読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Derek Matravers『フィクションと物語』のウォルトン論

fiction

Fiction and NarrativeFiction and Narrative

今年の7月に出た本。最近読んでいるが、二章のウォルトン論はいい感じなのでまとめておく。
ウォルトンは、フィクションについて、メイクビリーブ理論と呼ばれる理論を立てている。これは、子どものごっこ遊び[make-believe]をモデルに、フィクションを捉えるものだ。ただ、ウォルトンの言っていることはどこにポイントがあるのかよくわからなかったりするので、著者のまとめは啓発的だった。


まず、ごっこ遊びの場合、現実の事柄と、ごっこ(フィクション世界)の中の事柄に対応がある。例えば、泥と箱をパイとオーブンに見たてて遊ぶ場合、現実の真理は右のようなフィクション世界の真理に変換される。

現実世界の真理 フィクション世界の真理
泥のかたまりがある パイがある
箱がある オーブンがある

さらに、ウォルトンによれば、こういう風に現実の真理からフィクション世界の真理に連れていってくれるものは、想像に対する指図である。「この泥のかたまりがパイであると想像せよ」「この切り株が熊であると想像せよ」等々。


Matraversはここで実際にはウォルトンが二つのことを言っていることに注意を向ける。
ひとつ目は、現実世界の真理をフィクション世界の真理に変換すること。もうひとつは、この変換を行なうものが、想像に対する指図であること。
Matraversはそれぞれ名前を付けている。

「変換の基準[transformation criterion]」
現実世界の真理がフィクション世界の真理に変換される。
「参与の基準[engagement criterion]」
想像が用いられる。

実際にはウォルトンはこの二つの両方をフィクションを特徴付ける基準として使っている。
なお、ごっこ遊びや小説などのケースで、なぜ想像がなされていると言えるのか?
著者によると、二つポイントがあって、一つはパースペクティブ。われわれは、あたかも自分の目の前に熊がいるかのように、あるいは目の前で登場人物が語っているかのように感じる。ごっこ遊びの場合も、フィクションの場合も、想像はしばしばこのようなde se的な(自己についての)ものである。もうひとつは、鮮烈さ[vivacity]。それらの経験は、生き生きとしたものである。
これら二つが満たされているものは、想像と呼んでもいいだろうというわけだ。


ところが、ここからMatraversの解釈だが、実際には、変換の基準と参与の基準が食い違っており、両者は緊張関係にある。
Matraversによれば、そもそも小説など言語的フィクションの多くで変換の基準は成り立っていない。
例えば、「シャーロック・ホームズという探偵がいて、ロンドンに住んでいて云々」というフィクションの真理があるというのはいいとしよう。では、それに対応する現実の真理は何なのか。さっきの表で書くと、

現実世界の真理 フィクション世界の真理
??? ホームズという探偵がいる

この点で、ごっこ遊びとフィクションのアナロジーはあまり成り立っていない。ウォルトン自身があげているのは、著者の発言が虚構の語り手の発言に変換されるという例だが、こういうケースも常に成り立つわけではない。普通に考えると、小説の地の文は現実でもフィクション世界でも、同じ内容を持っているのではないか。つまり、普通の小説で、変換の基準は成り立っていない。


一方、想像の基準だけを使うと、当てはまるものはあまりにも多くなる。フィクションにかぎらず、伝記や歴史を含め、物語はすべて、目の前で起こったものであるかのような想像を指図するからである。ちなみに、ウォルトンは、絵画は内容に関わらずすべてフィクションであるとしているのだが、その基準でいくと、やはり物語はすべてフィクションだと言った方がよいだろう。

著者はこの方向に共感している。実際にウォルトンが言っているのは、フィクションとノンフィクションの区別よりも、表象と直面接触の区別の方が根本的だということだと。つまり、われわれは、フィクションとノンフィクションの区別ではなく、想像を用いる表象というより根本的なカテゴリーに注目した方がいい。本の後半では、物語と想像の話をつっこんで展開している様子。


これはかなり清塚さんと似た立場である。
フィクションの哲学フィクションの哲学