哲学とポップカルチャーの解釈

以下の本『哲学とポップカルチャーの解釈』の紹介と軽くポップカルチャーと哲学の話。
Philosophy And the Interpretation of Pop CulturePhilosophy And the Interpretation of Pop Culture


この本とは別なんだけど、英語で「ポップカルチャーと哲学」というシリーズが出ている。
http://www.opencourtbooks.com/categories/pcp.htm

シリーズタイトルを見てると、「ゼルダの伝説と哲学」「(日本)マンガと哲学」「レディオヘッドと哲学」「iPodと哲学」「スポンジボブと哲学」とかもう何でもありな感じでおもしろい。結構売れてるらしく、『哲学とポップカルチャーの解釈』の中でも、懐疑論についての授業をしていたら、「それ『マトリックスと哲学』という本で読んだ」という反応があると紹介されていた。
このシリーズは、ポップカルチャーをだしにして哲学を紹介しよう、いわばポップカルチャーから哲学へというものなんだけど、『哲学とポップカルチャーの解釈』は反対に、ポップカルチャーを哲学の対象にしよう、哲学者にポップカルチャーに目を向けさせようという、哲学からポップカルチャーへという本を目指しているとか。
内容はいろいろで、バットマン論みたいな個別の作品を取り上げたものもあるし、広くポップカルチャーを論じたものもある。
ポップカルチャーの作品を通じて哲学的アイデアを表現できるか?」
「趣味の悪い作品を好むのは悪いことなのか?」
などの問いもあるし、「共感」みたいなテーマにフォーカスした論文もある。


この本はこの本でおもしろいんだけど、こういう視点が足りないかなと思った部分を書いておく。
以前自分でもマンガやアニメに関わる問題を取り上げて思ったんだが、あと松永さんのビデオゲームの哲学の仕事などを見ていても思うが、ポップカルチャーの周りにはたくさんの哲学の仕事がある。
ポップカルチャーの多くは、映画、マンガ、アニメ、ビデオゲームなど、新しいメディアだ。そして、私たちはそれらの新しいメディアのことをよく知らない。そこでの経験や起きていることをあまり適切に表現する言葉がなかったりする。
だから例えば、改めて考えようと思ったときに言葉のリソースが不足していたり、混乱が起きたりする。例えば、倫理的な問題を考えたり、法的規制についての議論でそれが顕著に表れる。
この領域で危険なのは「自分は知っている」というバイアスだ。「自分はこの作品を楽しんでいる。難解な部分は何もない。自分は映画、マンガ、アニメ、ビデオゲームのことをよく知っている」と考えてしまう。ただこれは大きな間違いだ。

  • 私たちは自分が好きなキャラクターがどういう姿なのかも(それについてどう考えるべきなのかも)よく知らない(この問題は上でリンクした発表で扱ってます)
  • ゲームの物語上で起きていることと、プレイヤーのゲーム内行為の関係は? クッパを倒すのはマリオなのか、プレイヤーなのか(これは松永さんがやってました)
  • メディアミックスや二次創作で、キャラクターが同一だと言うための基準は?

いくらでも付けたせるが、私たちは本当に何も知らない。
哲学者にとってもこの辺を考えるのは大変なことだと思うが、私は哲学というのはまさにこういう言葉のリソースが足りないところでこそいい仕事ができるものだと思うんだよ。
そういうわけで、ポップカルチャーはむしろ哲学者のメインフィールドの一つになっていい領域だと思っている。
(そのためには哲学力にくわえて、批評力というか、「この作品はなんでおもしろいのか」みたいなのを分解して分析できる能力が必要だと思うが)



追記:
書く前まで念頭にあったんだけど、入れるのを忘れていた。
ポピュラー音楽の存在論についても活発な議論がなされている。
今井晋「ポピュラー音楽の存在論――《トラック》、《楽曲》、《演奏》」
https://docs.google.com/file/d/0B2BZsarxhk7bYmQxbDlJcXZaVTg/edit


この論文を巡ってポピュラー音楽学会でも過去二回ワークショップが開催されている。
https://sites.google.com/site/akashinimai/topics/121209jaspm
http://d.hatena.ne.jp/conchucame/20131210/p1