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Alessandro Giovannelli「物語のキャラクターに共感的であること」

narrative

sympathyとempathyの訳語に迷うんだけど、ここではsympathyを「共感」、empathyを「感情移入」にする。
定訳では、sympathyを「同情」、empathyを「共感」とするのが多いみたいだけど、「同情」だとネガティブなときにしか使えない感じがするのでちょっと。sympathyは人のために喜ぶときにも使うので。
ここでの意味だと、sympathyは人に対する好意的な関わりのことで、その人に良いことがあれば喜び、悪いことがあれば心配すること。アンパンマンがピンチになるとドキドキし、アンパンマンが勝つと喜ぶなら、アンパンマンに共感している。「共感」より日本語の「ひいきにする」「味方をする」が近いと思うんだけど、一般的な語にしたいので「共感」にしておく。
empathyは人の感情を想像し、同じ感情を抱くこと。感情移入にしておく。empathyは他人の感情をシミュレーションして理解するけど、それ以上のコミットメントはしないという意味であるらしい。


http://philpapers.org/rec/GIOISW
Giovannelli, Alessandro (2009). In Sympathy with Narrative Characters. Journal of Aesthetics and Art Criticism 67 (1):83-95.

  • 1. 共感と感情移入
  • 2. 共感の構成要素としての感情移入
  • 3. 共感の心配という構成要素
  • 4. 結論


普通共感は感情の一種とすることが多いらしいんだけど、Giovannelliは人との関わりの一種として捉えている。私たちは物語を読んで、主人公の危機を心配したり、その敵を憎んだりするけど、それが共感。
Giovannelliは共感の構成要素を、感情移入[empathy]+心配[concern]であると分析している。
まず人の感情を自分の感情のように理解し、その人の幸福や不幸を気にかける。


しかし、感情移入の無い共感もあるのではないか? 例えば、出産を祝い、喜びもするが、その体験を内側から理解するのは男性には難しい、などのように。
この批判にGiovannelliは稿を費やしてこたえている。感情移入のない共感もあるかもしれないが、感情移入を含む共感を典型として捉えることには意味があると。


理由1. 感情移入を含む共感には価値がある。単に味方をしてくれるより、感情をある程度理解して共感してくれる方が望ましい。
これは物語に関しては特別意味を持っている。例えば、物語の主人公とそれ以外のキャラクターの区別も、感情移入によって捉えられるかもしれない。主人公に対する感情移入というのは特別なものだ。

また、主人公に感情移入を持って共感できることは物語の価値を高めるだろう。
反対に、物語が感傷的でよくないと言われたりするのは、私たちが感情移入と共感を特別に価値あるものとみなすからだろう。


理由2. 感情移入を含まないとされる共感の例はいろいろあるが、実際は広義の感情移入を含む。例えば、私たちは登場人物がまだ感じていないことを先回りして感じたり、登場人物が知れば感じるであろうことを感じたり、本人が怒っていなくてもその人のために怒ったりする。登場人物本人は知らないけど、読者は夫の浮気を知っていて、心配したり怒ったりする。
これは単純に感情を共有しているわけではないが、登場人物の未来の感情、反事実的条件法的な感情、登場人物が感じるべき感情に、感情移入していると考えられる。


理由3. 感情移入と共感には因果関係がある。感情移入するから味方したくなったりする。


共感のもうひとつの構成要素である心配[concern]をGiovannelliは以下のように捉える。
心配は人の目標を自分のものとして採用することである。アンパンマンが飢えた子どもを救うとかバイキンマンを倒すという目標を持っているとき、私たちはこの目標を自分でも採用し、「アンパンマンが飢えた子どもを救うこと」や「バイキンマンを倒すこと」を自らの欲望とする。


感想:
共感の話はおもしろいけど、これは共感一般の分析が多かったので、もう少し物語特有の事情にフォーカスしてほしかった気もする。
あと、物語を読むとき、基本的にはアンパンマンに共感するのが普通なんだけど、バイキンマンに共感しても構わないというのをどう捉えればよいか気になった。
個人的にはここで、「意図された反応」「意図されていない反応」を分けたい。
例えば、アンパンマンに共感するのが意図された反応で、バイキンマンに共感するのは非公式だけど、許されている。
映画とか観てて主人公サイドを「味方」、対立するサイドを「敵」と呼んだりすることがあるけど、これは主人公側に共感することが物語に対する意図された反応だからと考えたい。
例えば、感情的にはバイキンマンに味方している人でも、普通「バイキンマンが敵側だ」とは理解しているので、意図された共感を、ある程度個人の反応から独立に捉えることができるはず。
この辺を真面目に考えると「ヒーローとは何か」「勧善懲悪とは何か」という文章が書けそうなので、その内考えてみたい。