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John MacFarlane「未来の偶然者と相対的真理」

relativism

マクファーレンは意味論的相対主義ないし分析的相対主義と呼ばれる立場の主要な擁護者である。
これは最初に意味論的相対主義を提示した論文にあたる(だったはず)。意味論的相対主義は、趣味や倫理的言明など、様々な領域の発話に自然な意味論を与えるが、ここで問題になるのは時間だ。非決定論的世界における未来の言明という形而上学的にも興味深い問題である。
MacFarlane, John (2003). Future contingents and relative truth. Philosophical Quarterly 53 (212):321–336.
http://philpapers.org/rec/MACFCA-2


目次

  • 1. 未来の偶然者の問題
  • 2. 非決定論的直観
  • 3. 決定論的直観
  • 4. 発話の真理の絶対性
  • 5. 相対的真理のフレームワーク
  • 6. エヴァンズの挑戦に応える
  • 7. 結論

さて、世界が非決定論的であるとしよう。この仮定上の世界で、ある時点における発話「明日海戦が起きる」はどのように真偽を割り振られるべきだろうか。


図は論文から引用した。
m0が発話の時点。世界は非決定論的なので、この先の未来はh1とh2の二つに分岐している。h1は海戦が起きる歴史、h2は海戦が起きない歴史。m1、m2はそれぞれm0から見て未来の時点。重要な点として、ここで想定される非決定性は客観的なものだ。m0時点で、未来は単に知ることができないだけではなく、客観的に未決である。


マクファーレンは、非決定論的世界の発話に関して、非決定論的直観と決定論的直観の両方があることを指摘している。まずm0時点に着目しよう。太郎はm0時点に「明日海戦がある」と主張する。次の日に海戦があるかどうかは未決なので、「明日海戦がある」の真偽も未決であるはずだ。よって、この発話は真でも偽でもなく、未定義となる。これが非決定論的直観だ。
一方、時間が進み、h1が実現し、m1時点が到来したとしよう。m1時点に着目すると、うって変って、問題の発話は真だったと自然に評価できるだろう。
m1時点において以下のように考えることに特に問題はなさそうだ。

  • 太郎は昨日、翌日に海戦があるだろうと主張した。
  • 今日海戦があった。
  • 太郎の主張は真だった。

しかしそれならば、太郎の主張は確定的に真であるはずだ。これが決定論的直観だ。


ほとんどの説明は、非決定論的直観か決定論的直観のいずれかを捨てる。一方には、太郎の発話は真でも偽でもないと考える人々がいる。もう一方には、太郎の発話は確定的に真か偽かのいずれかだと考える人々がいる。
マクファーレンは、確定的に真偽が定まると考える人々を次のように批判している。
確定派は次のように考える。たとえ、世界が非決定論的だとしても、現実の歴史において海戦が起きるならば太郎の発話は真である。起きないならば偽である。
しかし、「現実の歴史」とはなんだろう。このシナリオでは、m0時点でいずれの歴史も客観的に確定していないものとして約定されていた。もし仮にm0時点で現実の歴史によって真偽が定まるなら、それはこの約定に反するだろう。それでは世界が非決定論的ではなくなってしまう。
二値論理はしばしば神の視点に立つと言われるが、マクファーレンはおもしろいことを言っている。m0時点で発話に真偽を割り振る意味論者は十分に神の視点に立っていない。それはm1やm2時点に立って過去を振り返る人の視点だ。正しく神の視点に立てば、約定通り、m0において、未来は知ることができないだけではなく、未決であり、真偽は定まらないと考えるべきだろう。


ではどう考えるべきなのか。マクファーレンの解決は次のようなものだ。太郎の発話は、m0時点で真でも偽でもない。m1では真、m2では偽である。これは非決定論的直観と決定論的直観の両方を満足する。m0時点では真偽はまだ未決であり、m1時点では真になる。これは哲学を学んでない人が自然に認めているようなことだ。
しかし哲学者は、発話の真偽を絶対的なものだと考える傾向にある。発話は端的に真か偽か未定義である。発話の真偽を決定するのに、発話の文脈以外のパラメーターは必要ないと。しかし、正しい説明を与えるにはその態度を捨てる必要がある。発話の真偽は、精査の観点[point of assessment]にも相対的であることを認めよう。
正確に言うと、ある文脈における発話の真偽決定には、各時点ごとの真偽(評価環境[circumstance of evaluation])を参照するプロセス(真意味論[semantics proper])と、それらをまとめあげ、特定の文脈における発話の真偽を定めるプロセス(後意味論[post semantics])がある。前者のプロセスにおいて各時点ごとの真偽を認めるのは、普通の二重指標理論だが、マクファーレンは後者の真偽が精査の観点によって変わることを認める。これは真理に関する相対主義だ。
(追記:2015-03-02 少し修正)


後半では、主張の規範はどのようなものかという議論によって、相対的真理に対するエヴァンズの批判に答えている。こちらも非常におもしろいが、長くなるので省略する。なお、意味論的相対主義に対するマクファーレンの総体的な擁護は去年でた以下の著作にまとめられている。意味論的相対主義は、時間だけではなく、趣味、知識帰属、当為(べき)、認識様相などに対して適用される。時間に関して奇妙な現象があるというのではなく、これが自然言語においてありふれた現象だという立場なのである。

Assessment Sensitivity: Relative Truth and its Applications (Context And Content)Assessment Sensitivity: Relative Truth and its Applications (Context And Content)


個人的には、マクファーレンの立場は非常に正しいように思われ、かなり説得されている。時間だけではなく、認識様相や趣味に関しても、相対主義は非常に自然な説明を与える。しかしこれを受け入れると時間の形而上学も、かなり変えないといけないのではないだろうかと思っている。上のような意味論を認めた時に、果して永久主義のような立場が維持可能なものかどうか、私にはよくわからない。