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Kendall Walton「ソウトライティング - 詩と音楽における」

タイトルになっているthoughtwritingは訳せなかったのだけど、ウォルトンの造語にあたる。スピーチライティングのもじりだ。スピーチライティングが代筆だとすれば、代思とでもすべきかもしれない。

スピーチライター(代筆者)は、他の人が読みあげるための文章をつくる。スピーチライティングとは 、スピーチライターがそのために書いた文章のことだ。ソウトライター(代思者)は、他の人が自分の思考を表現するために使う文章をつくる。ソウトライティングとは、ソウトライターがそのために書いた文章のことだ。

ウォルトンはこの論文で、詩と音楽はソウトライティングだという話をしている。

In Other Shoes: Music, Metaphor, Empathy, ExistenceIn Other Shoes: Music, Metaphor, Empathy, Existence

Walton, Kendall (2011/2015). Thoughtwriting—in Poetry and Music. In Kendall L. Walton (ed.), In Other Shoes: Music, Metaphor, Empathy, Existence. Oxford University Press 54-74.

http://philpapers.org/rec/WAL_PA-6

目次

  1. 詩と音楽
  2. 語り手とペルソナ
    • 文学
    • 音楽
  3. 内側からの経験
  4. スピーチライター
  5. ソウトライターとしての詩人
    • フィクションかノンフィクションか?
    • 想像、フリ
    • 想像的抵抗
  6. 可能なものは現実的か?
  7. 明確化: 2つの「盗用」
  8. なぜとりわけ詩なのか?
  9. 音楽
  10. ちがい - 類似のなかの

ソウトライティングが何と対比されているかというと、小説や演劇などのフィクションだ。小説や演劇の場合、キャラクターや虚構の語り手が鑑賞者に向って語りかける。そこでは語り手の思考や感情が表現される。それは自分に語りかける誰かの思考や感情として、「外側から」経験される。

一方、音楽や詩も思考や感情を表現すると言われる。楽しい音楽や悲しい音楽やソウルフルな音楽があるだろう。しかしそれは誰の思考や感情なのだろうか? 詩や音楽にも虚構のキャラクター(ペルソナ)がいて、その人が思考を表現しているのだろうか。この論文では、この見方を批判し、ソウトライティングというモデルを提案している。

ソウトライティングのイメージは、ひとまずわかりやすいところでは、カラオケでいいと思う(ウォルトンはカラオケはあげてないけど)。カラオケで歌うとき、歌によって思考や感情を表現しているのは、架空のペルソナではなく、あなた自身だ。例えばカラオケでGet Wildを歌うとき、あなたは、曲の力を借りて、ちょっとかっこつけた気分を表現する。もちろん、歌うことは話すことではないから、それはいくらか想像上のあなたかもしれない。ベタな例をあげれば、たとえそのとき恋愛をしていなくても、ラブソングは歌えるだろう*1

こうした事例では、曲をつくった人や歌詞を書いた人と、それを使って思考を表現する人は別々になる。これは奇妙に感じられるかもしれないが、必ずしもめずらしい状況ではない。例えば、市販のクリスマスカードを贈るとき、「メリークリスマス!」と発話しているのは、カードをつくった人ではなく、カードを贈った人だ(そして、もし他人が作った表現を使えないならば、スピーチライターという職業は成り立たない)。

カラオケやクリスマスカードはあまり創造的な事例ではないけれど、実際にはソウトライティングの事例は無数にあり、そこには簡単なものから非常に複雑なものまである。歌うこと、楽器で演奏すること、朗読すること、曲に合わせて体を動かすこと、ダンスすること等々。たとえ、自分の体を動かさなくても、私たちは時に、音楽を聴いたり、詩を読むとき、自分の思考や感情がそこに表現されているかのように捉える。それが作品をソウトライティングとして使用することにあたる。

ウォルトンは音楽と詩は「内側から」経験されるが、小説や映画は「外側から」経験されるというよくある比喩を最初に持ち出しているが、そのちがいはこういうことだろうという話をしている。作品を発信者、鑑賞者を受信者とするモデルに代わるような、おもしろい発想だとは思う。

適当に表にした。

フィクション ソウトライティング
経験 外側から経験される 内側から経験される・身体的
虚構的真理 ある ない(あっても、ゲーム世界のみ)
思考の表現 キャラクターや虚構の語り手が話す。鑑賞者が聞く 実演者・鑑賞者が自分の思考を表現する

*1:こうした事例は、いくらかフリやごっこの事例に近いが、いわゆる虚構的真理がないのでフィクションではない。ウォルトンはその場合、自分の用語でいうと「作品世界はないが、(鑑賞者がごっこする)ゲーム世界はある」と言えるかもしれないとしている。