アミ・トマソンの立場の変更点

トマソンは1999年の著作Fiction and Metaphysicsでフィクショナルキャラクターに関する抽象的人工物説を提示したが、その後2003年の論文Speaking of fictional charactersで微妙に立場をアップデートしている。変えたというか、はっきりどちらを取るとは言っていないように見えるので、選択肢を増やしたというくらいかもしれない。とりあえずどの点を変えたかまとめておく。
2003年の論文については以前にも紹介記事を書いた。

1999年の著作
Fiction and Metaphysics
2003年の論文
Speaking of fictional characters

まず、フィクショナルキャラクターの言及のされ方には以下の三種類がある。

普通の指示
現実世界に存在する対象である抽象的人工物としてのフィクショナルキャラクターを指示する。この場合指示されている対象は、人ではなく、抽象的なアイデアになる。この意味でのフィクショナルキャラクターは、法律や料理のレシピと同じような存在者で、制作者が作ることで存在しはじめる。
de re的メイクビリーブ
現実世界に存在する対象についてごっこ遊びを行う。木の切り株がテーブルであるかのようにふるまうみたいなケースを想定してほしい。de re的メイクビリーブは現実世界の対象への指示を含む。
de dicto的メイクビリーブ
現実世界に存在しないものがあるかのようにふるまう。現実世界の対象への指示を含まない。

フィクショナルキャラクターが言及される文脈のそれぞれによって、上記のどれが用いられるかが変化する。ただし1999年と2003年で異なる組み合わせになっている。

A.作品内でのキャラクター名の使用
コナン・ドイルの『緋色の研究』で「ホームズ」という名前が使用されるケースなど、キャラクターを新たに創造しつつ、フィクショナルキャラクターの名前が使用されるケース。
B. 作品内での実在する人物名の使用
戦争と平和』での「ナポレオン」など、実在する人物の名前がフィクション作品に現れるケース。
C. 作品内での別作品のキャラクター名の使用
別の作家が書いたホームズパロディで、「ホームズ」という名前が使用されるケースや、ホームズシリーズの続編でホームズの名前が使用されるケースなど、先行する作品のキャラクター名の使用。
D. 作品外でフィクション内事実を述べるケース
「ホームズはロンドンに住んでいる」など、読者がフィクション内の事実に言及するケース。
E. 作品外でフィクション外事実を述べるケース
「ホームズはポー作品の影響を受けて作られた」など、キャラクターに関するフィクション外の事実を述べるケース。

ウォルトンなど反実在論との立場の違いは、Eの文脈で現れる。このケースは、トマソンによれば(1999年でも2003年でも)、現実に存在する抽象的人工物を指示しており、メイクビリーブを含まない。キャラクターに関する実在論に立つ論者は、すべてEの文脈でメイクビリーブを含まないという見解にコミットする。なおマイノング主義者もEの文脈でメイクビリーブなしの指示を認めるが、マイノング主義とトマソンの違いは、指示される対象がマイノング的対象なのか抽象的人工物なのかの違いになる。
一方、ウォルトンなどの反実在論の立場では、フィクショナルキャラクターはいかなる意味でも存在しないので、このケースでもメイクビリーブが用いられる。反実在論に対するトマソンの批判点は、主にここに集中している。ここでメイクビリーブが用いられるというのはおかしいからだ(逆に言うと、そこ以外にはそんなに対立はなく、トマソンはおおむねウォルトンの立場に近いことを認めていると思う)。

違いは以下のようになる。ちなみに一番違うポイントは、作品内で抽象的人工物が指示されるかどうか。

文脈 1999 2003
A. 抽象的人工物へのde reメイクビリーブ de dictoメイクビリーブ
B. 人へのde reメイクビリーブ 人へのde reメイクビリーブ
C. 抽象的人工物へのde reメイクビリーブ 先行する作品をde re的に指示しつつ、de dictoメイクビリーブ
D. 抽象的人工物へのde reメイクビリーブ de reでもde dictoでもいい
E. 抽象的人工物への指示 抽象的人工物への指示

1999年の立場は非常にシンプルで、キャラクター名が表われるいかなる文脈でも、抽象的人工物を指示するか、抽象的人工物についてde re的メイクビリーブを行うかのいずれかしかない。作品内でのキャラクター名の使用と、実在する人物名の使用には、de re的に指示される対象が抽象的人工物なのか人なのかという違いしかない。
若干不自然な点もあって、作品内でのキャラクター名の使用は、何も指示していないように見えるのに、抽象的人工物をde re的に指示していると言わなければならないこと。作品内での、「ホームズはこれこれだ」と言った発言は、ホームズという抽象的人工物について、メイクビリーブゲームを行っていることになる。
この問題のため「一長一短だけど次のような立場でもいいよ」ということで、2003年の立場が提示された。従来の立場に近い人としてSalmon、新しい立場に近い人としてKripke、Schiffer、van Inwagenがあげられている。
抽象的人工物が作られるタイミングは両者の間で違っていて、1999年の方だと作品内での最初の名前の使用で作られ、それ以降はde re的指示を行なう。2003年の方だと、抽象的人工物に言及できるのは作品が書かれて以後になる。
また1999年の立場だと、キャラクター名の使用と実在する人物名の使用を同じように扱えるので、その点がマイノング主義に対するアドバンテージだとされていた。しかし2003年の立場だと、このアドバンテージはなくなってしまう。また、いかなる対象も指示しないので、作品内の文が不完全命題になってしまうといった問題も指摘されている。先行する作品のキャラクター名を使用するケースも複雑になる。
個人的には総じて1999年の立場の方がいいような気はしているが、作品内でのキャラクター名の使用は実際難しい。


ちなみに、クリプキが2003年の立場に近い立場を提示したジョン・ロック講義は去年ようやく出版されたので今度読んでみよう。
Reference and Existence: The John Locke LecturesReference and Existence: The John Locke Lectures

あと『名前に何の意味があるのか』がどっちの立場を取っていたか確認しようとしたが、本が見つらない。
名前に何の意味があるのか: 固有名の哲学名前に何の意味があるのか: 固有名の哲学