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Luke Purshouse「恥ずかしさ: 哲学的分析」

http://philpapers.org/rec/PUREAP
Purshouse, Luke (2001). Embarrassment: A philosophical analysis. Philosophy 76 (4):515-540.

過去の恥ずかしさについて研究したくて、恥ずかしさの哲学を探したらちゃんと文献あった。

  • 1. 予備的論点
  • 2. 恥ずかしさと自己評価
  • 3. 観察者の恥ずかしさ
  • 4. 社会的なエチケットと充足されない期待
  • 5. 露出
  • 6. 結論


恥ずかしさ[embarassment]は恥[shame]と近いけど、それとは区別される感情である。
shameは自分が悪いと認識している場合にのみ起きる。過去の悪行を恥じるとか自分の無能を恥じるのが典型例だ。
一方、恥ずかしさはまったく自分に落ち度がなくても生じる。道でつまずいて酔っ払いに笑われた場合、恥ることはまずないが、恥ずかしくはあるかもしれない。賞を受賞して人前で呼ばれるとか、単に人の注目を集めるだけで恥ずかしくなることもある。
日本語だと、「恥ずかしい」はshameの意味でもembarassmentの意味でも使うが、「恥」「恥辱」と言った場合はshameを指すと思う。


感情には固有の認識がある。例えば、恐怖は危険の認識によって生じる感情だし、怒りは不当な扱いや攻撃の認識によって生じる。ところが、恥ずかしさが何の認識と結びついているかはなかなか難しい。恥ずかしさはかなり多様な状況で生じる感情だからだ。
Purshouseは先行研究を批判し、恥ずかしさは、自己の露出[exposure]という認識と結びついていると論じている。

他者からの評価説

恥との区別で、恥ずかしさは自分が悪いと思っていなくても生じるということから、他者から自分が共有していない悪い評価を受けた時に恥ずかしさが生じるという説。

しかし、恥ずかしさは「皆から誕生日を祝われる」といった完全にポジティブな評価の場合でも生じる。また、実際自分が悪いと思っていても、恥ずかしさと恥を同時に感じることはありえるのだから、この説は恥ずかしさの本質を捉えていない。

社会的な期待説

恥ずかしさは社会的な期待に反する場合に生じるという説。ゴフマンがこれを提案しているらしい。
恥ずかしさは、エチケットに反する時にしばしば生じる(例えば映画館でひとりだけ大声で笑ってしまった場合)。しかし単純なエチケット違反といえないケースもある。
例えば、哲学研究者でもあり、アマチュア俳優でもある人を考えてみよう。この人が劇団の仲間といるところを研究仲間に見られ、研究の時とは違うふるまいをしているのを見られてしまう。この状況で恥ずかしさを感じることはありそうだが、別に何かのマナーに反しているわけではない。
それはむしろ社会的な期待と結びついている。恥ずかしさは、社会的に期待されていることが満たされていないことを理由として生じる。
この説はかなりいい線をいっているが、しかし単純に注目されるだけでも恥ずかしさが生じるということをうまく説明できない。特に期待に反しているわけではなくても、恥ずかしさは生じうる。

露出説

Purshouseによれば、恥ずかしさは、肉体、精神状態、性格、行為などの露出に結びついている。また、露出したくないのに露出してしまっているという意味で、露出が悪い評価を受けている場合に恥ずかしさが生じる。
単に裸になるとか、人前に出るだけでも恥ずかしさが生じるのはこのためだ。
この説は、社会的な期待説とかなり似た予測をする。社会的な期待に反することは注目を集めやすいし、本人にとって嫌なことにもなりやすいからだ。しかし、必ずしも社会的な期待に反しなくても恥ずかしさは生じうるのだから、露出説の方が適切な説明を与えている。


しかし、この説でもうまく説明できないケースがある。過去の自分の日記をみて、青臭い文章が載っていたりすると、たとえそれを他人に見られたわけではないとしても、恥ずかしさを覚えうる。Purshouseはいくつか説明を提案しているが、このケースはあまりすっきり説明できない。


また、Purshouseは恥ずかしさの感情と結びついた内在的価値はあるか検討していて、露出されないことが守る価値は、親密さやプライバシーにあるのではないかと言っている。

感想

恥ずかしさは自己の概念と結びついた感情だし、社会的な感情なので、なかなかおもしろいなと思っている。露出説はいい感じなのだが、過去の日記のケースは解釈が難しい。これはむしろ社会的な期待というか、期待される自己像に反するからだという方がうまく説明できているように思った。