George Wilson「文学と映画の捉えにくい語り手」

http://philpapers.org/rec/WILENI
Wilson, George M. (2007). Elusive narrators in literature and film. Philosophical Studies 135 (1):73 - 88.

物語の語り手に関するもの。一応タイトルには映画も入っているが、文学の話がメインだった。


虚構の物語には、常に虚構の語り手がいるのか? これは文学論における古典的な問いだが、近年もそれなりに盛んに議論されている。
明確に虚構の語り手がいると言われるのは、キャラクターの一人称の文体のケース。例えば、ホームズシリーズは、ワトソンの一人称で語られる。この場合、現実の作者以外にワトソンという虚構の語り手がいることは認められてよいし、それを疑う人は特にいない。
問題は、三人称の文体で語り手を作中のキャラクターと同一視できないケースだ。正確には、「三人称で、認識に制限もなく、非人格的で、他の面では後退的な語り手」。著者はこうしたケースの多くでも「最小限の行為者」が虚構の語り手となると言う(常に、というわけではないらしい)。


これには反対者もたくさんいて、反対者によれば、三人称ケースの多くは、現実の作者が虚構の出来事を提示するだけで、虚構の語り手はいない。
ただし、ここはややこしくて、語り手を作者と同一視できるとしても、それだけで虚構の語り手がいないことにはならない。例えば、『神曲』の語り手は作者であるダンテだが、ダンテは『神曲』の主人公でもある。『神曲』の場合、キャラクターであるダンテが虚構の語り手でもあると見なすのが自然だろう。作者は虚構内に登場することもできるのだ。
同様に、語り手をキャラクターと同一視しづらい三人称ケースでも、作者の対応物が虚構内に存在し、虚構的に語っていると見なすことはできるだろう。この場合語り手はキャラクターとも言いづらい、「最小限の行為者[minimal agency]」になる。


Wilsonによれば、多くの場合読者が従事するのは、以下のようなフィクションのゲームである。

  • 虚構内で、語り手がPと主張する。

私たちはこの虚構的な主張行為を受け入れ、そこから以下のように推論する。

  • 虚構内で、P。

この場合、語り手の主張は虚構内でなされる言語行為だ。主張行為が虚構内でなされるのだから、私たちは、この主張を行なう語り手を虚構の語り手と見なさなければならないだろうというわけだ。


つまり、反対者との対立点は、語り手の主張が虚構内のものかどうかになる。

反対者の意見
語り手(現実の作者)は、{虚構的にP}と(現実で)主張する。
Wilsonの意見
語り手は、{P}と虚構的に主張する。

少なくともWilsonのように考えるならば、読者は、主張を聞いてそれを受け入れるという普通の過程を虚構内でやっているだけだ。これは、フィクションの語り手は「主張するふり」をしているという伝統的な立場とほぼ変わらない。
一方、反対者は、「虚構的なものとして(現実に)主張する」ということが一体何を意味するのか説明しなければならないだろう。さらに、フィクションの地の文に登場するのは「主張」だけとはかぎらない。語り手は「仮定する」「問う」といった行為もするだろう。「虚構的なものとして(現実に)主張する」だけならともかく、「虚構的なものとして(現実に)問う」といった行為は果たして意味をなすだろうか。


なお、Wilsonはこれは映画にもあてはまり、映画の場合、語り手は虚構内で映像の提示をすると考えるらしい。しかも、視聴者が見る映像は、複雑なカメラワークがなされた「映画のようなショット」なので、虚構内でも「映画のようなショット」が提示されると考える。
小説の場合Wilsonの議論にはそれなりに説得力があると思うが、映画の場合はかなり無理があるような気がする。