Timothy Williamson『知識とその限界』11章「主張」

Knowledge and Its LimitsKnowledge and Its Limits

じわじわ読んでいるウィリアムソン。11章はかなり関心がある章なのでまとめるよ。この章は多分単独でも読める(かもしれない)し、この本の中では比較的読みやすいのでおすすめ(この本は全体に最悪に難しいのであくまで相対的にだけど)。
11章では、主張の構成的規則は知識ルールであるという見解が擁護される。


目次

  • 11.1 主張の規則
  • 11.2 真理説
  • 11.3 知識説
  • 11.4 知識説への反論と応答
  • 11.5 BK説とRBK説
  • 11.6 数学的主張
  • 11.7 主張することのポイント

発話行為の構成的規則とは

ある種の発話行為は、ゲームのように、何らかの規則によって構成されるかもしれない。
例えば主張という発話行為をすることが、あるルールに従うことに他ならないならば、それが主張の構成的規則にあたる。
ゲームとのアナロジーでいうと、例えばチェスのキャスリングには、構成規則がある。キャスリングをするとは、キャスリングのルールに従うことに他ならない。一方、ジャンプすることとかには構成規則はないかもしれない。
ただし、これは構成規則を満たさなければ当該の行為が成り立たないという意味ではない。チェスのルールに反するチェスのプレイもたくさんある。ここで「ルールに従う」は単にルールに合致するより広い意味で使われていて、ルールに従わないと、そもそもルールに反することもできない。ルールに合致することと、ルールに反することはともにルールに従うことである。

争点: 主張の構成的規則

さて、問題は、「主張」というもっとも基本的な発話行為の構成的規則が何であるか。主張するとは何をすることなのか。ここで想定されているのは、主張には何らかの規範的ルールがあるかもしれないこと。そしてそのようなルールの適用を受けることこそ、主張という発話行為を他の発話行為から区別する要素なのかもしれない。


ウィリアムソンが検討する主張の構成的規則の候補は

知識ルール
pと知っている時にかぎり、pと主張せよ。
真理ルール
pが真である時にかぎり、pと主張せよ。
合理的信念ルール
pと合理的に信じているときにかぎり、pと主張せよ。


もちろん主張にはそもそも構成的規則がないとか、こんなシンプルな形ではない可能性もあるが、以上のようなシンプルなルールで問題ないならば、より複雑なものを検討する必要はない。


とりあえず、直観的には、ここで争点になっているのは以下のようなことだ。誤った主張や証拠のない主張には、何か不適切な部分があるだろう。証拠もなく何かを断定的に主張することは、仮にその主張が偶然真だとしても不適切だろう。
もし、主張の規範に、「真であること」と「証拠があること」が要求されるなら、主張に保証を与えるものは知識なのかもしれない。


ウィリアムソンによれば、主張の構成的規則は知識ルールである。主張というもっとも基本的な発話行為さえ、知識から派生する(ウィリアムソンは、デイヴィドソンの有名な慈愛の原理も、真理ではなく、知識のルールであると示唆している)。本書では、知識というのは非常にプリミティブで重要なものだという見解が擁護されるが(知識優先アプローチ)、主張の構成的規則に関する議論は、その具体的な応用例の一つと言えるだろう。


ウィリアムソンは主に三つの議論をしている。以下適当に名前をつけて紹介する。

区別の議論

真理ルールは、主張の発話行為をうまく特徴付られない。なぜかというと、主張以外にも真理ルールに従う発話行為はあるからだ。例えば推測はそうかもしれない。
推測は主張よりも弱い認識的基準に従う。あるいは、「誓う」のように、主張よりも強い認識的基準に従う発話行為もある。知識ルールは、主張を、推測と誓うことの間に置くことができる。

くじの議論

主張には確かに証拠が要求される感じもするが、真理ルールの擁護者はこの要求をある程度は説明できる。証拠を持つことは、真である確率を高めることだから、真理ルールは証拠を要求するのである。ところが単なる確率は主張の保証を与えないという議論がある。

あなたは1/1000の確率で当たるくじを買った。私は、当たりの確率が低いことから、「君のくじはハズレだよ」と主張する。
さて、ウィリアムソンによればこの主張も不適切なものだ。
あなたは、私の主張に対して「どうしてわかる?」と言い返すことができるだろう。この批判は、「きみはその主張に対する十分な保証をもっていない」と理解できる。

なお、くじの例は認識論ではよく問題になるもので、くじの当たる確率がどれだけ低かったとしても、それだけでは「くじの結果を知っている」ことにはならない。もしここで知識も主張の保証も同じ振る舞いをするなら、知識ルールが支持されるだろう。

日常会話からの議論

不適切な主張に対して「なぜわかる?」とか「そんなこと知らないだろう」と言える。また、「Pだが、私はPとは知らない」は矛盾して聞こえる。知識ルールが主張の構成規則だとすると、主張の保証を与えるのは知識なので、これはうまく説明できる。

証言について

ウィリアムソンは知識ルールは、証言の認識論に関しても重要な示唆を与えるという。
なぜ知識を証言によって共有できるのかというのは、社会認識論の重要な問題だが、知識ルールはこれをうまく説明する。理想的なケースでは、何かを知っている人は、主張によって知識を伝達する。主張は、単なる真理ではなく、知識を伝達する手段である。
あと、「主張可能性」は「真理条件」より弱いうのがよくある立場なのだけど、ウィリアムソン的な立場をとると、主張可能性はむしろ真理条件より強くなる。私たちは自分が主張可能性を満たしてるのかどうか多くの場合知ることができない。

批判

以前読んだマクファーレンのウィリアムソン批判を改めて読み返した。マクファーレンは真理ルールで十分だという立場。
John MacFarlane「主張とは何か」 - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

  • 区別の議論について: 推測が真理ルールに従うのは嘘だろう。真なことしか推測してはいけないというルールは強すぎる。適切なルールはせいぜい、偽な推測は撤回せよというものでは。
  • くじの議論および日常会話の議論: 信念に関する知識ルール(知っていることだけを信じよ)を認めよう。真理ルール+信念に関する知識ルールだけで、問題の事例は説明できる。

あんまり深い対立ではないけど、マクファーレンは主張の「撤回」をすごく重要視するので、主張の撤回に関する構成規則があり、そこは重要な違い。マクファーレンだと、私たちは一回主張して終わりではなく、撤回するまではその主張を擁護する責任があるんだよ。もちろんそれは理想化されたルールで、実際はもっと適当に運用されるのだけど。