Page「心から独立を明確化する」

http://philpapers.org/rec/PAGMDS
Page, Sam (2006). Mind-independence disambiguated: Separating the meat from the straw in the realism/anti-realism debate. Ratio 19 (3):321–335.

現実は心から独立したものか、それとも心に依存したものなのか。この論点は、実在論反実在論の論争では中心的なものだ。ローティ、パトナム、グッドマンら、形而上学反実在論の人々は、現実は心から独立したものではないという立場を擁護している。しかしどの意味で、「心から独立」と言っているのかは明確ではない。なので、心から独立という意味を区別していきましょう。

存在論的独立
お金、国境、税法、速度制限など社会的現実は、人々に存在論的に依存している。もし人が存在しなくなればこれらのものはただちに消え失せるだろう。しかし山や岩はそうではない。人が消えても山や岩は残るだろう。山や岩は心から存在論的に独立している。

自然の世界がこの意味で心から独立していないという人はあまりいない。ローティも、存在論的独立は認める。

因果的独立
人間が作ったから存在するというものがたくさんある。野球ボールや高層ビルやランプは、人間が存在しなくなっても存在するかもしれないが、人間がいなければ存在しなかったという意味で、因果的に心に依存している。しかし石や山や星や恐竜は、心に因果的に依存しているわけではない。それらは人間が作ったものではない。

グッドマンは「世界は人が作ったものだ」という見解を確かに認めている。しかしローティやパトナムは、因果的独立は反実在論と関係ないということをはっきり認めている。

世界は元来不定形で、人がそこに構造を課すという見解もある。反実在論の見解は構造的独立に反対するものと解釈できるかもしれない。

構造的独立
人から独立に構造を持つものは、構造的に独立している。山は構造的に独立している。山は人が存在しないとしても、それが現に持つような物理的特徴を持つだろう。一方、完全に不定形で、人がそのすべての構造をそれに課すようなものは構造的に依存している。雲やオーロラを考えよう。これらのものは不定形だが、人がそこに様々な形を見出す。現実のすべてが実はそういうものなのかもしれない。

反実在論の見解は、因果的に独立および構造的独立に反対するものと見なされてきた。一方実在論者は常識の擁護者として、現実の世界はわれわれが創造したものではないし、心から独立に構造を持つと反論してきた。しかし、反実在論が実際に反対しているのは、別のものではないだろうか。

個体的独立
われわれがどこに線を引くかとは独立に、何かが個物や種として境界づけられるとき、それは個体的に独立していると呼ぼう。月やリンゴやグリズリーベアや真珠は個体的に独立しているかもしれない。北極グマのような種も個体的に独立しているかもしれない。一方、星座や虹は個体的に独立していない。星座や虹をどのように切り分けるかはわれわれが決めたことだ。

個体的独立と構造的独立は区別される。虹が何色かとか、虹の境界は心に依存して決まるが、それは心から独立に構造を持つだろう。
ローティ、パトナム、グッドマンの見解は(実際曖昧だが)、個体的独立に反対するものと受け取れるように思われる。不幸にもこの区別は見過ごされてきたが、ちゃんと区別した方がいいだろう。