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「美学におけるエリート主義の問題」

Aesthetics For Birds: "The Problem of Elitism in Aesthetics" by Bence Nanay


Bence Nanayがブログに書いていた記事。
(どうでもいいけど、英語圏のブログってゲストに記事を書いてもらうのをよくやってるけど、これあんまり日本で見ないね)


前半は美学がハイブローな作品ばかり取り上げるせいで敷居が高くなってるという話。それはまあいいんだけど、後半がおもしろくて、そのせいで重要な哲学的問題が無視されているのではないかという指摘。
shipping(カップリング)の話を例にあげて、カップリング考察とか、今はこういうのが制作にも読解にも影響を与えてるんだという話をしている。さらっと紹介しているだけだが、実際これは制作者の意図とか読者の深読みがどこまで許されるかというのを考えるとおもしろい話(になりえる)と思う。
前にも書いたけど、私は美学でも新しいものは基本的に扱うための概念装置がなくて難しいし、哲学的問題の宝庫であると思っているので、この後半の指摘には大賛成である。
哲学とポップカルチャーの解釈 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ


例えば、作品の集団制作一つとっても、私たちはあまりよいモデルを持っていなかったりする。以前ある人の「作品」の定義を見ていたら、「一人で作るもの」という条件が入っていて、唖然としたことがあるが、これは別に哲学者にかぎった話ではなく、著作権が問題になった時も批評の場でも、集団制作の場合、誰が作品に対する責任を負い、誰が権利を持つのか、誰も知らないし、貧しい概念装置しかないせいで混乱するということが起こりえる。私たちはみんなロマン主義の子なので。
(一応書いておくけど混乱してる人しかいないと言っているわけではない)


上記の記事を紹介したかったのがメインだが、ちょっと関連しておもしろいなと思ったのは、哲学的問題の重要性は時代によって変わりうるということだ。
例えば、プラトンアリストテレスが扱った哲学的問題のすべてが私たちにとって重要なわけではない。先に集団制作の例をあげたが、これは集団制作の作品が大量に作られる時代だからこそシビアな問題になりえる。
政治哲学とかだと当たり前なんだけど、これはもっと広い話だなと思っていて、例えば「パスカルの賭け」ってパスカルが確率の概念を持っていたからはじめて問題になったわけだよね。あと例えば物理主義と整合的な心の哲学を作ろうって問題が中世社会で重要性を持つわけないわけで。
結論は特にないが、じゃあ哲学的意義って社会制度の配置に随伴するものなのかというのが気になった。今。
ちなみに、わりと今雑に書いてるので適当なことを言っているが、哲学的問題って問題だったらなんでも哲学的問題になるわけではなくて、哲学的問題が野生にゴロゴロしてるわけでもなくて、問題を哲学的問題にするための加工に労力が結構かかってる気がするんだけど、あれはなんだろう。
社会制度があって、哲学的問題職人みたいなのがいたらどんどんその社会特有の哲学的問題が生産されるイメージがある。