Irmak, Nurbay (2012). Software is an abstract artifact. Grazer Philosophische Studien 86 (1):55-72. Nurbay Irmak, Software is an abstract artifact - PhilPapers
存在論って二種類あって、
- ひとつは、「物理的なものしか存在しない」みたいな偏狭な世界観から出発して、その世界観の中にいろいろなものを位置付けようとする(あるいは、うまく位置づけられなくて元の世界観を微修正していく)
- もうひとつは、常識的にあると考えられている(あるいは語りや思考の対象である)ものは全部認めた上で、それらのものの同一性や存続の条件を与える
私は後者の方が好きなのだけど、著者はここで明確に後者をやっている。対象となるのは、ソフトウェア。firefoxとかWindowsなどのことだ。これらはどのような存在者であり、どのような同一性の基準をもつのか?
アイデア一発型の論文だが、おもしろかった。
目次
- ソフトウェアの存在論
- ソフトウェアと音楽作品
- 抽象的人工物としてのソフトウェア
- 結論
著者によれば、ソフトウェアは、アルゴリズム、(ソースコードの)テキスト、そのコピー、実行過程などと密接に関係するが、そのいずれとも同一視されない。さらに、同一性や変化に関して以下のことが認められる。
- ソフトウェアは人工物であり、人間によって作られる(適切な意図をもった人間の活動によって存在しはじめる)。
- ソフトウェアの通時的な同一性には、歴史的連続性と起源の同一性が必要である(偶然まったく同じソースコードを書いた人がいてもそれは同じソフトウェアとはかぎらない)。
- ソフトウェアはアルゴリズムやテキストが変化しても同一であり続ける。
ソフトウェアは、物理的な素材や時空位置をもたないが、作られたときに存在しはじめ、持続し、変化し、存在しなくなることもある(あらゆる記録が失われれば消える)。
例えば、Firefox 6.0.1とFirefox 6.0.2はテキストやアルゴリズムはわずかに変更されているが、同一のソフトウェアだろう*1。
著者は、レヴィンソンの音楽作品の存在論を参照し、これはソフトウェアにもかなりの部分適用できるだろうとしている。レヴィンソンによれば音楽作品は指し示された音構造であり、音の抽象的構造と、歴史的な創作行為の双方によって個別化される(要するに偶然同じ音構造をつくった人がいても、著者が違えば別の作品とされる)。
しかし、レヴィンソンの立場だと、ソフトウェアの通時的変化を認められない。そこで著者は、ソフトウェアは、アミ・トマソンの言う抽象的人工物であるとしている。法や言葉など、人間の作る人工物には物質的でないものもある。ソフトウェアもその一種なのだと。
感想
基本的には「同一のソースコードから派生したもの、同一のソースコードを修正して作られていれば同一のソフトウェアだ」という感じで、それは直観には合うし、実際それに近い判断はしていると思う。例えば別の人がつくったテトリスはそれぞれ別のソフトウェアだよね。
また、通時的変化も、ソフトウェアの場合かなり認めたくなるのだが、法や音楽作品には通時的に変化すると言いたくなる事例がそれほどないので、おもしろい特徴だと思う。
あとよく考えると、Webサービスはなぜかちょっと判断が変わる。twitterのソースコードでtwitterクローンを立ちあげ、データを共有しない別のサービスをはじめても、「それはtwitterではない」と言いたくなるような気がする*2。