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Joshua Seachris「死、無意味、物語の結末の予見的力」

科学的世界観の下では、未来にはすべては消えて塵になってしまう。だからすべては無意味だという人たちがいる。また多くの宗教は、死後の世界において私たちの善悪があがなわれると言う。
死後に何もなくなるからすべては無駄だという論証が正しいかどうかは別にして、なぜ私たちはこうした発想に説得力を感じるのか。もっと言うと、なぜ結末にこだわるのか。つまり、死後の世界で報われるから人生に意味はあるというのと、科学的世界観では死後には何も無いから人生は無意味だというのは基本的には同じ発想で、人生の最終的状態に何があるかで、それ以前の人生の意味が変わってくる。

あと、ちょっと思ったけど「神はすべて予測できるので生まれる前にあらかじめ悪に対して罰を与えておいてある。死後は特に何も予定されていない」という宗教があったら何かいやだな。


http://philpapers.org/rec/SEADFA
Seachris, Joshua (2011). Death, Futility, and the Proleptic Power of Narrative Ending. Religious Studies 47 (2):141-163.

目次

  • 物語の結末の評価における重要性
  • 物語の結末の概念
  • 死、知覚された無意味: ロナルド・ドヴォォーキンの分析
  • メタ物語の結末、死、宇宙的無意味
  • 悪、終末論、物語の結末
  • 結論

Seachrisはこの発想を物語の結末と結びつけている。物語一般にとって結末は重要なものだ。そして人生の評価に際して死後を重要視する傾向はここから説明されるのだと。
まず、物語一般に関して、結末は重要なものだ。多くの物語では、結末で、それまでに出てきた問題が解決され、感情的な安定をもたらし、最終的な評価を与える。最後が悲劇的な結末なのかハッピーエンドなのかによって、途中の出来事に対する評価も変わってくる。結末は、ストーリーに対する感情的スタンスに対して優先的な力を持っている。例えば最終的に結婚するのか別れるのかを知っていれば、愛に対する評価も変わる。


ただし、キリスト教の教義のように、死後も魂は永遠に残るといった世界観もある。この場合厳密には「結末」はないわけだが、それはどうなるのか。Seachrisは結末の意味を三つにわけていて、終止としての結末、閉合(クロージャ)としての結末、最終目的[teros]としての結末があると言う。
「魂は死後永遠の至福をえる」というのは、終止ではないが、物語にまとまりを与える閉合としての結末である。これは「それから二人はいつまでも幸せに暮しました」というのと同じで、物語にまとまりを与える。死後の幸福は、死後を含めた無限の人生全体に意味を与えるのではなく、生きている間の有限の生に意味を与えるために用意された結末である。


なお「不死でなければ人生の意味はなくなってしまう」ということを言う人は(宗教者とかで)結構いるのだが、この発想がどこから来るのかは難しい*。Seachrisのような指摘ははじめて見たが、死後の幸福は、無限の生全体に意味を与えるのではなく、生前の生に意味を与えるものだという分析は正しそうな気がする。
※ちなみに、千葉大の吉沢さんがこのテーマで論文を書いている。
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/51875/1/03_yoshizawa_oyorinri_no5.pdf


Seachrisは「どうせ死ぬから無意味だ」的議論を、ロナルド・ドヴォーキンのインパクト説と、物語の結末の概念を使って説明している。インパクト説というのは、価値ある良い結果を起こせば起こすほど良い人生だという立場だ。病気の特効薬を開発して多くの人を救ったとか、偉大な発見をしたとか、そういうの。これが人生の意味のすべてかどうかはわからないが、少なくとも私たちがある程度そういう発想を持っているのは確かだろう。しかしインパクトの重要性の判断は、物語的文脈によって影響を受ける。科学的世界観では、どれだけ良い結果を起こしても最後には無が待っている。人生のインパクトがこれによって重要性を失なうように思えるのは、結末が出来事の評価的スタンスに影響するからだと考えられる。
あと、実存的不安の話とか、「この世界で起きた悪のすべては神の王国の実現によってあがなわれる」という神義論の発想も物語的なものだという話など。

感想

こういうことかなと思ったのは、人間には「良いことをすれば良いことが返ってくる」「悪いことをすれば悪いことが返ってくる」という因果応報による発想の癖がある。これは対偶を取れば、「良いことが返ってこないので、自分がやったことは良いことではなかった」という発想になる。
一方、科学的世界観だと、すべての人生の後には無が待っている。ここで私たちは「その後に無が待っているような人生だから、よい人生ではなかったかもしれない」という発想をしてしまうのかもしれない。
もっと言うと天国とか地獄というのは生に対するインセンティブで、良いことをすれば天国に行ける。しかし、それと並列に、現代的な「死後はすべて消える」という発想を並べると、何をしても罰が与えられるすごく不条理な制度のように見えてしまう。
まあ記述的な説明はいろいろできるだろうが、難しいのはこの手の発想にどれくらい規範的な効力があるかだ。


あとあんまり関係ないけど、ノージックの説で「人生の意味をえるには限界を超越することが必要だ」っていうのがあるんだけど、何回聞いても「限界を超越する」の意味がよくわからなくておもしろい。メッツだったかが「県境を越えても人生の意味をえられるわけではないのは確かなんだから、ノージックはもう少し説明すべきだ」と言っていたけど、これは本当に意味がわからない。ただのキャッチフレーズじゃないかという感じもするけど、「限界を超越した男 ノージック」とか言われたらかっこいいね。