スタンフォード哲学事典「因果の形而上学」

【日記】最近は話題のアイドルマスターSideMにはまっています。推しは山下次郎と天道輝と神谷幸広です。
ちなみに私は移動時間や休憩時間など、生活の隙間時間を論文読みに当てているため、研究時間は仕事や余暇とは衝突しないのですが、アイドルマスターSideMとは衝突することになります。今後論文を読む速度が落ちたらSideMのせいだと思ってください。
【/日記】

http://plato.stanford.edu/entries/causation-metaphysics/
http://philpapers.org/rec/SCHTMO-9
Schaffer, Jonathan (2014). The metaphysics of causation. Stanford Encyclopedia of Philosophy.

  • 1. 関係項
    • 1.1 内在
    • 1.2 個別化
    • 1.3 付加項
      • 1.3.1 対照
      • 1.3.2 二次的関係項
  • 2. 関係
  • 2.1 接続
    • 2.1.1 確率、プロセス、問題
    • 2.1.2 ハイブリッド、原始説、消去説
  • 2.2 方向
  • 2.3 選択

「aがbを引き起こした」というとき、aは原因でbは結果である。ここでは、1節でaとbという関係項について、それが何であるかの議論が紹介される。因果にaとb以外の関係項があるかについても議論がある。
2節では、「引き起こす」、つまり因果関係とは何であるかが議論される。


私は、因果関係の関係項にのみ関心があるので、そこの部分だけをまとめる。

内在性を巡る議論

内在説
因果の関係項は、出来事のような内在的なものである。それらは、特定の時空位置において生じる。
超越説
因果の関係項は、事実のような抽象的なものである。それらは、時空位置を持たない。

代表例として出来事と事実が対比されているが、同様の対立は他のものでも起こりえる。例えば、因果の関係項として他に、性質、トロープ、事態、状況、アスペクトをあげる人がいるらしい。ここでのポイントは因果の関係項が出来事か事実かではなく、因果の関係項が内在的か超越的かである。

内在説を擁護する議論: 相互作用

世界内在的なものだけが相互作用できる。事実は世界の外にあるので、世界の中の何かを引き起こしたりはできない。
反論1:
事実の代わりに内在的に作用する代用品を見つける。例えば、相互作用するのは対象である。
反論2:
因果を対象の相互作用と考えるのは素朴である。例えば、因果が事実の規則的な関係に過ぎないとすれば、関係項が内在的である必要もない。

内在説に反対する議論: 不在

因果の関係項は、不在でありえる。例えば、「歯をみがかないから虫歯になった」のように、何かが無いこと、何かが起きないことも原因になることがある。不在は出来事ではなく、超越的な事実である。
反論1:
不在に関わる因果を否定する。問題のケースは因果関係とは言えない。
反論2:
不在が超越的であることを否定する。不在の出来事を認める。または、問題のケースを肯定的言明で言い換えることを試みる。

内在説擁護の議論:スリングショット論法

すべての事実は等価であり、ただ一つの事実しかないという論証がある。スリングショット論法はいくつかバージョンがあるが、ここで紹介されているのは以下のようなもの。
まずfとgを任意の真なる事実とする。
1. {x| x=x & f}={x| x=x}
{x| x=x}は自己と同一なもの、つまりすべての対象の集合を表す。今、fが真だとすれば、1も真である(x=xかつfであるxの集合は、端的にx=xであるxの集合と等しい)。反対に1が真であればfも真である。
つまり、1とfは論理的に同値である。よって1とfには同じ事実が対応する。
2. {x| x=x & f}={x| x=x & g}
fとgが真だとすれば、2の両辺の集合はどちらもx=xなるxの集合、つまりすべてのものの集合となる。ここで、二つの集合が等しいので、1を置き換えて以下を得る。
3. {x| x=x & g}={x| x=x}
等しい集合同士を置き換えても対応する事実は変わらないと考えられるので、1と3は同じ事実に対応する。ところが3はgと論理的に同値である。つまり、fと1と3とgにはそれぞれ同じ事実が対応する。
fとgは任意の真なる事実だったので、任意の真なる事実にはすべて同一な事実が対応する。
反論としては、論理的に同値なら同じ事実が対応することを否定するか、置き換えで得られる命題が同じ事実に対応することを否定する。

個別化の基準を巡る議論

粗い基準
出来事は粗い基準を持つ。「ジョンがハローと言うという出来事」と「ジョンが大きな声でハローと言うという出来事」は同じ出来事である。
細かい基準
事実は細かい基準を持つ。「ジョンがハローと言ったという事実」と「ジョンが大きな声でハローと言ったという事実」は別の事実である。

また、個別化の基準についても対立がある。典型的には出来事は粗い基準を持ち、事実は細かい基準を持つと言われる。ただし、出来事を細かい基準で捉える論者もいる。ここでの問題は、因果の関係項が出来事か事実かというより、因果の関係項は粗い基準で捉えられるべきか、細かい基準で捉えられるべきかにある。

Schafferは以下のような表をつくっている。

粗い基準 細かい基準
内在 デイヴィドソン ルイス、キム、ドレツキなど
超越 いない ベネット、メラー

(Schafferはルイスを細かい基準に置いているが、個人的には、ルイスは出来事の再記述を認めているので、粗い基準に置くべきだと思う)
これはかなり単純化していて、実際は二分法よりなめらかなグラデーションを持つと考えられるべきである。

