章はざっと読んだだけなので、ほとんど理解できていない章もある。私はどちらかというと普段簡単な哲学書しか読まないので、これはひさしぶりに歯ごたえのある本だった。何というか、異常に細かい部分とやたらとラフな部分のバランスがよくわからず、いったい何が起きてるんだろうという感じ。あと8割方意見を共有している人が2割だけ新しいことを言うと読みやすいんだけど、Williamsonは8割方意見を共有していない未来人がこの時代の人に向けて書いてるみたいな部分があって、その辺りも読みにくさに影響している気がする。


翻訳が出るなら帯には「言語論的転回の終わり」と書くかな。言語論的転回というラベルのもとで理解されてきた哲学の自己理解を片っ端から批判していく本だ。自然主義のように「哲学の方法を変えよう」という話ではなく、「自己理解がおかしい」という意味で。
もちろん、Williamsonが本を書く前から言語論的転回はとうに終わっていたのだ。1章でWilliamsonが書いているように、現代の心の哲学や科学哲学や形而上学を、概念や言語の探求と見なすことは難しい。
そしてWilliamsonは、言語論的転回のかろうじて生きていた残滓を執拗に攻撃する。哲学が概念の探求だと言われるとき、概念の探求という言葉にはほとんど中身がない(この辺はWilliamsonに説得された部分も多々あるが、自分がどこまで受け入れるかは保留中)。
またWilliamsonが代わりに提示する哲学像はラフだが魅力的なものだ。多様な事実から出発し、分節化されていないものも含めたありとあらゆる認知リソースを使って、別の非自明な事実を発見していく。
個人的には、ここ数年、分析哲学って本当に自由なものだなと思っているので、うなずける部分は多かった。
ちなみに私が思う分析哲学が満たすべき制約は

  • ちゃんとしたアーギュメントを提示する
  • 哲学的に意義のあることをする

の二つだけ。あとは宗教だろうが自然科学だろうが文学だろうが道徳だろうが何をやってもいい(もちろんそれを支える論理的な能力やらバランスを取る能力は必要だが)。
いわゆる人文主義的な人たちって、非人文的な科学を受け入れるのを拒んだり、何だかんだ強烈な価値の主張や神秘主義的な主張は避ける傾向があるように思うんだけど(もちろんそれはそれで知的な態度なんだが)、その辺分析哲学はよくも悪くも自由だ。科学を語っても、神を語っても、文学と人生を語っても、人生の意味を語っても、差別と平等を語ってもいい。
もちろん、分析哲学には、砂を噛むような細かい話を延々と検討する拷問のような部分もあるのだが(それはそれで好きなのだが)、なんというかガレージでちくちく工作してロケット作っちゃいましたみたいな爽やかさもある。
話が脱線したが、あとがきの最後がかっこいいので、最後にそれを引用する。

このコメントを書きながら、特に悪かった学期のあとで皆に靴下を上げるように言う、演説の日の小学校の校長のように感じずにはいられなかった。そうなると、ウインストン・チャーチルの不正確な引用でしめるのがふさわしいだろう。これは哲学の終わりではない。終わりのはじまりですらない。しかしあるいは、はじまりの終わりかもしれないと。