Andy Egan「相対主義的な価値の傾向性説」

http://philpapers.org/rec/EGARDT
Egan, Andy (2012). Relativist Dispositional Theories of Value. Southern Journal of Philosophy 50 (4):557-582.

  • 1. 序
  • 2. 価値の傾向性説の一般的形式
  • 3. 価値の傾向性説の大問題: 収束しない
  • 4. 評価的な思考についてのde se傾向性説的説明とそれがどう助けになるのか
  • 5. 主張におけるde se内容と評価的語りにおける不同意と衝突
  • 6. 思考における不同意
  • 7. 結論

価値の傾向性説では、価値は以下のように分析される。

xは価値がある iff 私たちは状況CにおいてxにRをもつ傾向がある。

例えば、何かに美的価値があるとは、あれこれの理想的条件が整ったときに、それは快楽をもたらす傾向がある等々。これはだいぶ単純だが、説明のため、とりあえずこの分析を例にあげる。
価値の傾向性説には、認知主義的である(「美しい」「正しい」についての判断は真偽をもつ)、自然主義と両立するなどの利点がある。
一方、価値の傾向性説の大問題は、ほとんどの価値に関して、私たちの傾向性がまったく一致しないことだ。
例えば「xは美しい」が真であるのは、「xが理想的状況で私たちに快楽をもたらす」ときであるとしよう。しかしこの場合、「xは美しい」の現実の使用が真であることはほとんどない。理想的状況(リテラシー、知識)などをどのように限定したとしても、誰もが快を感じる芸術作品など果してあるだろうか。
これには簡単な解決がひとつあって、「価値がある」は実際には、暗黙の指標的表現であるとすればよい。

xはF価値がある iff Fは状況CにおいてxにRをもつ傾向がある。

例えば「この絵は美しい」は実際には「私にとって美しい」などのことを意味する。しかしこの場合、不同意は失われる。「美しい」「いや、美しくない」などと議論をするとき、私たちが何をやっているのかはほとんど意味不明になる。「この絵は私にとって美しい」「いや、この絵は私にとって美しくない」と言い合う人たちは、「私の名前は太郎だ」「いや、私の名前は太郎ではない」と言い合う人たちが実際にはまったく対立していないのと同じように、不同意の状態にはない。
つまり、ここには「多くの価値判断は真である」という直観と、「価値判断は対立する」という直観の二律背反がある。唯一の正しい答えがあるとすれば、多くの人は間違っている。人それぞれの答えがあるとすれば、対立は意味を失う。


Eganさんはde se相対主義と呼ばれる立場をとることで価値の傾向性説を改善しようとする。de seは自己に関するという意味。
「私は太郎である」という自己知を考えてみよう。これは、「太郎は太郎である」と同じではない。後者はトリビアルであるが、前者はもっと実質的な認知を含むからだ。例えば記憶喪失状態で、「なんとこの私が太郎だったのか」と発見する人を想像しよう。この種のde se信念は、しばしば〈xは太郎である〉という性質の自己付与であるとされる。「私は太郎だ」をde se的に信じる人は、〈xは太郎だ〉を自己付与する。


Eganさんは価値語もde se内容を表現すると考える。「この絵は美しい」と信じることは〈この絵はxに快楽を生じさせる傾向にある〉という性質を自己付与することである。私たちは「この絵は美しい」と主張することで、実際には〈この絵はxに快楽を生じさせる傾向にある〉というde se内容の自己付与を表明している。
しかしこの説には大問題があって、この立場だと上の不同意の問題が大して解決しない。〈xは太郎だ〉をde se的に自己付与している人と、〈xは太郎ではない〉をde se的に自己付与しているもうひとりの人を考えよう。普通両者は不同意の状態にはない。
Eganさんは、(不十分かもしれないと認めた上で)価値語の場合、対話相手が関連する点で似ていれば、「私たちはこれを自己付与すべきだ」「自己付与すべきではない」という対立がありえるのではないかとしている。また、スタルネイカーの主張論をde se内容に拡張することで、de se内容の主張を意味づけられるのではないかとしている。