David Lewis「出来事」

これは難しかった。

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Lewis, David (1986). Events. In , Philosophical Papers Vol. II. OUP. 241-269.
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  • 1. 序
  • 2. 出来事は時空領域の性質である
  • 3. 出来事は本質的にも偶然的にも記述される
  • 4. 出来事は論理的関係をとる
  • 5. 出来事には時空のメレオロジーがある
  • 6. 出来事の歴史は歴史の全体である
  • 7. 出来事はおおむね内在的である
  • 8. 出来事は選言的ではない

ルイスはここで、因果関係の項としての出来事について考えている。「出来事」には複数の意味があるが、ここでの問題は因果関係の項としての出来事が何であるかを考えることである。


出来事の同一性基準には粗い基準と細かい基準の二つがあると言われることがある。
前者だと、「スミスの今夜の安らかな眠り」と「スミスの今夜の眠り」は同じ出来事でありえる。後者だと「安らかな眠り」と「眠り」は別の出来事である。
ルイスはここで後者のような出来事観をとっているように見えるが、実際はもう少し複雑である。
ルイスによれば、出来事は時空領域の性質である。スミスの眠りは、その出来事が起きた時空領域と「スミスが眠る」という性質によって定義される。この出来事は、現実世界だけではなく、スミスの眠りが起きたすべての可能世界のすべての時空領域のクラスとして定義される。
表面だけを見るとこれは細かい基準を取っているように見えるが、ルイスは私たちの出来事の記述が、必ずしも出来事の本質的性質に対応するわけではないと認めている。例えば、以下の文を考えよう。

スミスの安らかな眠りは、スミスの体力を回復させた。

スミスの安らかな眠りという出来事は、スミスの体力回復という後続の出来事を引き起こした。しかしこの出来事にとって「安らかな」眠りであることは必要ではないかもしれない。安らかでない眠りもスミスの体力を回復させたかもしれない。
そうだとすると、ここで言及されている出来事は、「スミスの眠り」とも記述できる。それは、たまたま安らかであったスミスの眠りである。
つまり、この立場では、粗い基準が認めるような、ひとつの出来事に複数の記述が対応する事態は認められうる。ルイスは「本質的にスミスの安らかな眠りである出来事」と「本質的にスミスの眠りである出来事」を別の出来事として区別するが、後者を「スミスの安らかな眠り」と呼ぶことはある。


あと、ちょっとおもしろいことを言っていて、心的出来事、つまり「痛み」などに対応する真正の出来事は存在しないかもしれない。つまり、たまたま現実世界で痛みである出来事はあるが、それは出来事の本質的性質ではないと。
なぜかというと、心的出来事は多重実現するので、すべての可能世界で痛みである出来事を認めると、ある世界では神経の発火であり、別の世界では痛みを実現する別の物理現象である奇妙な出来事があることになってしまう。本質的に痛みである出来事は、選言的な出来事であり、選言的出来事を認めるべきではないと考えるらしい。
心的因果を否定するロジックとしてはそれほど珍しくないかもしれないが、なるほどねと思った。