Barbara Herrnstein Smith「物語のバージョン、物語論」

http://philpapers.org/rec/SMINVN-2
Smith, Barbara Herrnstein (1980). Narrative Versions, Narrative Theories. Critical Inquiry 7 (1):213.

著者は文学理論の人かな。言説とストーリーの区別を批判している。直接批判されているのは、チャトマン。

  • 1. バージョンとバリアント
  • 2. 物語の錯時法と言語的二分法の正当性
  • 3. 物語行為と取引

ほとんどの議論に全然納得がいかなかったのでまとめるのが難しい。
チャトマンは、物語論の中で、言説とストーリーを区別しているが、特に以下の二つの現象が問題になっている。

  • ストーリーの移植可能性。ストーリーを他のメディアへ移植したり、別のテキストで語り直すことができる。
  • ストーリーの時間と言説の時間が異なることがある。時系列通りに語られない物語がある。

チャトマンは言説とストーリーの区別に訴えることで、これらの現象を説明しようとしている。Smithはそれを批判している。


ストーリーの移植可能性について、Smithによれば、ストーリーの移植は、そのつど各人の関心や文化に相対的に構築され、知覚された事柄に基づくしかない。同一のストーリーなどなく、あるのは無数の物語のバージョンだけだ。
さらに、ストーリーの時間と言説の時間を区別することについては、こうした区別は語りと内容の時間の究極的一致を求めていて疑わしいとしている。
(ここの議論はほとんどよくわからなかったが、ストーリー時間みたいなものを、テキストから独立に措定できないと言いたいようだった)


Smithの議論のどこがおかしいのかは見やすいと思う。多分この人は「一度言説とストーリーを区別したならば、いかなる関心や慣習からも独立した、プラトニックな実在としてのストーリーなるものを想定しなければならない」と前提している。特にわかりやすいのは時間のところで、なぜか「複数の時間のレイヤーを区別することは、時間表現の究極的な一致を求めることにつながる」と前提している。
しかし、疑わしいのはこの前提の方だと思う。文化に相対的なものとしてストーリーを考えるとか、いくらでも中間的なやり方がありそうなのに、なぜか一番極端な選択肢しかないと考え、それだけを批判している。
あと、Smith自身が批判している立場からどれくらい逃れられているのかもあやしい。ストーリーはなく、無数のバージョンしかないと言うが、「バージョン」というのは何のバージョンなのか? 普通に考えると、同一のストーリーのバージョンじゃないかと思うのだが。
Smutsは、「Smithはバージョンという言葉を使うだけで、自分が批判しているプラトニズムから逃れられると思っている」と揶揄していたが、まさにその通りで、これでは言葉使いを変えているだけのようにしか見えない。