Alberto Voltolini「フィクショナルキャラクターの間作品的「同一性」と作品*内同一性」

http://philpapers.org/rec/VOLCIA-2
Voltolini, Alberto (2012). Crossworks ‘Identity’ and Intrawork* Identity of a Fictional Character. Revue Internationale de Philosophie 66:561-576.

某氏が以前、フランスの分析哲学雑誌のフィクションの哲学特集号をくれたんだけどそれに入っていた。PDFも公開されている。


これは先日紹介したトマソンの二つの立場に関わる。とりあえず立場に名前を付けておく。

参考: アミ・トマソンの立場の変更点 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

創造説
フィクション作品はフィクショナルキャラクターを指示しない。それは全体としてキャラクターの命名行為や定義のような作業を行なうだけである。先日2003年の立場と呼んだものがこれ。
指示説
フィクション作品は、抽象的人工物としてのキャラクターについて何かを述べる。シャーロック・ホームズという抽象物について、それが探偵であるというメイクビリーブを展開したりする。先日1999年の立場と呼んだものがこれ。


著者は創造説の延長線上にある立場から、キャラクターの間作品的同一性と作品内同一性について議論している。


著者によれば、キャラクターの同一性の理論は以下を認めなければならない。

  • キャラクターの発展: 制作者が作品を書き上げるその過程で、キャラクターは様々な性質を得たり無くしたりする。
  • キャラクターの輸入: 他の作品のキャラクターを輸入してくる時、キャラクターは様々な性質を得たり無くしたりする。

しかも、キャラクターの作品内同一性と間作品的同一性は実は同じものである。例えば、途中のバージョンが公開されている作品がある。『不思議の国のアリス』の最初のバージョンである『地下の国のアリス』など。
『地下の国のアリス』と『不思議の国のアリス』は一部のキャラクターを共有しているが、違いもたくさんある。ハートの女王は後に二つのキャラクターに分裂したりしている。
こうした作品のバージョン間の違いと、作品間のキャラクターの同一性には、本質的な差はないと著者は言う。もし途中のバージョンが出版されていないとしても、一連の制作活動の間、作者は同じキャラクターの創造を行っていたはずだし、その創造過程でキャラクターは性質を得たり無くしたり、かなりラディカルな変更を受ける。


では、キャラクターの同一性とは何なのか。著者によれば、作品の制作はキャラクターの創造行為だが、私たちはこのプロセスをやり直したり、再開することができる。ホームズパロディを書く時、作家はコナン・ドイルのはじめた創造的メイクビリーブ(ごっこ遊び)を復活させる。キャラクターの同一性は、この復活したメイクビリーブのプロセスの中でのみ成り立つ。同一作品のバージョン間でも同じで、メイクビリーブのプロセスをやり直したり、再開することで、同一のキャラクターをどんどん変えていくことができる。
ただし、この同一性が成り立つのはあくまでメイクビリーブの中の話だ。それによってできあがる抽象的人工物としてのキャラクターは元のホームズとは別のキャラクターになる。例えば島田荘司のホームズとドイルのホームズは別。
作品の途中のバージョンの場合はどうなるかというと、ここはかなり変なことを言わないといけない。著者によれば、作者がメイクビリーブの外に出て、反省的スタンスに立ってキャラクターをキャラクターとして名指すたびに新しいキャラクターができる。バージョン管理システムみたいに、コミットするたびに新しいバージョンのキャラクターができる仕組みだ(そんな言い方はしてないが)。


一方、指示説だとどうなるか。指示説の場合、作品は抽象的人工物を指示し、それについてメイクビリーブするだけだ。これは基本的に歴史上の人物についてメイクビリーブするのとあまり変わらない。
なので、この立場だと、途中のバージョンも、他の作家の他の作品も、厳密に同じキャラクターに関わる。織田信長について書いた作品が複数あるのと同じで、シャーロック・ホームズについて書いた作品もたくさんある。
ただ、この場合、抽象的人工物がそれによって変化するのかどうかはよくわからない。普通に考えると、織田信長について書いた小説は織田信長の内在的性質を少しも変えない。抽象的人工物の場合もそうなのかもしれない。あるいは、そこは選択の余地があるのかもしれない。