James Harold「虚構世界の価値 - あるいはなぜ指輪物語を読むべきなのか」

指輪物語』は素晴しい文学作品ではないけれど、素晴しい虚構世界を作ったので素晴しいものなのだという話。
ある種の作品は、作品単体ではなく、それが作る虚構世界のために評価されるという話をしている。小ネタだけどなかなかおもしろかった。こういう特殊な鑑賞をどう特徴づけるかみたいなの大事ですね。

http://philpapers.org/rec/HARTVO-5
http://www.contempaesthetics.org/newvolume/pages/article.php?articleID=584

  • 1. 序
  • 2. 中心的ケース: ファンが愛する虚構世界
  • 3. フィクション作品を道具的に価値づけること
  • 4. フィクション作品を道具的に価値づけることは合理的でありえる

Haroldが取り上げる中心的ケースは『指輪物語』、『スターウォーズ』、『スタートレック』、あるいはホームズシリーズなどなど。これらの作品には熱狂的な「ファン」がいる。ファンは批評家とは違って、これらの作品が素晴しい作品だから愛しているのではなく、これらの作品が素晴しい虚構世界を作ったから愛している。ファンにとって、作品は虚構世界へ近付くための手段にすぎない。
これらの作品は断片的な連作で、同じ世界を舞台にした複数のエピソードからなる。それぞれの作品には同じキャラクターが登場し、成長したり生きたり死んだりする。エピソードには間があり、ファンはその間に何が起こったのか想像する。また、多くは現実世界とは違った世界を舞台にしている。

ファンにとって作品は虚構世界へ近付く手段にすぎない。例えば、

  • 1. ファンは作品以外の様々なグッズに時間とお金を費す。コスプレをしたり、フィギュアやおもちゃを買って、その虚構世界に近付こうとする。
  • 2. ファンは作品のちょっとした矛盾や謎について、その解釈をいつまでも話し合う。そういうちょっとした謎が興味をかきたてる。
  • 3. またファンは自分でもファンアートを作ったり、作品世界を舞台にしたゲーム(RPG)を楽しんだりする。

しかし作品ではなく、虚構世界を美的に評価することは、本当に可能なのか?
Haroldはちょっとおもしろいことを言っている。ウォルトンの区別では、作品には作品世界と、鑑賞者を含むゲームワールドがある。しかしゲームワールドは鑑賞者ひとりひとりによって違う世界だ。一方ファンは、コミュニティを作ることで、共同的なメイクビリーブゲームをし、作品世界とは区別される共同的なゲームワールドを作る。
また虚構世界を目的とする場合と、作品を目的とする場合で評価に関与的な要素もかわる。指輪物語なんて、ほとんど作品には関係ないようなディティールが異常にたくさん書いてあるが、そういうのがファンにとってはこの上なく魅力をかきたてるものになる。