何故ただ一つの客観的世界だけが

意味の限界―『純粋理性批判』論考意味の限界―『純粋理性批判』論考


ストローソンの『意味の限界』を読んでいる。
少し前に『純粋理性批判』を読んだので、せっかくなので読もうということで読んでいる。
この本の主たるプロジェクトは、『純粋理性批判』の議論を、カントの心理学的記述や当時の物理学から引きはがし再構成することだ。


まだ前半しか読んでいないのだが、ストローソンが再構成する「分析論」の主要な議論は以下のようなものだ。そこでは、おおよそ、われわれのような主体がものを認識するときに成り立っていなければならない条件が探求される。ストローソンは、カントのプロジェクトを、それなしではもはや理解可能な経験とは見なされないような、基本的な概念枠組の探求として再構成しようとする。
例えば、以下のような感じだ。

  • 主体がものを認識するということが可能であるためには、主体の意識は統一されていなければなりません。
    • 意識の統一とは、複数の知覚が同一の主体に属するものとして経験されるということです。
  • 意識の統一には、最低限の反省能力が必要です。
    • 対象と、対象が経験される際の経験のされ方を区別することができなければなりません。
  • また、意識の統一が成り立つには、経験の時間的順序と、経験される出来事の時間的順序を区別できなければなりません。
    • 例えば、右を見て、左を見た場合、「右にあるものの視覚経験→左にあるものの視覚経験」が順番に生じます。そういう単なる経験の連鎖と、「手を離す→ものが落ちる」という出来事の連鎖を区別できなければなりません。
    • それができるためには、経験されるものが時間の中で持続し、再認される対象であることが必要です。

こんな感じで、われわれのような主体がものを認識するために必要なミニマルな条件が探求され、しかもそこにはかなり多様なものが含まれていることがだんだんわかっていく。

ただひとつの時間と空間

カントは、「すべてのものがただひとつの時間と空間のなかに含まれること」もまたこうした条件のひとつだと考えていた。『意味の限界』の3章の最後の節「何故ただ一つの客観的世界だけが」というかっこいいタイトルの節で、ストローソンはこれを批判し、しかしその一部を認めている。まえおきが長くなったが、そこの議論がおもしろいので紹介したい。

まず、われわれは複数の空間があることを、一応可能性としては想像できるように思われる。例えば、この世界の中には複数島宇宙があり、それらはお互いに、いかなる空間的関係も持たないし、因果的に関係しない。一方から一方に行きつくことは不可能である。こういったシナリオも一応考えてみることはできるし、論理的矛盾を含むわけではないように思われる。
しかし、ここで知りたいのは、「経験が可能であるために必要な条件」である。よって、われわれが知らないだけで島宇宙があるかもしれないという可能性は、それが経験されるものでないかぎりはあまりこの議論と関係ない。問題は、いかなる可能な経験も、ひとつの空間と時間のなかで生じるのかどうかだ。
ところが、複数の隔絶した空間を経験することもできるように思われる。例えば、昼はこの宇宙にいるが、夜は全員別の島宇宙にワープするということが繰り返し生じるとしよう。われわれは調べた結果、「昼の世界」と「夜の世界」の間にいかなる空間的関係もないことを見出すかもしれない。これも、可能な経験ではあるように思われる*1
しかし、ここでは公共的な条件が成り立っていなければならないとストローソンは反論する。たとえば、島宇宙にワープするのが私ひとりだったとしよう。この場合、私の経験は単なる夢や想像と区別がつかないだろう。このとき、隔絶した空間の経験は、ただひとつの空間の経験に比べ、私秘的であり、確かさをもちえないものになってしまう。


したがって、複数の人が島宇宙にワープするという条件が成り立たなければ、隔絶した空間の経験は生じえない。あるいは、もうひとつの空間について、証拠にもとづいて語るなどといった相互作用が必要になるだろう。少なくともその場合、私たちの経験は、ただひとつの空間ではないが、ただひとつの公共的世界で生じる。あるいは、少なくとも複数の空間が複数の空間として確かに経験されるためには、それは体系的に統合されなければならない。

*1:ストローソンは複数の隔絶した空間が交互に経験されるシナリオと、普通の知覚経験にくわえ、別の知覚様式を含む別の世界の経験が生じるというシナリオのふたつをあげている。ここであげているのは前者にあたる