John MacFarlane「相対主義」

John MacFarlane, “Relativism”, in The Routledge Companion to the Philosophy of Language, ed. Delia Graff Fara and Gillian Russell (New York: Routledge, 2012), 132-142.
http://johnmacfarlane.net/relativism-routledge.pdf


意味論的相対主義に興味があるのでちょっとずつ読む。
これはRoutledge Companion to the Philosophy of Languageの記事。手短に読めていいかと思ったが、短すぎてむしろ難しかった。


例えば、太郎が次のように言う。
「青汁は美味しい。」
文脈主義者によれば、「青汁は美味しい」という太郎の主張は、太郎の趣味と青汁の関係について述べている。この主張は、太郎の趣味と青汁の味が適合している場合に正しいものとなる。
ところが、これでは不同意の問題に説明がつかない。
例えば次郎が太郎の発言を受けて、
「ノー、青汁は美味しくない」
と主張する。こうしたやりとりはしばしば見られるものだ。
しかし、「美味しい」が文脈主義者の言うようなものだとすると、このやりとりは意味をなさない。
文脈主義者によれば、次郎は次郎の趣味と青汁の味が適合しないと主張していることになる。しかしその場合、そもそも太郎と次郎の間には意見の不一致はない。青汁の味が太郎の趣味と適合し、次郎の趣味と適合しないことには何の矛盾もないのだから、次郎はここでノーと言うべきではない。
一方、相対主義は先の主張を異なったものと見なす。「xは美味しい」という主張の正しさは、発話の文脈だけではなく、評価の文脈にも依存する。
「青汁は美味しい」は、青汁の味に適合する趣味の観点から評価された時に正しい。この場合、太郎の主張は、太郎の観点からは正しく、次郎の観点からは正しくない。
ちなみに評価の文脈はいろいろな要素で変化する。人によって変わることもあるし、時点で変化することもあるし、条件文の前件といった言語的要素で変化することもある。


認識様相でも同じ問題があって、
太郎「花子がパーティに来るかもしれない」
次郎「ノー。花子は風邪だから来ないよ」
といったやりとりに関して。太郎の元の主張は、太郎が持っている信念の集合からは正しいが、次郎が持っている信念の集合からは正しくない。これも評価の状況によって主張の正しさが変わると考えないと扱うのが難しい。


あともっと形而上学的な例で、非決定論的世界を考えよう。
10/1に「明日雨が降る」と主張した場合、10/1にはこの主張は正しくない(未来が決定していないので)。しかし次の日に雨が降った。その場合10/2の観点からはこの主張は正しい。
つまり10/1になされた主張は10/1の観点からは正しくないが、10/2の観点からは正しいみたいなことも認められる。


以前Niko Kolodny, John MacFahlaneの「もしとべき」も紹介したが、これはこの意味論的相対主義の考え方を義務様相に適用したもの。
[ethics][lang] Niko Kolodny, John MacFahlane「もしとべき」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