David Liebesman「必然的に、シャーロック・ホームズは人ではない」

http://philpapers.org/rec/LIENSH
Liebesman, David (2014). Necessarily, Sherlock Holmes Is Not a Person. Analytic Philosophy 54 (4):306-318.
http://www.davidliebesman.net/wp-content/uploads/2013/11/holmes10-4.pdf

  • 1. 序
  • 2. 議論
  • 3. 反論と返答
  • 4. 結論


これはとてもいい論文だった。ホームズは必然的に人ではないというのは、クリプキの有名なテーゼだが、クリプキの議論はとても短かい。この人はそれを再構成しているのだが、かなり説得力のある議論だった。フィクショナルキャラクターを可能者と同一視するのは少なくとも非常に難しそうだ。

まえおき

まずホームズシリーズでホームズが付与されている性質の連言を「ホームズ的」と呼ぼう。「ホームズ的」には、「ベーカー街に住んでいる」「バイオリンを弾く」「探偵である」などが含まれる。ホームズ的なものは現実にはいないが、存在しうる。では他の可能世界に存在する可能者とホームズを同一視できるだろうか。
なお、哲学者は時に、ホームズ的な可能者の集まりを使って、ホームズに関する言明の真理をシミュレートしようとする。しかし、これには気をつけよう。そういうシミュレーションができるということから、ホームズの様相的性質についてただちに結論をくだすことはできない。可能な人の集まりを使ってホームズに関する真理を表現できることは、ホームズが可能な人であることを意味しない。
なお、「ホームズ的」なる連言をうまく抽出できないという立場はありえるものだが、その場合ホームズは人でありえるとする動機もあまりなくなる。これを認めるのは、帰謬法の仮定にすぎない。
(「ホームズ的」の問題は「ワトソンと一緒に住んでいる」みたいな他のフィクショナルキャラクターとの関係をうまく表現できない点にある)

論文自体はわりと厳密に書かれているが以下はざっくり説明しよう。必要な仮定は同一性の必然性と「ホームズ」という名前の指示に関するいくつかの仮定である。

議論

さて今、ホームズ的な可能者の集まりをHと呼ぼう。「ホームズ」の指示対象はHに含まれるだろうか。もし含まれるとすれば、選択肢はallかsomeのいずれかである。しかし妥当そうな選択肢はallしかない。
もしsomeであるとすると、コナン・ドイルは、小説を書く際に、Hの一部だけを(おそらくはひとりだけを)を選び出したことになってしまう。しかし、なぜそんなことが可能なのかわからない。ただし三浦俊彦氏などはこの立場を支持している。ところが、実はこの立場にはさらにまずい帰結がある。それについては後でまた触れよう。
(ちなみに、ホームズがHに含まれず、かつ可能な人であるという選択肢もなくはないが、この立場を支持する理由は何もないだろう)


さて、今ホームズがHに含まれる可能者のすべてであるとしよう。ところが、ここから矛盾が生じる。まず、Hには現実世界の存在者がたくさん含まれていることに注意しよう。現実世界の多くの人々はホームズ的でありえる。少なくとも、ホームズと同時代の人々がホームズ的でありえないとする理由は何もないように思われる。何しろここでホームズ的と言っているのは、「ベーカー街に住んでいる」「バイオリンを弾く」「探偵である」などなどの連言にすぎないからだ。とりあえず私とあなたがそこに含まれるとしよう。
wを、わたしがホームズ的である世界であるとする。wにおいて私はホームズと同一である。
w'を、あなたがホームズ的である世界であるとする。w'においてあなたはホームズと同一である。
しかし同一性の必然性より、現実世界で私はホームズと同一である。あなたもホームズと同一である。同一性の推移性よりあなたと私は同一である。しかしあなたと私は同一ではない。矛盾。


直観的には、Hに複数人々が含まれるということと、Hのすべてがホームズであることと、ホームズが可能な人であることを合わせると矛盾するのはすぐわかるだろう。複数の人々はひとりの人ではありえない。

ホームズはただひとりであるという立場

上の議論で矛盾を導くために必要なのは、「ホームズ」の指示対象の中に現実の対象が複数ふくまれていることである。従って、Hの「すべて」がホームズであるとしなくても、Hのそれなりに大きな部分が「ホームズ」の指示対象であれば矛盾が生じる。では、Hのうちのただひとりがホームズであるという立場はどうだろうか。
さっきも書いたが、この立場にはまずほとんど説得力がない。Hの中の特定のひとりについて、コナン・ドイルが語っているとする理由が特に何もないからだ。
ところが、予告したように、さらにまずい帰結がもうひとつある。この立場を取った場合、ホームズは現実に存在する人ではないことが言えなくなる


まずHには、複数の現実の対象、特に私が含まれていたのだった。この立場をとった時、私がホームズではないとする理由があるだろうか。特に何もないように思われる。Hの中の人々は、どれも、ある特定の可能世界でホームズ的である。他の可能者と私をわける基準は何もない。ドイルは現実世界の私を意図して書いたわけではないとするのは何の反論にもなっていない。もしドイルがwの私を指示することができ、wの私について書いたのならば、wの私は私なのだから、私がホームズだろう。おかしいのはドイルがwの私を指示できたという仮定であって、その仮定を認めるなら、私がホームズであることはおかしくない。


むしろ私には他の可能者よりアドバンテージがある。何しろ私はコナン・ドイルがホームズシリーズを書いた世界と同じ世界にも存在する。誕生日もホームズと同じである。
まあまじめに言うと、Hの中から私を選ぶ積極的な理由は特にないのだが、私を選ばない理由もない。少なくともこの立場の人は、「ホームズが現実に存在する可能性はそれなりにある。現実に存在する人のどれがホームズであるかはわからないが」としなければならないだろう。

結局ホームズは何なのか

Liebesmanは、「ホームズ」の指示対象は抽象的人工物か、何も指示しないかどっちかだろうとしている。少なくともそれらの立場が上の帰結と矛盾するわけではない。この帰結で困るのはホームズを可能者と同一視する立場だけである。