だいたい以下の順で基準が細かくなる。

  • クワイン: 時空領域で個別化
  • ディヴィドソン: 最終的にはよくわからないが、出来事の再記述をかなり認める。
  • キム: 対象、性質、時間で個別化。性質の個別化の基準をどう捉えるかで、より細かくなりえる。
  • ベネット: 個別化の基準は命題に準ずる。命題の個別化の基準をどう捉えるかで、より細かくなりえる。
  • ドレツキ: 同じ命題であっても、強調の置き方が変われば別の出来事になる。

クワインは「同じ時空領域で起きた出来事はすべて同じである」と考えるので最も粗い基準である。ドレツキは「同値な文にも異なる出来事が対応する。『太郎が次郎にキスしたこと』『次郎が太郎にキスしたこと』は別の出来事である」と考えるので最も細かい基準となる。

粗い基準に反対する議論1: 因果の違い

「ジョンがハローと言ったこと」と「ジョンが大きな声でハローと言ったこと」は因果に関する違いをもたらしうる。例えば、後者だけが「フレッドが驚くこと」を引き起こすことがある。よって因果の関係項は細かい基準で捉えられるべきだ。
多分ちゃんと書くと以下のような議論になる。

  • 1. 因果関係は外延的である(つまり、因果関係項を同じもので置き換えても因果関係は変わらない)。
  • 2. ところが「ジョンがハローと言ったことがフレッドを驚かせた」は偽であり、「ジョンが大きな声でハローと言ったことがフレッドを驚かせた」は真である。
  • 3. 「ジョンがハローと言ったこと」と「ジョンが大きな声でハローと言ったこと」に同じ出来事が対応するとすると、2より因果関係は外延的でない。これは1と矛盾する。
  • 4. よって「ジョンがハローと言ったこと」と「ジョンが大きな声でハローと言ったこと」には異なる出来事が対応する。


反論1:
前提2を否定する。
因果関係と説明を分けるべきだ。因果関係は外延的だが、説明はそうではない。
「ジョンがハローと言ったことがフレッドを驚かせた」は因果関係としては真である。しかし説明としては適切ではない。説明としては、「ジョンが大きな声でハローと言ったことがフレッドを驚かせた」と言った方が適切である。


反論2:
前提1を否定する。因果関係は外延的でない。


反論3:
因果の違いによる議論は拡張されすぎる。この議論を認めると、最終的にはドレツキ的な最も細かい基準を認めるしかないが、それは馬鹿げている。

粗い基準に反対する議論2: 推移性
  • c: トムが暖炉に塩化カリウムを入れた
  • d: ディックが暖炉でマッチを擦り、暖炉で紫の炎が燃えた
  • e: 炎は燃え広がり、ハリーを焼き殺した

cはdを引き起こした。dはeを引き起こした。さらに因果関係が推移的であることを認めると、cはeを引き起こしたことになる。
しかし私たちはcがeを引き起こしたことを認めるべきではない。私たちは以下を区別すべきである。

  • d1: 炎が紫であったこと
  • d2: 炎が燃えたこと

cはd1を引き起こしたがd2を引き起こしていない。eを引き起こしたのはd2であって、d1ではない。
ところが、粗い基準を取る論者はd1とd2を区別できないため、cがeを引き起こしたという問題のある因果関係を認めることになる。


反論1:
cがeを引き起こしたことを認めてしまう。cはdを引き起こした中心的原因ではないが、原因ではありえる。


反論2:
因果関係が推移的であることを否定する。

  • c: 岩石がハイカーの頭上に落ちる
  • d: ハイカーが飛び退ける
  • e: ハイカーは生き延びる

cはdを引き起こし、dはeを引き起こす。しかしcはeを引き起こしていない。このケースは出来事の記述を変えてもうまく説明できないように思われる。

粗い基準を擁護する議論: 方法論

クワインは細かい基準は個別化の基準がよくわからず、なじみのない対象を導入すると批判した。
しかし細かい基準は明確な個別化の基準を提示できる(ex. キム)。また、細かい基準の出来事を導入する際にも、他に還元可能な形で導入することもできる。もし細かい基準の出来事を導入するとしても、それが対象や性質や時空に還元されるとすれば、無害である。また、理由なく、新しい存在者を導入することには問題があるが、理由があれば問題ない。因果の違いによる議論や推移性による議論は、その理由を与えるかもしれない。

補足

この他、付加項として、対照項と二次的関係項を巡る議論が紹介されている。中身は紹介しないがそれぞれどういうものかだけ書いておく。
対照項について: 因果には対照項が必要であると主張する論者もいる。つまり因果関係の真正な記述は「aがbを引き起こした」ではなく「a'ではなくaが、b'ではなくbを引き起こした」となる。
二次的関係項について: 因果関係は記述、モデル、デフォルトの状態に相対的であるという議論がある。つまり「aがbを引き起こした」ではなく、「記述(モデル/デフォルトの状態)xに相対的にaがbを引き起こした」と言わなければならない。