Anthony Everett「フィクション実在論に反対」

http://philpapers.org/rec/EVEAFR
Everett, Anthony (2005). Against Fictional Realism. Journal of Philosophy 102 (12):624 - 649.

フィクショナルキャラクターは存在するという立場への反論。


われわれはフィクショナルキャラクターについて、文字通りの真実を話すことがある。例えば、以下のようなものがそれだ。

  • ラストコリーニコフというキャラクターはドストエフスキーによって作られた。
  • ラスコリーニコフはアリョーシャよりリアルなキャラクターだ。
  • ラスコリーニコフ以後にしか描かれえなかったキャラクターがいる。


普通に考えると、これは存在する対象について文字通りのことを言っている。


一方、この論文は、それに反対している。フィクショナルキャラクターの存在を認めると、われわれは存在や同一性が不確定な対象を認めることになってしまう。


まず以下の原則を認める。

P2: aとbがあるストーリーに含まれ、現実のものではなく、aとbがストーリーの中で同一である iff フィクショナルキャラクターaはフィクショナルキャラクターbと同一である


お話の中で同一であるキャラクターは、現実にも同一である。例えば、これによれば、ラーメンマンモンゴルマンは同一のキャラクターである。
しかし、フィクショナルキャラクターは多くの部分が不確定である。ホームズの髪の毛の本数や正確な身長は不確定だろう。
そうなると、フィクションの中で同一であるかどうか不確定な対象、存在するかどうか不確定な対象もあるだろう。例えば、同一であるかどうか、存在するかどうかをあえて確定させない作品もあるだろう(エベレットはいくつか例をあげている)。
これとP2から、キャラクターの存在を認めると、その中には存在が不確定なもの、同一性が不確定なものがあることになる。
しかしわれわれはそんなものを認めるべきではない。
従ってエベレットによれば、キャラクターについて文字通りのことを言っているように見える発言は文字通りのことを言っていない。ドイルがホームズを作ったことも、「ホームズは探偵である」みたいな「ふり」や「ごっこ」の一種と考えるべきだと。

感想

まあどう考えてもP2が強すぎる。
Everettは、あるキャラクターらしきものが作品の中で、「実は存在しなかった」ことがわかった時、創作物としてのキャラクターも存在しないことになると考えているらしい。しかしこれは変だろう。この場合、夢オチの作品は、登場するキャラクターのほとんどを創造しないことになる。
ラーメンマンモンゴルマンが同一のキャラクターかとか、シャアとクワトロが同一のキャラクターかというのも疑問だ。
あと、キャラクター反実在論によると、われわれは「ドイルがポーの影響で、ホームズという探偵を創作した」と言う時、まずドイルがホームズを創造したという想像をし、さらにホームズが探偵であるという想像もしていることになる。しかし、これは意味不明で、ドイルが人間の探偵を創造したというのは一体どういう想像なのか。ドイルが神みたいな存在で、粘土を捏ねてホームズを作ったということなのか。ホームズが創作物であることと、人間の探偵であることは、まったく両立しないだろうと思われる。