Powell, Brian K. (2005). Revisiting Nagel on altruism. Philosophical Papers 34 (2):235-259.
- 作者: Thomas Nagel
- 出版社/メーカー: Princeton Univ Pr
- 発売日: 1979/03/01
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ネーゲル『利他主義の可能性』の批判論文*1。ネーゲル『利他主義の可能性』は一応読んだのだが、よくわからないのでこういうのも読んだ。
ネーゲルは、理由は人称中立的だという立場だった。例えば以下のような2つの文を考えよう。
- 踏まれると私の足が痛いので、私には足を踏まれるのを避ける理由がある。
- 踏まれると太郎の足が痛いので、太郎には足を踏まれるのを避ける理由がある。
1のような一人称の文に対応する判断を受け入れるとき、人は行為へと動機づけられる。
では、2のような三人称の文はどうか? ネーゲルによれば、1に含まれる動機づけ内容は2にもすでに含まれているのでなければならない。2のような判断を受け入れるとき、私は自分が太郎であるにせよないにせよ、太郎が足を踏まれないという事態を促進する一応の理由をもつ。自分が太郎であった場合、私は足を踏まれないようにする理由をもつし、自分が足を踏みそうな人だった場合、私は太郎の足を踏まないようにする理由をもつ。ネーゲルの立場では、これらはすべて2のような無人称の判断から派生する理由である。
ここから、自分の理由に反応することも、他人の理由に反応することも、本質的には変わらないというような一種の利他主義が出てくる。
『利他主義の可能性』については以前もちょっと書いた。
ただしネーゲルがどういう議論でこれを論証しようとしているのかはわかりにくい。
著者は、まずネーゲルが排除しようとしている立場を、IMI独我論と呼ぶ。IMI独我論(非人称の動機無効独我論impersonal motivational impotence solipsism)とは、自分の一人称の観点にのみ動機づけ内容を認めるような立場であるとされる。
著者はネーゲルの論証を次のように再構成している。IMI独我論は、自分自身を他人たちの中の単なる一人の人間にすぎないものとして捉える理解と相容れない。しかし、自分自身を他人たちの中の単なる一人の人間にすぎないものとして捉えることは避けられないため、理由の人称中立性と利他主義が要請される。要するに、自分が倫理的特異点のように扱わないと自分の視点を特別扱いできないだろうという感じだ。
その上で、著者は、行為者相対的実践的原理だけを採用しても、自分自身を他人たちの中の単なる一人の人間にすぎないものとして捉える理解と両立するのではないかと反論している。
個人的には、判断の動機づけ内容など、ネーゲル独特の言い回しがよくわからないので*2、反論がうまくいっているかどうかもよくわからないといった感じだ。その辺はもう少し整理してほしかった。あと、時間論の部分をショートカットしているのは残念。エゴイズムに対する強力な反論として、「エゴイズムってそもそも通時的自己同一性が成り立たないとどうしようもない」というネーゲルからパーフィットに受け継がれた重要な論点があるので。