読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

スタンフォード哲学事典「フィクション」

fiction

少し前に読んだ。フィクションの意味論と存在論に関する記事としてはわりとバランスがとれていてよかった。

Fiction (Stanford Encyclopedia of Philosophy)
著者はFred Kroon, Alberto Voltolini

  • 1. 虚構的なものの形而上学
    • 1.1 可能主義
    • 1.2 マイノング主義とネオマイノング主義
      • 1.2.1 マイノングの対象の理論
      • 1.2.2 標準的・非標準的ネオマイノング主義
      • 1.2.3 二つの性質の種類vs二つの述定のモード
    • 1.3 創作説
  • 2. 虚構的なものの存在論

著者は、虚構の形而上学(キャラクターはどういう存在者か)と、存在論(キャラクターはそもそも存在するか)をわけている。
前半は、諸々のキャラクター実在論で、シャーロック・ホームズがどういう存在者か、つまり虚構の形而上学の問題について検討される。
「ホームズは人である」「ホームズは探偵である」は、何らかの意味で正しいように思えるが、ホームズという人が文字通りの意味で存在しないことはみんな認める。そこでどう考えるか。


キャラクターの形而上学におけるバリエーションは

  • 1. ホームズは、可能世界で人である(可能主義)
  • 2. ホームズは、人であるという核性質を例化する(核マイノング主義)
  • 3. ホームズは、人であるという性質を符号化する(ザルタなど)

2だとホームズは存在しないけど、「人である」という核性質を例化する。核性質は存在しないものでも持つことができるような性質らしい。
3だと普通の性質なんだけど、例化じゃなくて、符号化[encode]する(内的に持つわけではないが、外的に持つ)。


1の問題点は、ホームズが可能世界にいるとして、その中からただひとりのホームズを特定する方法がないように思われること。なぜかわれわれは可能世界にいる特定の人を指示できるとするか、ホームズの候補が無数にいるかどっちかになってしまう。
もう一点問題は、この立場だと、そもそもホームズは人であるのではなく「人でありえる」「探偵でありえる」だけになってしまう。しかし「ホームズは優秀な探偵である」のと「ホームズは優秀な探偵でありえる」のは全然違うのではないか。
2の問題点は、キャラクターを性質の集合で個別化するのがそもそもできないように思われること。異なる作品に現われ、それぞれのストーリー上はまったく同じ性質を持つが、別のキャラクターであるという場合もあるのではないか。
3はマイノング主義との組み合わせなどでも生じるけど、創作説(キャラクターは人間が作った人工物という立場)でも3を取る。


あと後半は、キャラクターの存在にコミットしない意味論的立場として、記述説とフリ説が検討される。記述説だとキャラクターの名前はほんとうの名前ではなく記述の束だということになる。フリ説だとキャラクターへの指示は、「この作品において、ホームズは探偵である」というプレフィックスつきの発話か、メイクビリーブという特殊な態度になる。
長くなるのでこの辺の詳細は紹介しない。