Kit Fine「存在論の問い」

http://philpapers.org/rec/FINTQO-2
Fine, Kit (2009). The question of ontology. In David John Chalmers, David Manley & Ryan Wasserman (eds.), Metametaphysics: New Essays on the Foundations of Ontology. Oxford University Press. 157--177.

結構前に読んだけどまとめてなかったのでまとめる。
「数であるものはあるか?」[∃x(xは数である)]という形の問いを量化の問い、哲学者がかかわる問い「数は存在するか?」を存在論の問いと呼ぼう。伝統的なクワイン型の存在論では両者は一致すると見なされていた。キット・ファインは存在量化と存在論の問いは特に関係ないのではないかという議論をしている。


存在量化と存在論の問いを結びつける立場の難点は以下

  • 存在論の問いは実質的。存在量化の問いはトリビアル
    • 2以上の素数があることから、トリビアルに数があることが帰結する。私が椅子に座っていることから、トリビアルに椅子があることが帰結する。
  • 存在論の問いは哲学的。存在量化の問いは哲学的ではない。
    • 数があるか、椅子があるかといった問題は数学や日常の問題であって哲学の問題ではない。

存在論の問いがうまくいっているケース(時間的部分はあるか? メレオロジカルな和はあるか?)では、上記の問題は生じないが、そのせいで存在量化の問いと存在論の問いが混同されてきた。
また、クワイン型存在論に典型的な「科学的な説明のために不可欠であるか?」というアプローチも特に存在論と関係ない。椅子や机やカップルの存在は特に何かを説明するために要請されたわけではない。それらの対象が説明のために必要ないから存在しないというのはばかげている。
また、日常の問いは厳密ではないが、哲学の問いは厳密というのも適切ではない。2以上の素数があることやこの部屋の中に椅子があることは厳密な真理であり、別に比喩ではない。言語データに訴えるのも適切ではない。椅子や数に対する量化は言語データによって支持されている。


また、存在論の問いが存在量化の問いだとすると、主張の強さもおかしなことになる。「自然数は存在する」という哲学者と「(負の数を含めた)整数は存在する」という哲学者を想定しよう。明らかに後者の方が多くのものにコミットしているように見える。しかし∃x(xは自然数である)は、∃x(xは整数である)より強い主張。前者から後者が帰結する。


ファインは、存在論の問いはそもそも存在量化ではなく、全称量化の形だとしている。
正しい形式は「整数であるものはすべてリアルである[∀x(Ix⊃Rx)]」。
さらに一般化して、ファインは、以下のような文演算子を提案している
R[...](...は現実の構成要素である)


この立場だと、以下の二つの主張を区別することもできる。哲学者が関わる問いの表現としてはこちらの方が自然。何が存在するかではなく、何がリアルかを問おう。

R[∃x(Nx)]
自然数が存在することはリアル
∀x(Nx ⊃ ∃φR[φx])
自然数が存在することはリアルではないが、自然数がこれこれの性質を持つことはリアル