読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

キャラクターの存在論および意味論に関するウォルトンの立場

fiction

Mimesis as Make-Believe: On the Foundations of the Representational ArtsMimesis as Make-Believe: On the Foundations of the Representational Arts

『メイクビリーブとしてのミメーシス』の10章および11章で提示されているウォルトンのキャラクターの存在論および意味論に関する立場をまとめる。それなりに複雑なので一応まとめておく。
ちなみに、私はウォルトンとまったく違う立場なので、このテーマについては、ウォルトンの言っていることのほとんどすべてに対し異論があるが、とりあえずまとめに徹する。

まず、普通フィクションに関する言明はフリを含むもの(「ホームズはロンドンに住んでいる」)とフリを含まないもの(「ホームズはドイルが作ったキャラクターだ」)にわけられるが、ウォルトンは後者がフリを含まないことを否定する。フィクションについての発話には、作品に準拠した公式のメイクビリーブゲームと、より拡張された非公式のメイクビリーブゲームがある。例えば「どんな探偵小説の中にも、ホームズよりすごい探偵はいないだろう」という発言は、複数のフィクションを横断的に混ぜ合わせたような非公式のメイクビリーブゲームに参加するものと考えられる。「ホームズはドイルの創作だ」といった一見フリを含まない発言も、この種の非公式のメイクビリーブゲームと見なされる。

存在論

次に、キャラクターの存在論について。ウォルトンは反実在論なので、ウォルトンによればキャラクターは存在しない。キャラクターについての発話は常にメイクビリーブである。
ウォルトンの立場はスチュアート・ブロックなどと同様に、フィクショナルキャラクターに関するフィクショナリズムと見なせるだろう。

ではキャラクターについてはどのようなフィクションが成り立つかというと、ウォルトンは、フィクショナリスト版のマイノング主義を受け入れている(p.424)。われわれが受け入れている非公式のメイクビリーブゲームでは、キャラクターという存在しない者たちがいて、現実世界とは異なる虚構世界に住んでいる。

意味論

ウォルトンは、フィクションに関する発話の内容を、実際の内容と虚構的な内容に分ける。虚構的な内容は、だいたい見かけ通りの内容にあたる。
例えば「ホームズはすごい探偵だ」と発話することによって、話し手は、虚構的に、ホームズがすごい探偵であることを主張している。ただし、これはあくまでメイクビリーブゲームの一部なので、その言葉によって実際に意味されていることではない。

これとは別に、それらの発話によって、実際に言われたこと[what is said]や主張されたこと[what is asserted]」もある(pp.400-405)。
「ホームズはすごい探偵だ」の発話によって実際に主張されているのは次のような内容である。

ホームズシリーズによって認められた公式のゲームにおいて、Kという種のフリに従事するものは、自らをして、虚構的に真なることを言うようにせしめる。

「Kという種のフリ」と呼ばれているのは、「ホームズはすごい探偵だ」に対応する発話をするような種類のフリのことである。
柔らかくいうと、話し手は「このゲームでは、僕が今やってるみたいな発話は虚構的に真なんだよ」と主張している。

なんでこんなややこしいことになっているかというと、ここでの主張内容に「ホームズ」が入ると、ホームズというキャラクターを指示していることになってしまってまずいからである。普通だったら、ここで発話の内容をキャラクターへの指示によって個別化するのだが、キャラクターの存在を認めていないため、ウォルトンにはそれができない。話し手は、自ら特定のフリに従事することで、そのフリを聞き手に示し、「これはこのゲームでは虚構的に真だ」と言う。

話し手は、このゲームでどういう発話が虚構的に真であるかを示している。それはフリやゲームについての発話であって、ホームズというキャラクターについての発話ではない。ある発話によって、「この文脈でどういう発話が許されるか」を示すことは一般によく見られる現象であるし、フィクションに関する発話もその一例と見なされる。
なお、私にはこれは語用論的な含意に見えるのだが、ウォルトンは、これが主張の内容なのか、含みなのかはどちらでもよいとしている(p.412)。

問題点

一点だけ。前のエントリにも書いたが、ウォルトンは虚構性を想像によって定義している。従って、フィクショナルキャラクターへの指示に見えるものを含む発話がすべてメイクビリーブであるというためには、ウォルトンは、それらの発話がすべて想像という心の状態を含むものであることを示さないといけない。

しかし、なぜ〈キャラクター名の使用〉の外延が、すべて〈想像という心の状態〉に含まれるのだろうか。前者が偶然にもすべて後者に含まれるというのはありそうにない。ここには難しい対立があって、もし想像という心の状態が、キャラクター名の使用によっても特徴づけられるものだとすると、ウォルトンの虚構性の定義は循環定義になる。一方、想像という心の状態が、キャラクター名の使用からは独立なものだとすると、ウォルトンの言っているように、キャラクター名を使用している場合は常に想像しているということもありそうにない。


想像の基準は難しいが、想像に以下のような特徴を認めるのは妥当に思われる。実際、フィクション感情についての議論では、ウォルトンもこういうことを前提しているように見える。

  • 信念とちがい、他の信念や知覚などから切断されていること(インプットからの切断)
  • 信念とちがい、行為に結びつかない(アウトプットからの切断)

しかし、「十九世紀にドイルがホームズを作った」という心的態度は、「ホームズはロンドンに住んでいる」とは違い、この特徴を満たさないように見える。後者を受け入れていたとしても、私はホームズを探しにロンドンにいったりはしないし、ロンドンを探してもホームズが住んでいないことも知っている。しかし前者を認めていることは、他の行為や信念に結びつく。例えば前者を受け入れているから、ドイルの他の小説を読もうとしたりする。