gnck「画像の問題系 演算性の美学」

合評会があるらしいので読んだ。行けなくなりそうなので、ここに感想などを描く。
第15回 『美術手帖』芸術評論募集
KoSAC「画像の問題系 演算性の美学」合評会 - 凸と凹の間



とりあえず、課題としてこういうことが行われているのだろうと理解したことを描く。

まず以下のような美意識がある。

P: 絵画は、ただの絵具でしかないのに、像を表現できる。しかも筆触によって、ただの絵具でしかないことを意識させながら、像を表現できるのが良いところだ。

あと以下のような対比がある。

透明な絵画
ただの絵の具でしかないことを意識させず、ただ像を描く。これはメディアに対して非反省的に乗っかっていてつまらない。
不透明な絵画
絵の具など、絵画のメディアを意識させながら像を描く。そこに美しさがある。


一方、Pの現代版として、デジタル画像における不透明な絵というものがあると。それは例えば、ドット絵やjpegの質感をうまく使った画像である。で、豊富な具体例とともに、そこにどういうよさがあって、どういう特徴があるかを見ていく感じになっている。


上の課題については、jpegの質感をいかした絵とかかっこいいよねとか、そのレベルではわかる。
まあそれは置いておいて、適当に思ったことを書く。
ちょっと気になるのは、絵画はイリュージョンだとか、不透明な絵画とか、もはやクリシェだ。絵画がイリュージョンかどうかって、描写の哲学でも議論はあって、哲学史的には、ゴンブリッジが絵はイリュージョンだって言ったんだけど、これをそのままの形で受け入れる人はもうあまりいない。


例えば、どんだけ写実的な絵画でも、あるいは写真でも、絵と実物を見間違えることなんてほとんどない。すごーく普通の絵でも、絵って、基本的には絵だということを理解しながら見るものだろう。この意味で、イリュージョンという言葉はあまりよくない。
これは、上のような対比が意味をなさないだろうと言っているわけではないことに注意。筆触をうまく使った絵はあるだろうけど、それを特徴づけるのに、「イリュージョン」って言葉はダメなんじゃないかという話。イリュージョンって言ってしまうと、「本物だと思うか、偽物だと思うか」みたいな認知の話になってしまうんだけど、それは違うんじゃないかと思う。そういう話なら、イリュージョンを実現してる絵なんてほぼない(もしあるとすればだまし絵みたいなやつ)。


本当の問題がどこにあるのか少し考えてたんだけど、歴史的にイリュージョンという言葉で問題にされていたのは、実際は上のような錯覚の問題じゃなくて、絵っていうのは、表象であり、記号なんだけど、知覚的な表象なんだと。知覚的な表象だから対象がそこに「見える」んだけど、それはあくまで本当はそこにない対象の表象であるという辺りの緊張関係かなーと思った。この話は難しいので、これ以上言えることはあまりない。


まあ私は、当日は好きなアイドルのラストライブがあって行けないので、行ける方はがんばってください。